カテゴリ:韮崎市歴史文学資料室
メカチャカもん ボロと王様
朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
ボロと王様
下り中央線が甲府を過ぎると、正面に甲斐駒、白根山、右手に茅ケ岳、スイッチ・バックを繰返しながら、山また山の難路をいく。その入り口に韮崎。駿信還に沿った古い宿場町だ。 ここがまた、すぐれた財界人の産地で、若尾・雨宮・根津ら甲州財閥主流とは少し肌合いの異った、いわば別派をつくる。
小林一三 町いちばんの豪商「宿屋」の坊ちゃん。柄は小さいが、土地の言葉でいう「メカチャカもん」。リスのようにすばしこく、利口で、鋭い。 甲州財界人としては、かなり風変りな門出だった。十五歳で上京すると、さっそく(兜町へではなく)浅草に通い、ジンクに涙を直す。慶応在学中から劇評、小説を書き、作家志願。卒業すると、いやいや三井銀行へ。最初から出世するつもりはない。無愛想で、あそび人で、小説は・書く、上役の無能はヅケヅケ攻撃する。当然、不遇なサラリーマン暮しだった。 三十三歳、大阪で事業をはじめる。箕面有馬電軌、のちの阪急電鉄。----若尾・根岸をはじめ、当時、東京・横浜でなら甲州財閥の地盤があった。大阪には何もない。ないが、甲州財閥の血は、。この文学青年にもよみがえる。そして何よりも、メカチャカもんの才が光った。 「早うて、ガラアキ、阪急電車」 一三が自分で書いた開通の日の宣伝文から異色だった。 「人間を運んで金もうけるだけなら、人力車夫の仕事だよ」 沿線に関連事業を興す。 今日でこそ当り前だが、土地、住宅、私鉄の沿線開発というのは、それまではだれも思いつかなかった。小柊一三の独創である。ターミナル百貨店。これも一三の独創。宝塚の少女歌劇。むろん、一三の破天荒な発明。宝塚の東京公演に始まる、有楽町娯楽街や株式会社・東宝の設立。
いったい、甲州財閥の特性に二つの要素かおる、といわれる。第一に投機、第二に創意。創意の代表が一三。これは問題ないとして、一方の投機を小林は強く戒め、逆に、肌理の絹かい、徹底的な合理主義の経営を貫く。 手腕を買われ、昭和二年、三井系代表として東電の立直しにかかった。のちに社長。東宝は、若尾璋八らの放漫経営がたたって、甲州財閥が明け渡した城。そこへ、一三という別派の甲州財閥が跡始末にはいった形になった。 若尾、根津の時代 から小林一三時代へ。----豪放放なサムライ型事業家から、理想家膚の近代的経営者へと、甲州財閥が脱皮する過程でもある。
韮埼・メカチャカもんの系譜
ほかに----一三の大先輩で、縁続きでもある小野金六。十二、三歳のころ家業の酒屋を預かって抜け目なく切り回した。商才を見込んだ若尾逸平が「養子にほしい」と申込む。金六は断り、のちに身延鉄道、富士製紙、東洋製缶などを創業。 金六の甥・岩下文雄。やはり甲州財閥の縁故には頼らず、東大から一サラリ-マンで東芝に入社して、いま東芝社長・七十二歳。 また、金六の先輩・栗腹信近(韮崎市穴山)。明治はじめ、第十銀行(いま山梨中央銀行)を創設した人。その外孫にあたるのが水上達三。俊敏「ハヤブサの達」の名があり、物産解体後の再建・合併レースに勝ち残って、いま三井物産社長。五十九歳。 韮崎市からは外れるが、同じ流れに----一三の縁続きで、古河鉱泉会長・石炭経協会長の新海英一。(竜王町)。一三の子飼いで、阪急百貨店社長・日本百貨店協会長の野田孝(竜王町)。東電で一三を知り、一三に育てられた水資源開発公団総裁・進藤武左ヱ門(小淵沢町)ら。 甲州という國は、まったく、どの町どの村を歩いても、財界人の山また山である。 塩山市に、小林一三の異母弟が三人。田辺七六は元政友会幹事長。同宗英・元後楽園社長。同加多丸・元東宝社長。いずれも故人。七六の次男・国男は自民党代議士で家業の田辺酒造社長。
田辺酒造の番頭から「笹一酒造」を起こし、いま、知事四期目の天野久(塩山市)。 小林一三は三十二年、八十四歳で死去。次男・松岡辰郎が、いま東宝会長。三男・小柿米三が阪急電鉄、関西テレビの社長。 「助け、詣け、働け」----これが、父の教えでした、と米三はいう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月13日 05時16分11秒
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