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山梨出身の著名女性
『新人国記』朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
世界一。八十三連勝。東洋の魔女。とりわけ、その根性。 徴しい練習ぶりを映画でみて、プロ野球の選千加奮起したという。世界一を爆われた柔道の、どことかのチームも見にいった。また、警察の機動隊が見学して、うなってしまった、とも聞いた。 女子バレーボール日紡貝塚の、話題の練習風景を、大阪でみる。 体育館にはいると、休みない球の雨だった。磨き上げた床板に、キ-ツ、キヤ-ツ、悲鳴がよく響く。転ぶ。滑る。 「鈍クソ、だれもシリつけ、いうてへんで」 監督の低い怒声だ。初年兵生活の体験者なら、すぐ気がつくだろう。あの軍隊独得の鍛え方に、そっくりなのである。 「死んでもいけ、死んでも」 床板に激突した選手に向かって、ひとしきり、監督は球の年中攻撃を浴びせた。 「お前、なにグズグズいうてんね」 半ベソの顔面に、一発、強い球。 「なにい? 戦場でチョット、チョットいうてたら、殺されるがな、アホウ」 こんどは、うんと弱い、意地悪な玉---- 何んともすさまじい恐怖劇に見えて、急にケラケラ娘らしく笑いころげたりするのだけれど、なかでひとり、ほとんど表情を変えない選手が居た。ころんでも、球をぶっけられても、悲鳴一つ立てない----主将河西昌枝。甲西町の農家に生れ、巨摩高校から日紡。はじめは全然、鈍クソ。十年間、この徴しい訓練に耐えぬいて、いま、チームの心棒だ。
越路吹雪
西欧的豪華さと、お茶漬け的哀愁とを一身に合わせ持っているという。この人も甲州産の魔女。 やはり、はじめは不器用だった。宝塚を昭和十四年の初舞台で、売れ出したのは、戦後。一種不良っぽい味で、まず中年の奥さま連を夢中にさせ、ついで二十六年、奉豊吉の「モルガンお雪」で、男性、知識人の問でも熱狂的ファンをとらえた。 だが、いったい、越路吹雪のホソトの能力は、何かのか。そして、だれもまだ、この不思議な女優のすべてをトコトン舞台に生かしたことがないんじゃないか。----いまでも、何人かの冒険好きで野心的な製作たちの間で、それが共通の宿題になっている、とも言われる。「フッフ、そんなの、何もないな」と越路。「バランス、が、ちょっと傾いてるだけなのよ、私」 ごく親しい友だちに、たまに越路がふるまう手料理「ほうとう」。サトイモ、大根、ニンジンを味噌で煮て、硬く捏ねたウドン粉を落とす。米の乏しい郷里に伝わる、素朴な昧。東京生れだが、両親が甲州。夫・内藤法美も甲州塵。
ヨネヤマ・ママコ
戦後ずいぶん不思議な女が現れては消えたけれど、このひとも、かなり上位のほうだろう。アゴから手首、足首、クネクネと踊るマイム。契約結婚とかは、たちまち破れて、いまはアメリカ。見延山は山門わきの旅館の生れ。
むかし樋口一葉、朴烈夫人・金子文子。暗い痩せ地から、魔女、烈女は生まれるのだろうか。
〔註〕 朴烈夫人・金子文子 朴烈事件(ぼくれつじけん)は、1923年に逮捕された朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人(内縁の妻)である日本人の思想家の金子文子が皇室暗殺を計画したという大逆事件と、その予審中の風景を「怪写真」として世間に配布させて野党の立憲政友会が政府批判を展開したという付随する出来事である。 朴烈・文子事件とも言う。----出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村岡花子
甲府市の商家に生れ、東洋英和卒。本職は児童文学、とくに「赤毛のアン」はじめ名作の翻訳紹介。ほかに東京婦人会館理事長、日本ユネスコ協会連盟副会長、中央青少年問題協議会委員、郵政、通産、文部各省関係の審議会員など、いよいよ幅ひろく精力的な活動家である。 昭佃ヒ年から足かけ十年問、JOAK(NHK東京のコールサイン)「子供の新聞」を一週間交代で担当。放送の結びに云う「さようなら」が独特の節回しがあって、子どもたちばかりでなく、たいへんな人気を集めた。 ある日九州から子供の写真入れた手紙が屈く。 「おとといの晩この子は死にました。臨終のときスイッチを入れ、あなたの「さようなら」を聞くと----『ああ、今夜はおばさんの番でよかったね』そういって、満足そうに旅立ちました。子供にかわって、お別れの挨拶をします。----さようなら」
「女は二度生れる」でブル-リボン賞の女優・若尾文子(父親が身延町)、婦人公論編集長・三枝佐枝子(甲府市)、全国未亡人団体協議会会長・中村はつ(鰍沢町)。
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最終更新日
2021年04月12日 17時02分18秒
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