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2019年06月30日
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「縁故節」と「島原の子守歌」手塚洋一氏著 

 

『甲斐の民謡』ふるさと文庫所収

 

縁で添うとも 縁で添うとも

柳沢いやだヨ

アリャセー コリャセー

 

女が木をきる 女が木をきる

茅を刈る ションガイナー

アリャセー コリャセー

 

河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ

鐘が鳴ります 七里ケ岩

 

縁の切れ目に このぼこできた

この子いなぼこ 縁つなぎ

 

縁がありゃ添う なかれば添わぬ

みんな出雲の 神まかせ

 

駒の深山で 炭焼く主は

今朝も無事だと 白煙

 

来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど

ぬるいお茶でも 熱くする

 

 

 註    

柳沢……武川村柳沢。もとは駒城村(現白州町、釜無川の支流大武川の右岸で、鳳風山麓の山村。柳沢吉保先祖の出身地。

 七里岩……八ケ岳の泥流が金無川の浸食をうけてできた断崖。長野県境から韮崎まで約二七キロに及ぶ景勝の地。

ぼこ……甲州方言。赤ん坊・子供。

 いなぼこ……変な子。妙な子。

 駒の深山……甲斐駒ケ岳

 

 

島原の子守歌は山梨「縁故節」の模倣

 

 

「縁故節」は「馬八節」「粘土節」とともに甲州の代表的な民謡の一つで、踊り唄あるいは座敷唄である。

この唄は大正の末韮崎町(現韮崎市)で誕生した。大正十一二年韮崎の有志によって、町を、鳳凰山とそれに続く南アルプス連峰の登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。

 初代会長は歯科医師の小屋忠子(後に県会議長)で、郵便局長の柳本経武、穂坂村の平賀文男(号月兎、後に県会議長)等が協力者であった。「縁故節「はこの白鳳会の宣伝のために、前記三名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。編曲の過程で、三味線等の伴奏をつける関係もあって、曲は陽旋律から陰旋律に変化した。この間の事情は、この計画に参加した山梨県三曲連盟会長の植松和一氏が、同人雑誌『中央線』第八号に「縁故節四方山話」として詳細に述べておられる。

 このようにして出来た「縁故節」は、寿座という町内の芝居小屋で盛大な発表会が行われ、昭和三年九月六日には東京中央放送局(現NHK)から、放送事業間姶三周年記念番組民謡の部に、山梨県代表民謡として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。その時の出演者は、三味線芸妓勝利・尺八秋山計吉・唄芸妓照葉と植松輝吉・踊り水上修一の各氏であった。ラジオ放送に踊りがついていたのは、放送に臨場感をもたせるためであったと思われる。

 続いて、昭和十年十一月一十日には再び東京中央放送局から放送され、昭和十二年の暮れには甲府放送局開局記念に「縁故節」が全国放送された。この内昭和十年放送の出演者のうち植松逸聖(和一)・名取いく・佐野儀雄の三氏は現在も御存命で元気に活躍しておられる。

 このようにして「縁故節」は山梨を代表する民謡として全国に放送され、地元韮崎はもちろん峡北地方一帯では盆踊り唄として「エ-ヨー節」にとって替り、韮崎や甲府等の花柳界ではお座敷敷唄としてさかんに歌われた。

 

一番の歌詞「縁で添そうとも柳沢いやだよ」は、「エグエグ節」からの転用であるが、この歌の看板である。古歌

  「甲斐人の嫁にはならし事辛し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」

 

 と発想が同じに見えて、その意味するところは全く違う。

  「甲斐人の嫁にはならじ云云」

 は、東海道を旅する他国の人が、篭坂や御坂の峠越しに甲斐を想像して詠んだもので、異国人の冷たさが感じられる。

 しかし、「縁で添うとも……」は野山での苦しい仕事を思いながらも、なおかつ、ふるさとを愛するほのぼのとした温かさが感じられないだろうか。

「縁故節」ができるときこの部分を削除したらという意見があって、そのことを柳沢の人々に相談したところ、是非そのまま残してほしいとの意見であったというエピソードがある。

 歌詞の「シヨンガイナ」は「ションガイネ」とうたうこともある。意味については諸説があるが、「致し方ない、あるいは、仕様がない」と解すべきである そう解することによって前述の愛郷の心が生きてくる。

 

  縁故節と島原の子守唄

 

 両者の関係については、「縁故節」が「えぐえぐ節」を元唄として作られた時、その仕事に参加した唯一の生存者である植松和一氏(号逸聖、山梨県三曲連盟会長・韮崎市在住)が、同人誌『中央線』に、前後四回にわたって連載した「島原の子守唄は縁故節の盗作」の中で、概要は述べられているが、改めてとりあげたい。

 ただし、「島原の子守唄」の作者宮崎康平は、昭杣五十五年三月に死亡しておられるので、この問題をとりあげることは、死者にむち打つことにもなりかねないが、それは筆者の本意とするところではない。しかし、事実は事実として明らかにしておかなければならない。

 「縁故節」成立の由来については、「縁故節」の項で述べたし、前記植松氏の「縁故節四方上話」(『中央線』第八号)に詳細が述べられている。

 「島原の子守唄」は、宮崎の作家宮崎康平によって作られた歌謡曲である。歌詞は次の通り。

 

       おどみゃ島原の

       おどみゃ島原の

       ナシの木育ちよ

       何のナシやら

       何のナシやら

       色気ナシばよ ショウカイナ

       はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ

       鬼の池ん久助どんの

       連れんこらるバイ

       帰りにや寄っちょくれんか

       あばらやじゃけんど

       唐芋飯ゃ粟ん飯

       黄金飯はよ ショウカイナ

       嫁ごん紅な誰がくれた

       唇つけたならあったかろ

        (以下略)

 

 三番四番は、唐ゆきさんとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。

 作者の宮崎康平は、大正六年島原市生まれ。本名は一章。早稲田大学文学部卒。在学中東宝文芸課に入社、文芸・演劇活動を行った。昭和十五年長兄の死により島原に帰り、家業の南旺土木社長・島原鉄道取締役として経済的手腕を発揮する傍ら、九州文学同人としても活躍したj昭和二十五年過労がもとで失明、続いて乳呑児を残して妻に逃げられる等の不幸もあったが、その中発表した『まぼろしの耶時台国」によって新婦人和子氏と共に、第一回吉川英治賞受賞した。(講談社版『日本近代文学人字典』)

島原の子守唄が作られた時期は明確ではないか、昭和三十九年九月長崎市勝山小学校で開催された「第三回「九州のうたごえ」島原地区有志が、混声合唱で「島原の子守唄」を歌っているので、昭和二十五年から三十年にかけて、彼の家庭的不遇の時代の作と考えるのが妥当であろう。

       (彼自身は戦中の作といっているが、そのことについては後述する)

 

 昭和三十二年早大時代の友人森繁久弥が舞台劇、「風説三十年」の中でこの唄を歌い、

昭和三十三年島倉千代子子の歌でレコード化。

昭和三十五年、六年頃西日本新聞社主催 全九州民謡コンクール人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。もっとも、この投票には大々的な集票工作が行われたといわれている。

(ルポライターますやま栄一氏の調査『中央線』第二十四号)

この唄が電波にのる様になってから、これを聞いた山梨県人は、「縁故節」との類似に驚き、直接あるいは間接に両者の関係の糾明に関心が持たれた。

 このことについて、

昭和五十四年八月二十八日付、石川某(山梨県人)宛宮崎康平宛の書簡(以下宮崎書簡という)があり、氏自身の見解が示されているので、それを中心に考察を加えたいと思う。

 宮崎書簡は、「文芸春秋」昭和五十四年九月号誌上に掲載された、当時のNHK会良坂本良一氏の随筆「オロロンバイ」に対する、石川某氏の疑問に答えたものである。

 坂本会長の「オロロンパイ」は、同氏がソヴィェトを訪問した際にモスクワでの歓迎レセプションの席上で、随員の歌田氏が「島原の子守唄」を歌ったところ、歌詞の中のオロロンバイは、ソ連領コーカサス地方では揺篭を意味するところから、子守唄と揺竜の関連の不思議さに喝采を博したというものである。

その随筆の中で、坂本会長が、島原の子守唄を友人宮崎康平作詞作曲(坂本会長と宮崎氏は早稲田の学友)と紹介したことに対して、「島原の子守唄」を古い伝承民謡と理解し、「縁故節」との酷似を不思議に思っていた石川某氏は、そのことを坂本会長に手紙(昭和五十四年八月十四日付)で質問した坂本会長は石川氏の手紙をコビーして宮崎康平に転送したので、宮崎氏から直接返答が石川氏宛に寄せられたものである。

 

 書簡は長文であるが、主眼は「島原の子守唄の著作権を防衛することにあり、その為の強弁である。

 

 まず「縁故節」と「島原の子守唄」の前半(ションガイナまで)のメロディ―がほとんど同じであることを認め、その理由として戦時中に「ショウカイナ」までの部分を宮崎氏が作詞・作曲し、それが九州で流行したこと、大村の第二第二航空隊の仕事をしていた山梨県人の石工(宮崎氏の会社の使用人)が、戦後その曲を持ち帰り「縁故節」の歌詞で歌ったのが「縁故節」であるとし、「縁故節」には戦前歌詞はあったが曲はなかったとしている。

 

「縁故節」に対する認識不足も甚だしいといわれなければならないが、それ程までに強弁をしなければならない理由は、「島原の子守唄」の前半と「縁故節」とのメロディーの酷似が、偶然の一致とは到底考えられず、もし「縁故節」の曲が以前から存在したとすれば、「島原の子守唄」のオリジナリティーが疑われるからである。

 

事実は宮崎氏の言い分とはまったく逆で、戦時中から戦後にかけて「縁故節」のメロディ-(歌詞は替え歌)が九州各地で歌われており、本籍不明のこのメロディ-に目をつけた宮崎氏が若干の手直しを杣えて出来たのが「島原の子守唄」である。宮崎氏は

 

 囃詞「しょうかいな」は

   「なるほど」

   「もっとも」

 という意味の

   「そうかいな」

 を、幼児が

   「しょうかいな」

 

 というのをとったと説明し、宮崎氏の作った唄が流行し始めた頃意味のわからない人達が「ションガイナ」と歌ったものだといっている。そして、古い記録に残っている「縁故節」の末尾には「ションガイナ」は付いていなかったのではないか、といっている。これも認識不足で、「縁故節」の「ションガイナ」は元唄の「エグエグ節」の囃詞をそのまま受けついだものである。

 古い記録とは何を指すのか判らないが、昭和十一年刊、椎橋好の『甲斐民謡採集』には、「ションガイナ」がついている。

 「縁故節」の「ションガイナ」の意味は、宮崎氏の「ションガイナ」とは違ってもっと複雑だが、はじめ意味の判らない人連が「シヨンガイナ」と歌ったというのは、それこそ「縁故節」であった証左ではないか。

 このほか、終戦前後から昭和二十五、六年頃にかけて、筑前大島とその対岸七浦一帯で、「縁故節」のメロディーが歌われたことは、北九州市の高校教諭吉田信敬氏も先に報告された。(昭和五十六年八月十六日付毎日新聞紙上)この件については昭杣五十七年七月、筆者は植松和一氏に同行して現地に赴き、確認のため調査を行った結果、大島村、津屋崎町、飯塚市等で多くの証言を得た。

 また、ルポライターますやま栄一氏の調査によれば、宮崎氏の主張する「島原の子守唄」の本唄なるものがどこにも存在せず、逆に「縁故節」との関連が濃厚になったと報告されている。(『中央線』第二十四号)

 

「島原の子守唄」の、曲としての構成をみると、

 第一句「おどみゃ島原の」から「シュンガイナ」までのメロディーを中心とした前半部と、

 「はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ」から最後までの語りの部分との二つから成り立っている。

これは「島原の子守唄」より数年前に流行した「五木の木の子守唄」の構成を逆にしたものである。「五木の子守唄は、オロロンバイ、オロロンバイ」という前置きのあやし詞を反復したり、あるいは「オロロンオロロン婆の孫、婆は居られん爺の孫云々」の語りの部分の後にメロディーが続く。 (『日本民謡大事典』)

 

「島原の子守唄」は、はじめに「縁故節」のメロディーをそのまま利用し、後半に語りをおいて、「オロロンバイ」(天草の福連木地方や「五木の子守唄」のあやし詞を利用した。もちろん、唄はメロディーが主体であるべきであって、その意味から「島原の子守唄」は「縁故節」を元唄として、島原地方の方言で粉飾したものである。

 この様な主張に対して、民謡は所かまわず流れ歩いて、どこでどの様に利用されようと、ととやかく云うべきではないという意見がある。そのこと自体はそれで正しい。民謡は本来浮気者で所かまわずとび歩き、野合も敢えて辞さない。その様な例証は枚挙にいとまがない。しかし、それだからこそ、民謡が民謡であるためには郷土性をもち、地域に愛されなければならない。

「島原の子守唄」は、はじめ民謡としての戸籍を主張した様である。方言をふんだんに使って地域性を強調しながら、しかも、地元の観光協会や旅館組合からボィコットされた模様が、宮崎氏白自身によって述懐されている。

(熊本日日新聞社編『新日本風上記(九州編二)』昭和四十八年昭和書院刊)

 

まして、他国の民謡のメロディーをそのまま借用しながら、そのことを糊塗して著作権をとるに至っては作家としてのモラルに拘わる問題である。

 

次に、「縁故節」の日野原(明治七年日野春と改称、現長坂町富岡)開拓者招来説がある。これは郷上関係の出版物に多くみられるもので、管見によれば、昭和四十四年刊池田光一郎者『地蔵ケ嶽』から、昭和五十八年刊古文書研究会編『各駅停車』にいたるまで、その数は七件をかぞえる。

 

 その説によれば、明治六年藤村県令(当時は権令)の下で、権参事富岡敬明が計画した日野原開拓の際、開墾のための労働力として、富岡敬明の郷里佐賀の士族の子弟五十人を投入したので、彼らによって島原地方の子守唄がもち込まれ、これが「縁故節」のもととなったとするものである。

この説は一見もっともらしくみえるが、事実はまったく根拠のないものである。

 その理由は、第一に、日野原開拓に当って佐賀の士族の子弟を、労働力として投入した事実はなく、佐賀士族入植の事実もない。そのことは、県立図書館編『山梨県史』第三巻の明治六年、明治七年の項、ならびに、昭和四十七年二月県農務部耕地課編『山梨県の上地改良史』日野春開拓の項に明らかである。

 それによれば、開拓は付近の農民の力によったものであり、特に士族の入植については、『山梨県史』明治七年政治上開拓の部に、

 明治七年六月二十七日付け内務卿大久保利通宛、権令藤村紫朗代理山梨県参事富岡敬明の稟議書の末尾に、日野原に家政奉還の士族の移住をすすめたが、希望者皆無であったことが報告され、

 それに対して、同年十一月十八日付け内務卿伊藤博文名をもって、士族の入植者のないことを認めた上で、開拓地を官有地とし、漸次民間へ払い下げるよう指令が出されている。

 県はこれに先だって同年七月二十九日付け、「日野原新墾地移住規則」を布達した。その結果、移住希望者四十余名、養蚕伝習生二十一名に連署したが、いずれも近村の農家の出身者であった。

 また、富岡の開拓神社境内にある日野原碑の裏面に刻まれた氏名も、すべて近村の人々の氏名である。

 

理由の第二は、佐賀県士族が招来したという「縁故節」の元唄と考えられるような子守唄は、島原地方には存在しない。このことは前掲のルポライターますやま栄一氏の調査によっても明らかである。

 

以上、「縁故節」の元唄を日野春の開拓者が伝えたという説は、まったく事実無根であることが理解いただけたと思うが、このような説が、何故山梨県人によって唱えられたのであろうか。

 いうところの「文化に対するいわれなきコンプレックス」によるものであろうか。郷土尺民謡を愛さない県民性によるものであろうか。

 






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最終更新日  2021年04月12日 16時59分25秒
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