カテゴリ:山梨の歴史資料室
山梨県 ボロと王様 『新人国記』
朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
ボロと王様
甲州財閥百年の奔流を五期に分けて、第一期、創成の雄が、前回見た、若尾・雨敬――清流ではなかった。嵐に濁りをのんで、がむしゃらな勝負、また勝負。一代たちまち栄え、そして、たちまち滅びた。 同じ流れが、第二期、より精力的で、いちだんと才はじけた後継者たちを送り出す。 まず、根津嘉一郎 山梨市の豪農に生れ、四十歳近くまでは、地方政界の暴れん坊。 「生命をかけるなら、政治より事業だ」と教えたのが雨宮敬次郎。 「株は運と気合い。買うなら乗り物と灯りだ。どうだい、君」。すすめたのが若尾。親ゆずりの山地を金にかえ、上京する。 乗り物は、はじめ船。友人の浅尾長慶らと日本郵船の乗っ取りを策し、これは失敗した。「ダメさ。三菱が相手じゃケンカにならん」。 長慶の子・新甫の、今日の評だ。 じつは当時、そんな先代の失敗を知らずに、浅尾新甫東大を出て、サラリーマンとして郵船に入社、戦後、社長に昇進する。現・会長、六十九歳。 根津は、船から鉄道に乗り加え、九州鉄道、甲武、総武、房総、東武……。どれもこれもボロ会社だったので、世間はいう。「ボロ買い根津」また「ボロ嘉一郎」。 ところが、根岸の手腕は、回収した会社を片っ端から見事に起死回生させる。後には全国二十四私鉄を支配下におき「鉄道王」とも呼ばれるほどになった。「ボロから王様」へ、である。 明りは東京電灯。若尾らの乗っ取りに加わり、若尾死後は、根津が東電の影の支配者だ。 昭和初め、若尾逸平の後継・若尾璋八の積極・放漫経営がたたって、東電株の下落。とうとう、三井、三菱、安田、三財閥連合軍に、この甲州財閥の座を明け渡すことになった。根津は財閥と、その番頭たちに向って啖呵(たんか)をきる。 「御三家がなんだ」「君たちは雇人じゃあないか」そういう根津を、まるで悪党のようにいう人がある。 「酷評の出所は財閥だろう」と、これは松永安左衛門の説。 「財閥や財閥の擁護者にとって、根津は邪魔で、まだ扱いにくい存在だった。根津も無理はしたろう。 しかし、生きるためには仕方ない。それを悪いというなら、大きな財閥だって、同じことがいえるんだ」 横浜・甲州屋以来の、これが甲州財閥の宿所なのである。 だが、同じ根岸系事業である日新紡から宮島清次郎(栃木県人)、桜田武(広島県人)、また根岸が創立した富国徴兵保険から小林中。この三人が出て、戦後は財界上流を占める。ある種の因果といったものを、読む人は読むかもしれない。 早大を二年半で中退、遊んでいた小林中を、創立まもない富国徴兵の部長にすえたのは根津。小林の祖父・伝右衛門と根津とが郷里で親友だった関係である。 持株整理で、ある日、根津社長と小休の意見が対立した。「バカヤロウ」。根津は激怒した。 「小僧、出すぎるな」。イスを振上げる根岸。だが、小林は謝らない。社長室で二人だけの二時間余り。 「こわかった」と、小林の思い出話だ。 「しかし、それ以来すっかり信用され、重役を通さずに盲版をついてくれるようになった」
富国徴兵、いまは富国生命。社長室に、初代・根津、二代目・吉田義雄、三代目・小林中、四代目・佐竹次郎、歴代社長の写真が掲げてある。四人とも甲州人。 五代目の現社長・森武臣(東八代・境川村)は昨秋死去した俳壇の元右・飯田蛇笏の実弟。六十歳。東北大を出て東電。御三家と争った若尾璋八をかばって左遷され、退社。四年後、根津のヒキで富国へ。
根津二世 嘉一郎を襲名して現・東武鉄道社長。四十九歳。父に似ず、地味、淡々とした学者肌。 「タカが生んだ小バト」の評もある。 ほか、根津系に関東ガス社長・河西豊太郎、東京に初めて地下鉄を走らせた早川徳次。 根津の遺産に、七年制武蔵高校(いまの武蔵大学)。青山の邸跡が根津美術館。 奈良の古美術商をのぞいて「よし買った」。いまなら億をこえる値で一応全部を買占め、十五トン貨物で運ばせたりする。趣味の開館でも根岸は豪放、闘争的だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月13日 12時27分50秒
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