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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月30日
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縁故節は韮崎で作られ島原の子守唄のもとになった。

 

  序に変えて

 

私は民謡に世界のことは全くの無知ですが、子供の頃からの住む北巨摩郡(現在は北杜市)の盆踊りなどには必ず唄われていた記憶があります。

 レコードでなく老若男女の夜空に消え入るような、どこか空しい曲が、今でも脳裏に焼き付いています。

 はるか前ですが、テレビ番組の中で、「島原の子守歌」が流れていました。おや、この曲は「縁故節」ではないのか、と不思議に思いました。その時は、忙しいのに感けていましたが、久しぶりに地域色豊かな『中央線』をひろげて見ると、植松逸聖翁の「縁故節四方山話」が目に留まりました。

 私が最も気になったのが、メロディーの類似性ではなくて、歌詞の次のカ所でした。

 

  「縁故節」

                縁で添うとも 縁で添うとも

                柳沢はいやだョ

                 アリャセー コリャセー

                女が木をきる 女が木をきる

                茅を刈る ショウガイナー

                 (中略)

                来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど

                ぬるいお茶でも あつくする

 

  「島原の子守歌」

                おどみや島原の おどみや島原の

                梨の木育ちよ

                なんのなしやら なんのなしやら

                色気なしばよ しょうかいな

                帰りに寄っちくれんけ あばら家じゃけんど

                といも飯や栗ん飯 黄金飯ばよ しょうかいな

 

 特に、

 「縁故節」    来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど

 「島原の子守歌」 帰りに寄っちくれんけ あばら家じゃけんど

 

  島原の子守唄は盗作?

 

 このカ所は語句の異同が多少あっても、全く同じ歌詞です。

 「島原の子守歌」は邪馬台国の研究者でもある宮崎康平氏の作詞作曲です。時代の移り進み、一部編曲に古関祐而氏も関わり、本家の「縁故節」より「島原の子守唄」の方が有名になり、「縁故節」の制作者たちは、必死に「縁故節」が先で、「島原の子守唄」は盗作であると訴えましたが、宮崎康平氏は逆に「縁故節」の方が「島原の子守唄」の盗作であるとして、すでに著作権を設定していました。

 その後「島原の子守唄」は観光や産業に果たす役割も大きく、現在ホームページで索引すると、その数は多く「縁故節」を圧倒しています。

 民話や伝説それに民謡などは、各地に同じようなものがあり、どこが先かは分からないものです。民謡でも一つの唄に、その地方の地唄の一部を加えて地域の人に伝承されていくことは、ごく自然の成り行きだと思われます。

 しかし「縁故節」と「島原の子守唄」はそんな昔の話ではないのです。

 そこで、今回「縁故節」や山梨県の民謡を愛して止まない韮崎市の植松逸聖翁の奮戦ぶりを中心に、その他の資料を絡めて当時を偲んでみることにしました。「縁故節」の復活を願いながら。

 

… 参考資料…

 1、『縁故節四方山話』 植松逸聖著 『中央線』「第8号」

        (一部の語句を訂正)             郷土研究 

                                    1972年(昭和47)刊行

 

         アリャセー コリャセイー

 

         縁で添うとも 縁で添うとも     柳沢はいやだよ

         アリャセー       コリャセイー

         女が木を切る 女が木を切る     茅を刈る

         ションガイナー

 

   なぜ縁故節が長崎で唄われたのか

 

 この唄は、「縁故節」の中でも一番代表的な唄で、誰しもが「縁故節」を唄う時、一番先に喉をついて出るのがこの唄である。

 「縁故節」は、数多い甲州民謡のうちでも最右翼の方であって、何回もラジオやテレビで放送され、レコードにもなって、各レコード会社から発売されており、現在発行されている民謡集の中にも必ず掲載されていて、全国的に有名であることは、今更言う迄もないがことだが、たまたまそのメロディーが「島原の子守唄」によく似ているところから、「縁故節」は島原の子守歌の盗作ではないかとか、九州の「隠れキリシタン」が、甲州に移り住んで、「島原の子守唄」を教えたので、それが「縁故節」のメロディーのもとになったとか、色々な風説が流れ、またそれを肯定するような書物も現れて、一時は「島原の子守唄」説にすっかり惑わされた状態になった。

これは最近九州旅行を終えて帰って来た人達が、旅行中のバスの中で聞いた、ガイドの「島原の子守唄」を聞いて、あまりにも「縁故節」に似ているところから自分の耳を疑い、不思議に思って色々憶測をめぐらした結果から、そんな事になったことと思うが、「縁故節」は生粋の甲州生まれ北巨摩育ちで、「島原の子守唄」の盗作でも模作でも無い。

 「島原の子守唄」の方が戦後の作品であって、「縁故節」とは年代が遙に違うことを先ずもって明記して、これから「縁故節」がどうして発生し、発展して来たか、これにまつわる四方山の話を混ぜながら書いて見たいと思う。

 

 縁故節の生まれた経緯

 

 大正の終わり頃、現在と同じような民謡ブームが、日本国中に捲き起こったことがある。大変な民謡の流行だった。

 それに火を付けてのが、丁度其頃から始まったラジオ放送で、東京、名古屋の三カ所から、全国津々浦々の優れた良い民謡を集めて放送したので、尚一層燃え上がったのも無理はなかった。またそれに拍車をかけたのが、レコード会社であった。実際北海道、東北、北陸から九州等、それぞれ良い民謡を豊富に持っていて聞く者をして楽しませ、堪能せずには置かなかった。

 こうした他県の、優れた良い民謡を聞く度に、考えさせられるのが当時の山梨県の民謡事情で、これという民謡もなく今日のように、県内各地の民謡も埋もれたままで、僅かに、「粘土節」が山梨県を代表する唯一の民謡であるという貧弱さであった。

 心有る人は山梨県にも他県に勝るよも劣らない優れた民謡の一つや二つあってもよさそうなものと願って止まなかったと思う。

 その頃韮崎町に、白鳳会という山岳会が生れた。碓か大正十二年頃だったと思う。民謡と時を同じくして、渤発した登山熱に呼応して、南アルプスを宣伝出開発しょうとしたからである。初代の白鳳会会長に就任した人は、小尾忠子(ただし)氏であった。小尾氏は当時韮崎町で歯科医をしてわり、後には県会議長迄した、なかなかの政治家だが、時には尺八も上手に吹き、枠な小唄もうたう風流人で、その名前が「忠子」と書くところから、女性と間違われたというか、本人は少しも気にしない剛腹な人で、カイゼル髭をたくわえた立派な紳士であった。

 幹事長は、韮崎郵便局艮の柳本経武氏、とても世話好きの人で、東京の山岳会の名士多数とも親交のあった人で、小尾会長の良い女房役であった。顧問格が、穂坂村の平賀文男氏、この人も後には県会議員などしたが、本来は山岳家で「月兎」というペンネームで、数多い山岳山著書があり山岳界の権威でもあったが、唄も唄うし踊りもおどる多彩な趣味の持主であった。この三人が、良い民謡をつくって唄の中に土地の人情風俗を織りこんで唄い、踊って見せたら、南アルプスの観光宣伝にもなるだろうと。

 

昔から北巨摩地方で、

  

  サアサ えぐえぐ ジャガタラ芋は えぐいね 

  中で 青いのは なおえぐい ションガイナー

 

と、うたわれていた「えぐえぐ節」に目をつけて、その歌誌やメロディーを改良して、新しい民謡を作ろうと、毎晩小屋氏の家に町の芸妓を呼んで努力を積んでおられた。

 当時は、韮崎の町にも金蔦屋、信濃屋、中扇、春本という芸妓屋があって、一番多い時は、芸妓も二十数人もいた。夜ともなると、左襖に、仇な投島田の彼女達の姿もみられ、あちらこちらの料理屋の窓からは絃歌のサンザメキも聞え情緒もあった。

 野尻先生が「韮崎の芸妓はメレンス芸妓」と何かの本に書かれたが、先生は茶屋と呼ばれる一杯屋の酌女と芸妓を間違われたのではないだろうか、韮崎の芸妓はなかなかの芸達者で芸一筋の廊芸妓の気風もあって、県内では甲府の芸妓に続いての存在であったと思う。料理屋に宴会があると、彼女達は必ず「お座付」というものをする。その時弾く曲は、時節ものとか、鶴亀雛鶴、越後獅子等の目出度い曲で、それも一月毎にかわっていて、同じものを二ケ月連続することはなかった。しかも、正月三日間は目出度い曲の組合せで、一日毎に変っていた程だった。それと云うのも、其頃韮崎には杵屋熊吉という三味線のお師匠さんがいて、芸妓は勿論のこと、良家の子女から俗にいう、お若い衆に迄稽古をつけたので、韮崎の芸事に対する標準は意外に高く、生半可な芸では迚も商売には出られなかった。それ故稽古は厳しかったと間いている。決して、 韮崎の芸妓は「メレンス芸妓」ではなかった。内容もあったと思う。面白いことに男名前の杵屋熊吉さんが女で、女名前の忠子と好対照であったことだ。

 そんな芸妓を、小尾氏は毎晩白宅に呼んで、三味線をひかせ、唄はせて新しい民謡をつくり出そうと努力しておられた。

 一応唄の形が出来あがったのであろう。或夜「お前も尺八を吹くから聞きに来い」と呼び出しの電話があったので拝聴することにした。

 うたい始めに「アリャセー コリャセー」と囃子言葉をつけた。誠に結構だと思った。「縁で添うとも 縁で添うとも」と唄に入って同じメロデーを二度繰返している。これはいかん、単調だなと感じた。

「柳沢はいやだよ」と変化して「アリャセー コリャセ」と前の噺子言葉で結んでいる。

あとの「女が木を切る」から、ションガイナー 迄同じメロディーの繰返しである。

 総ての楽曲には、起、受、発展、終結の原則があって構成されているもので、 起から受の部分か大切で、それが楽曲全体の可否を決定づけるものである。

始めの起である「縁で添そうとも」と受けに廻る二度目の「縁で添うとも」は変化してこそ望ましいと思ったのに、同じメロディーの繰返しであったから「縁で添うともの二度目の繰返しを五度あげてうたったらどうですか」と進言した。

 「五度上げるとはどう云うことかね」と質問が返って来たので、楽理の十二律を説明して、繰返し部分を五度あげてうたって見せたら「その方が良い」ということになって、今日の縁故節の基本になるメロディーが決定したのである。

 「踊りもあることだから」と言われて、四拍子に作譜することを命ぜられた。

 

 縁故節の名称

 

 さて、出来あがった新民謡の名前であるが「サアサ えぐえぐ」と唄ったのを、「サアサ えんご、えんご」と直したところから「えんご節」と名付けて、漢字で「縁故節」と当て字をした。それが何時の間にか文字通り「エンコ節」と呼ばれるようになってしまった。何年頃だったか、日時のことは忘れたが、第一回縁故節発表会を、今の三辛スーパーの処にあった寿座という芝居小屋で町の芸妓を総あけて盛大に行ったこともあった。

 毎年夏ともなると穴観音さんの境内に櫓を組んで「盆踊り大会」と銘打って、小尾氏の音頭で「縁故節」によって盆踊り大会を催したことが四五年も続いたろうか、その頃迄は盆踊り大会といえば(四打ち」(エ-ヨ節)だったのが、何時の間にか「四打ち」は「縁故節」に侵略されて、次第に消えて行ってしまった。

 

 縁故節のラジオ放送

 

 縁故節が始めてラジオで全国に放送されたのは、昭川三年の九月だった。愛宕山にあった東京放送局で、放送間始三周年記念祝賀の番組が組まれたことがある。其の中の民謡の部に全国有名民謡の中に加わって、山梨県からも「縁故節」が選ばれて出場することになった。その時の出場者は、三味線が芸妓の勝利、尺八が現在韮崎駅前通りで布団店を経営している秋山計吉さん。唄が芸妓の照葉と下宿の舟山橋際で、トラック運送業をしていた植松輝吉さん、この人は大変賑やかな人で自分のことを「おらあ-降っても照るやんで」とヒヨウキンを云って人を笑わしていた。踊りが、水上修一さんで歯科技工師、後には市会議員迄なった人である。

 以上の五人が放送局で唄ったり踊ったりの大熱演で大好評だった。何しろ初めてのラジオ放送なので、韮崎町も大変な騒ぎで、今の四丁目の魚徳商店(元は繭糸会社といって繭の取引所だった)のところに舞台をつくって現在、韮崎市文化協会長の山本融さんが先頭にたって、スピーカーから流れ出る縁故節のメロテーに合せて踊って見せたものである。

 これが縁故節の、全国へ名乗りをあげた第一歩であった。

 それから七年経った昭和十年十一月、白鳳会を通じて東京の放送局から、再び縁故節を放送して欲しいという依頼かあった。

 二代目の白鳳会会長になった柳本経武氏に引率されて放送局に行った人達は、三味線が芸妓の桃竜、尺八が植松逸聖と清水逸映、唄か名取いく{古屋)と佐野儀雄の五人だった。当時は、全部か生放送で間違うことを許されない一番勝負だったので、緊張の連続であった。

 

 縁故節のレコード化

 

 其夜は神田の旅館に泊って、翌日東京見物でもして帰る予定だったが、突然ビクターレコードから電話がかかって来て、翌朝、会社に来て縁故節を聞かせて欲しいという申し出があつた。

 その晩の縁故節の放送を聞き、放送局に一行の宿泊している旅館を聞いて電話をかけたのだという。翌朝指定された時間に会社社に出頭したところ、大野という重役が待ち受けていた。

 早速縁故節を披露したところ「朝鮮民謡のようだ」と、異色性を大変誉めてくれて、レコード化の話しまで進んだが時間もないので後日を約して帰って来た。その後ビクターは、ミリオンレコード会社の設立をめぐって内部に紛争がおこり大野重役が退陣したとかで実現出来なかった。大変残念なことであった。

 昭和十四年に韮崎町中村美容院の中村千代子さん(山本)がコロンビアレコードに吹きこんで発売されたが、これが縁故節のレコードになった最初のものである。

 それからは、島倉千代子、三橋美智也等の有名歌手が唄ったレコードか各社から競って発売されるようになり、縁故節は一躍全国的に有名になった。

  「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」

と唄にあるように、縁故節と柳沢は切っても切れない因果関係にあるわけで、縁故節を語るからには柳沢のことも話さなければならないことになる。

 

 歌詞「柳沢いやだよ」

 

 柳沢という処は、以前は駒城村柳沢だったが最近の町村合併で今は武川村柳沢になっている。甲斐駒ケ岳の麓で、大武川の清流に添った細長い部落である。

 徳川五代将軍綱吉公の大老として、一世の権力を思うようにした柳沢吉保の先祖の地である。

 柳沢は、もともと武田の郎党で所謂、武川衆の一人である。 此処には、柳沢壱岐守信勝より、吉保の祖父である兵部丞信俊にいたる迄居を構えて居たといわれている。

 宝永一年、柳沢吉保は、松平美濃守古保と名乗って、甲斐の国主となって甲斐に入っている。宝永三丙戊年の秋、吉保が荻生徂徠を招いて、柳沢を調査させたがその紀行文中に、「左側黍田中、挿竹表識処、謂是使君旧荘、其四十歩許、昔時有大柳樹、是邑名者、已枯矣」とある。この当時は多少形蹟が残っていたかもしれない。大正二年、子孫の伯爵柳沢保忠氏が柳沢に来たが、何等の形跡がなく落胆して帰られたということが北巨摩郡誌に書いてある。

 

其の柳沢が何枚近郷近在の人達から「嫁にはやるな」「また行くではない」と、忌み嫌はれたかということは、世俗に伝わる風説では、原因は三つあるようである。

第一は、柳沢古保の権力に対する反感と不満を当時とすれば直接口にし、態度にあらわすことが出来なかったので柳沢吉保を、柳沢部落にたとえて唄に託したものだというし、

第二には、柳沢部落は非常に封建気風の強い処で男尊女卑の思想が根強く、女が苦労するところであるからという。

第三は、年々度重なる大武川の氾濫で、切角の田地も押し流されて、女も男同様に木を切り、矛を刈るような重労働をしいれられるので、可愛い娘はやれないということである。

 昨年、山梨放送の監修で、キングレコードから甲斐武田の民謡という、武田にまつわる一連の民謡集が出来た。武田節などの新民謡を主にした民謡集だが、その中に縁故節を入れることになり、其の歌誌の選定を、韮崎市文化協会が受持つことになった。一番問題になったのが「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」の歌誌である。これを加えるか、削除すべきか、ということで、柳沢の人達の意見を間いたところ是非加えて慾しいということで歌誌の第一番に書き加えることが出来た。縁故節にこの唄が無かったら骨抜きになってしまうからである。加える事ができてよかった。

 

 縁故節とジャガタラ芋

 

もう一つ、縁故節に欠く事の出来ない深い関係にあるのは、ジャガタラ芋である。ジャガタラ芋はオランダから日本に輸入されたものであるが、甲州は日本の中でも、この芋を栽培したのは早い方だといわれている。それは、明和年間に中井清太夫という人が栽培法を教えたからだという。それで甲州ではこの芋のことを「清太夫芋」と名付けたが、段々なまって「せいだいもん」と呼ぶようになった。今でも老人の中には、こんなふうにいう人かいる。

 ジャガイモは日光にあてると、皮の部分が青くなり何ともいえない不味さである。その不味のことを土地言葉で「えぐい」とか「エゴイ」と云う。その「エグイ、エグイ」から「ジャガタラ芋はえぐいね」という唄が生まれたではないか、いわばジャガタ芋は「エグエグ節」の生みの母であるかもしれない。

 

 富岡敬明とジャガタラ芋

 

このジャガタラ芋を、明治の初めに、現在の中央線日の春駅附近の富岡地方に、麥や、桑と一緒に栽培させたのが富岡敬明という人である。この人は明治初年、藤村紫郎が県令として、山梨県に赴任して来た時、参事として同時頃着任した人である。

当時は明治維新で、徳川幕府の禄中の武士達は、職を追われ、生活の道を断たれて、大恐慌の時代で、その救護対策として全国各地に入植させて、生活の安定を計った。

 本県でも、長坂町日野春駅附近の原野十五六町歩を入植地と決めて士族の移民を受け入れた。これを担当したのか富岡参事であった。この入植は富岡参事の努力で成功して、国営の農事試験場まで出来あがった程である。それで開拓民たらが感謝の気持から、参事の名を取って村名を富岡かと名付けたという。

 現在、日野春駅の西方三〇〇メートル位の処に、富岡開拓神社がある。そこには富岡参事の功績を讃えた、高さ二メートルばかりの「日埜原碑」というのか建っている。その後富岡参事は、九州熊本の県命となり、明治十年西南の役には、谷干城と一緒に熊本城に籠城して、陸軍を撃破する端緒を開いたということで男爵の位を賜り、甲府市の善光寺裏の里垣に余生をおくられた。

 富岡参事は、九川島原の高岡城廿四代の城主であったとう関係から、或る人の説では、九州の浪人を日野春に入植させて刀を鍬に持ちかえて、麥、桑、ジャガ芋を作らせながら、島原の子守唄をうたわせ、踊らせたのが、「エグエグ節」のはじまりであるといっているが、日野春への入植は、維新政府が江戸の旗本の二男坊対策として行ったもので、此の命令を受けて本県で担当したのが富岡参事である。従って日野春の入植者は江戸浪人であって、九州の浪人ではなかったことになる。

民謡の多くはその土地での労作と共に、土の中から作物と一緒に生れる場合が多く、「エグエグ節」もジャガタラ芋と一緒に生れたのではないかと推察されてよいと思う。

 

さて、「エグエグ節」の発生は何時頃であろうかということか問題になるが、縁故節創始者の一人である平賀文男氏は、武田信玄公時代からで、四百年も前からだというか、「エグエグ節」の「語呂」は古い昔からある。甲州民謡の語呂とは違うので、それは間違いであると思う。

 

古い甲州民謡

 

 古い甲州民謡では、田方で唄はれている「田の草節」も、原方で唄はれている「綿打唄」身延山の詠歌が変化したものと思われる「甲州盆唄」も、みんな甲州独特の語呂で

「七五五七四」

の二十八文字である。田の草節に例を取れば、

   田の草取りに   七 

   まねかれて    

   いくもいや    

   行かぬも義理の

   悪さよ        

 

というようである。もっと、古い唄と思われるのに

   敵が通る横山、

   風も立て

   嵐も吹けよ横山

 

というのがある。武田信玄公が川中島合戦の折、敵将上杉謙信が陣取った横山のことを云ったのではなかろうかと思う。横山というのは、長野の善光寺裏の城山のことで、当時は横山といったそうである。

 信玄公は戸隠迄進攻しているので、此の地方の俚謡にも二十八文字のものがあるそうである。

 

埼玉県地方の民謡「麦打唄」も

   岩殿山でなく烏は

   声もよし

   音もよし岩の響きで

   ホイ ホイ

 

 矢張り二十八文字の甲州の影響をうけ民謡で、これも古いものであると思はれる。

 これに引きかえ、「エグエグ節」は、粘土節と同じく「七七七五」の二十六文字で、甚句式のものであるから、おそらく徳川時代になった元禄以降のものであると思はれる。 甚句というのは、元依年間に長崎の蛯屋甚九郎という人が、兵庫に入って伝えたという「甚九郎節」が各地に広がって「甚句」となり、処によっては土地の唄であるからといって「地ん句」とも云われ、鎮守の神様の前で唄うので「神ん句」と云ったという。現在日本の民謡の大半は、此の影響をうけているという。この甚句が甲州にも入って来て、それからは「七七七五」の二十六文字の唄がうたわれるようになったではないかと思う。

したがって、「エグエグ節」は武田の昔からというではなく、元禄以降のものであるという結果になる。

 若し、柳沢吉保に対する反感から此の唄が生れたしとすると大体、元禄の頃からということになるが、これは少し考え過ぎで、矢張りジャガタラ芋の伝わった明和から明治の初めころ、ジヤガタラ芋と共に生れたのではないだろうかと推察される。

 「エグエグ節」は、発生してから北に上って諏訪地方にひろまり「柳沢節」と名をかえて広く深くうたわれていたようである。これについて諏訪市角間新田出身の作家新田次郎氏は、この程発行された「甲斐武田の民謡」集の巻頭に縁故節についてこんな事を書かれている。

 

「甲斐武田の民謡」の中にある縁故節は古くからある歌で甲斐から信濃にかけての農民の生活の苦しさを歌ったものである。私は甲府に近い信儂の諏訪に生れた。この歌は「柳沢節」として私の村にも古くから歌われていた。祖母が歌ったその哀調を帯びたメロディーは今でも忘れられない」とある。新田氏の祖母となると、明治以前の生れであろうと考えられる。新田氏の祖母は娘時代をすごされた明治のはじめ頃覚えられたに違いない。

こう考えると、「エグエグ節」の発生年代が大体わかるようで、決定づける事は大変難しいが、おそらく明和年間から明治の初年の間で、約百年前後ではあるまいかと出思う。

 

 島原の子守唄の作者 宮崎康平氏

 

 最後に、島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者である宮崎康平氏である。

 これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は創れない。

 昨年十一月八日午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。

 その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について問合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。

 

島原の子守唄は、

 

おどみや島原の 

おどみや島原の 

ナシの木育ちよ

何のナシやら 

何のナシやら 

色気ナシバよ 

ションカイナ

ハヨ寝ろ泣かんで

オロロンバイ 

鬼の池に久助どんの

連れん来らるバイ

帰りにゃ 寄っちょくれんか

帰りにゃ 寄っちょくれんか

あばら家じゃけんど

 

というのである。先の本唄の郡分のメロディーは、縁故節とそっくりである。

 「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後歌として聞いたことがある。

 結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。

 然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出はたいしたもので、大いに敬服に値するものがある。

 

翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。

最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく事を祈ってやまない。

 

 






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最終更新日  2021年04月12日 16時58分35秒
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