カテゴリ:著名人紹介
山梨県 若尾逸平 『新人国記』
朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
最初はてんびん棒一本の行商から、開港まもない横浜にかけつけて生糸相場巨利を積み、一代たちまち、明治の冨豪になった。小柄な醜男だが、勝気、がん健、機敏。甲州財闘に相応しい伝説的人物である。 明治二十年代、東京市電の前身である東京馬車鉄道株の買占め。続いて東京電灯を乗っ取り、成長産業の重役室に入る。出社すると、いつも入口で事務員たちに一礼し 「どうもへえ皆さん、だんだんとおかげで」と、あいさつした。 財界に「甲州財閥」の名が出はじめたのは、このころ。甲州出身の事業家たちが、若尾を中心として群れをなし、力ずくで既成財閥と争った時代だ。とくに東電は、以後昭和の初めごろまで、佐竹作太郎、神戸挙一、若尾璋八ら若尾系が歴代社長を独占する。 逸平の弟・幾造 横浜生糸界に勢力を築いた横浜若尾の祖。いま五代目が若尾ビル、若尾貿易などを経営している。
山梨県 小池国三 『新人国記』
朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
少年のころから甲府の若尾商店に奉公し、若尾の秘書格で生糸や株の買い占めに奔走、のち独立して今日の山一証券を創立(倒産)。山一という商号は、若尾の商号〈市〉からとった、と伝記にある。 二代目・厚之肋が、いま山一会長。六四歳。東大からオックスフォード大に学び「証券界の絹のハンカチ」とも評される温厚、堅実な紳士だ。 ところで、開祖・逸平は大正二年、九十四歳で死去。同七年、米騒動で甲府の店を焼かれたうえ、昭和三年の犬恐慌で倒産。若尾家の豪壮な墓を甲府でみた。荒廃していて、いまは、お参りする人もないという。
山梨県 雨宮敬次郎 『新人国記』
朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
行商から崩浜の糸・洋銀相場へ、コースは若尾と同じだが、より豪放な勝負師。胸を患って血を吐きながら、栄枯はなばなしい一代である。 明治元年、欧米を旅してフロックコ-トで帰るや、「わしは人より少しく先が見える傾きがある」といい「文明的」諸事業を開拓した。織機、製粉、牧場、製鉄、水力発電、電気鉄道。また、明治三十六年開通した中央線の県立業者。権利を政府に譲るのに条件をつけ「わしの邸の前を通せ」。おかげで笹子トンネルを抜けた中央線は甲府に直行できない。雨宮邸のある塩山までUの字型に遠回りすることとなったのだ、という。若尾と雨敬 甲州財開創業期の両雄。しかし、雨敬も息子の亘が旱世して、一代で終わる。
山梨県 広瀬久忠 篠原忠右衛門 『新人国記』
朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
広瀬久忠、雨宮家の亘、若尾家の璋八、このふたりは、ともに塩山市の名門・広瀬家から養子にいった実の兄弟。その甥で広瀬家の当主というのが、このひと、広瀬久志。 内務官僚から戦中の厚相。戦後、参院議員。憲法改正「広瀬試案」をつくり、いま憲法調査会委員。七十四歳。また久忠の弟・名取忠彦は山梨中央銀行頭取。
篠原忠右衛門
石和町東油川の豪農。安政六年、隣村の川手五郎左衛門と連合して、生糸売込問屋「甲州屋」を横浜にひらく。奮闘むなしく、明治八年潰れてしまうのだけれど、新しい横浜市史では、どうも、この二人こそ甲州財閥の始祖らしい。若尾・雨敬も、はじめは「甲州屋」でワラジを脱いだのではないか。 「甲州屋」の記録が残っている。甲州から出て来て、まず、幕府に横浜に借地を願出るのだが、三井をはじめ門閥、特権商人への地割りが絶対優先で、無名の甲州商人なんか相手にしてくれない。幕府天領で、殿様という後ろ盾を持たぬ国の悲しさだ。しかし、生きねばならない。何回となく要路へのつけ届けも重ねて、やっと駿河星や伊勢屋の間に割込ことができた。と、記録にある。 中央に出れば、傍系、無名、立ち遅れ。戦うには、つけ届け、買占め、乗っ取りの井常手段をも辞さぬ度胸だ。百年前の「甲州屋」奮闘録は、そのまま、あと何日まで続く甲州財閥の性根のきびしさにつながっているように思われる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月13日 05時17分01秒
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