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2019年07月03日
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カテゴリ:日本と戦争
半島の隣人

『日本残酷物語』第5部 近代の暗黒 下中邦彦氏著 一部加筆
昭和35年 平凡社刊

あれを見たかよ 北部の山に
墓が殖えたよ また一つ
十万億土と ようも槌ついた
死なば南山に 行くばかり
         北部歌

玄海原をこえて
 
輸送船の歌声 

戦争もいよいよ末期に近づいた昭和十元年(一九四四)十月二十一日の夕方、暮れなずむ桜島を背にして、駆逐艦四隻に護衛された十二隻の輸送船団がひそかに鹿児島海を出港した。船には満州からはこばれてきた兵士たちが満載されていたが、どこへゆくのか兵士たちはむろん知らされていなかった。夜半船べりに立つと、船首にくだける波がぎらぎらと夜光虫で光り、オリオン座が大きく空をめぐっていった。
 船が音もなく南下しているとき、わたしは異常なものを見た。突然、海上をわたって女の歌声がきこえてきたのだ。はじめに自分の耳を疑ったが、歌声はなおもつづいていた。甲板に出てみたら、右舷の方に女を満載した船がわたしたちと平行して追ってした。朝鮮から連れてこられた、慰安婦と呼ばれた人たちだった。
こんな事態になってもまだ女を巡れて戦場に赴こうとしているのだ。誰の意志なのだろう。その女たち 
を誰が買おうというのだろう。
 それから宮古島へ上陸して数ヵ月のあした、はげしい米軍の砲爆撃にさらされ、ひどい軍政社会のリンチに耐えつつ、辛うじてわたしは敗戦を迎えたのだが、危険な海をわたって、わたしたちと同じ船団できた朝鮮の女たちはその後どうしたのだろう、と私はとぎどき思った。島に対する空襲がようやくはげしくなりつつあった頃、私はからずも彼女たちの居る場所を通りかかった。下士官に引率されて、数里先へ使
役に出ていった時である。道路の側の野原のようなところに、松の丸太でつくった大きい草ぶきの家があった。私たちの引率者その前で「休憩」と言った。島の子どもが何人か集まってこの女たちをからかって
いた。やはり賤業婦という意識があるのだろう。私たちは腰を下ろして見ていた。この島の子どもたちは
外に遊びに出るとき、たいてい鎚を腰にさしている。そのとき家の前にすわっていた一人若い朝鮮人の女が立ち上って、近くにいた子どもから鎌を借りた。鎌か手にしたと見るや、腰をかがめて、ささっとその辺の草を刈り始めた。おどろく程巧みで、熟練した手さばきだった。私は胸をうたれた。彼女は朝鮮のふるさとや親兄弟のことを思っているに違いない。彼女たちは私たちなどよりももっとひどい扱いを受けているわけだ、と思った。

奴隷狩りのように
 以上の挿話は中野清美氏の自伝記録「ある日本人」に記されていることである。玄海灘の           荒波をこえて朝鮮人が本格的に移住しはじめたのは、言うまでもなく明治四十三年(一九一〇)の「日韓統合」以後であった。憲兵と警察の力によってすすめられた目本人による土地収奪は、世界値民史上でも類がないほど徹底的なもので、土地を奪われた農民たちは、勢い流民の群れとなって故郷を放棄せざるをえなかった。
たとえば昭和二年(一九二七)四月十四日の「東亜日報」は、間島方面にむかって「元山を経由した流離れ同胞が去る三月の一ヵ月間に二万人に達した」と報じ、また同年三月二十四日の「中外日報」は、李載水という農民の次のような談話をのせている。
 「どんなに働いても生きる途がなし。また子どもらを勉強させることもできない。学校費用を徴収しているのにもかかわらず、学校ではまた生徒から月謝とか奨励費とかを徴収している。もしもこれを納めなければ、一年に何回も授業を受けさせないことがある。そればかりか月謝を納めないといって家財を押えることになるし****。我々は一日一食あるつくこともできず、瀕死におちいっているのです。そこですべてをあきらめてただ餓死をまぬかれる途はありはせぬかと思って、間島へ向かっている。我々の目的は鳳凰城であるが、果たして該地におちつくことができるかどうか知らない」
 これは満州へ流れて行った農民の一例でよる。このほかシベリアヘ、中国本土へ、またアメリカヘ移住していった人も少なくなかったのであるが、その大多数は日本へ渡航し、あるいは強割的に拉致されて送られた。
戦争をへるごとに雪ダルマのごとく膨れていった日本の資本主義が、いかに朝鮮人の労働力か欲したか。たとえば、昭和二十年三月には、全国炭鉱労働者の三十二%が朝鮮人で占められていたことを見ても、その事実は理解できる。とりわけ北海道の炭鉱は数が多く、昭和十八年末の統計によると、坑外労働者は四十五%、坑内労働者は実に六十三パーセントという数字を示している。
 
朝鮮での労働者徴発のしかたも暴虐を極めていた。
鎌田沢一郎『朝鮮新話』によると

「納得のうえで応募させていたのでは予定数になかなか達しない。そこで群とか村とかの労務係りが深夜もしくは早晩、突然男手のある家の寝こみ襲い、あるいは田畑で働いている最中にトラックを回して何気なくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱へ送りこみ、その責任を果たすという乱暴なことをした」。
そして戦争が最大限に狂奔した一九四〇年から一九四五年までの五年間だけで、一躍百万近い朝鮮人が強制的に移動させられ、終戦時の在日朝鮮人数は二百三十六万五千二百六十三名に達していた。日本人三十八人に一人が朝鮮人であったわけである。
また以上のほか、陸海軍人、軍属或いは南方各地の基地設営のための人夫として狩り出された人々が三十六万五千二百六十三名(復員局調べ)に及んでいたことを忘れてはならない。
 中野清見氏が宮古島で目撃した朝鮮人の女にまつわる挿話はその一例にすぎないが、彼女達の生死は上の数字の中にも含まれていないのである。
 
戦慄すべき酷使 

私たち日本人がいかに朝鮮人を酷使したか。ある日本人はこういっている。「朝鮮人の常食は麦、ヒエ(稗)、アワ(粟)であるから、普通の労働者が一家五人ないし八人の家族を持っているとしても、月収十五円~二十一円で暮していける。だから日給は一円五十銭あれば十分だ!」
と。また金斗鎔氏は『朝鮮近代社会史話』の中で、昭和二十年(一九四五)十月自分が目撃した福岡県常盤炭鉱の実情について次のように語っている。
 「この炭鉱には全山四万余人の炭坑夫中、朝鮮人が半分以上を占めていた。普通朝鮮から徴用されたの
は期限が二か年になっていた。ところが実際においては二ヵ年をすぎてもまた徴用を延期させられるために、その後何年もそこで働かせられた。労働時間は平均十四時間、加えて仕事に鞭うたれるため健康な者もとても続けられなかった。
 体が悪くて休むと仮病とみなされ、事務所に引っぱられて拷問を受けた。給料は貯金という形で押さえられた。逃亡をおそれる為だった。食事やその他の特配物についても会社側が分量を減らし、酒や地下足袋や衣服類もなるべく配らなれようにして、これを横領し、横流しして、係員が私腹をこやしていた。食事の量の少ないことを抗議したというかどで、監獄に八ヵ月ぶちこまれた労務者にも私は直接出会ったのである。
 朝鮮人労働者は 入山すると、訓練という名目下に三ヵ月間、仕事から帰るとたんに軍隊式の教練をやらされなければならなかった。坑内で一晩作業して帰ってきたばかりの坑夫などは、睡眠不足のためぶっ倒れることがしばしばあった。教官(会社の係長)は、朝鮮人労働者が自分の意のごとく動かし、場合には鞭をふるいつつ。
 「挑戦人はこのように鞭でなければ聴かんのだ!」
 と怒号しながら殴打した。
 耐え兼ねた労働者たちは絶望的になって逃亡を企てた。それを防ぐために、会社には専門の暴力団が雇われていた。いつもコン棒を手にもって、労動者のまわりとか山の出口とかをうろうろしながら警戒していた。そしてもし逃亡者があって警報が発せられた場合には、全山の暴内団はもちろんのこと、会社側は総出勤して探索にあたった。不幸にして逃亡者が捕まったときは、半殺しにされることを覚悟しなければならなかった。
会社でさんざんやられた上に警察にまわされ、そこで長い間拷問、留置・された末、また会社にまわされ、そこでさらに会社の牢にぶちこまれた後、釈放されるのだった。またときには逃亡者をみなの前に立たせて、仲間の面前で逃亡者をなぐらせたりした。つまりありとあらゆる方法で、ふたたび逃亡の気を起こさせないほどに息の根指殺した上で出坑さすのだが、それでも虐待と酷使に我慢できず逃亡する者があった。結局わたしのしらべたところでは、全山で徴用されてきた朝鮮人の八割は逃げて居なかった。もちろん、なかには白骨になった者のも居た。(中略)
 この常盤炭鉱は決して人里はなれた深山ではなく、むしろ町から一里もはなれていない鉱山であるにもかかわらず、この様な残忍なことが平気で行なわれていた。もしもこれが北海道のような奥山の鉱山だったら、どんな事が行われていただろうか。
昭和二十一年(一九四六)北海道の炭鉱を視察したあるアメリカの新聞記者は、この地の十万人の朝鮮人労働者の姿を形容して「飢えたる奴隷(スターヴィング・スレイブ)」という言葉を使っていた。
 太平洋戦争中、日本国民の各層に分ける民族的優越感と朝鮮人蔑視のまなざしは、他のどの炭鉱よりもひどかった。しかし朝鮮人たちの反抗はそれよりもはげしく、昭和十七年の各炭鉱における朝鮮人坑夫の逃走者率は福岡門‐四十四・六%、常盤三十四%、札幌十五・六%と日本側の文書に記録されているのを見ても、いかに彼らのエネルギ-強烈なものであったか想像がつく。そこにききとれる「哀号」の声と憎悪と火の凄まじさ----。けれどもそのような迫害の中で、この人々が掲げた人開愛の炎は決して失われることはなかった。

迫害をこえる人々
 
『日本残酷物語』第5部 近代の暗黒 下中邦彦氏著 一部加筆
昭和35年 平凡社刊

飯場の娘

山形県の土木請負業、菅野良平の長女ヨシイは、小学四年のとき上京して、年頃になるまでに八年間を浅草のレストラン「電気屋ホール」で働いた後、宮城県宮城ノ原の軍需工場工事か詰負っていた父の仕鼎を手伝って、飯場の飯炊きをしてした。この工事場には数カ所の飯場があり、そこには百五十人の朝鮮人と六十人の日本人が住んでいた。
昭和十九年二月四日の夏のこと、北海道の炭鉱のタコ部屋から脱走した朝鮮三人がここに逃げたといって、五、六人の警官が追ってきた。父は仙台に出張しており土工たちは仕事中で、菅野の飯場には、二十一歳になるヨシイ一人しかいなかった。警官らは、
「逃亡鮮人を見かけたらすぐ知らせろ。かくしたら身のためにならんぞ」
とくれぐれも言って立ちさった。
 警官たちが帰って二時間ほどたった夕刻、縁の下からうす汚れた、破れたシャツの見知らぬ男が這い出してきた。ヨシイは少し驚いたが、もともと彼女は、これまで土工たちの血を流す喧嘩にも仲裁に割って入るような娘だ。すぐ気を鎮めて事情をきいた。すると、その若し朝鮮人は、よく話せない日本語で、
 「……勉強がしたくて目本に渡ってきたが、金に困り、学資をつくるつもり募集員の甘言に乗って北海道の炭拡にはいった。ところが一ケ月二円の煙章銭が支給される以外に給金は一文もわたしてくれず、学資をつくるどころではない。挑戦人にはろくにメシも食わせぬから、同僚たちは栄養失調と過労でバタバタ死んでゆく。病人でも何でも鞭とコン棒で死ぬまで働かせるし、少しでもさからえば拷問を受けてどのみち殺されてしまう。自分には故郷に両親もいれば兄弟もいるし、こんなところで死にたくない」
 という意味のことを語りつつ、ポケットから家族の写真をとり出した。逃亡の際にモミクシャされたの
であろう、よれよれになった写頁を愛おしそうに手を伸ばして彼女にさし出す風情には、乳臭い感じさえ
あって、この朝鮮人の言葉に嘘があろうとは思わなかった。小学校四年のときから実社会に出て、すでに社会の裏ばかり十年も自分の足で歩いてきた彼女は、こんなときすぐさま世間的な智慧にとらわれない独自の判断を下す。「お巡りはああ言ったが、盗人や人殺しをしてきたわけではないし、勉強をしたかったというこの真面目者を警察に突き出すいわれがどこにあろうか。
 彼女は父の留守のあいだの数日か自分の飯場に匿ってやり、その後、朝鮮人経営の飯場へ彼を送りこんだ。のみならず、この青年とともに逃走して、運拙く捕えられた、仙台の刑務所に留置されている二人の
朝鮮人のために、自分の小遣いか使って差し入れまでしてやった。こうして工事現場の朝鮮人からから信頼された彼女は、自分か日本人である事と女であることを武器にして警察の警戒心を緩めさせ、北海道に送還される前に拘留中の二人を脱走させるという彼らの計画に加担して、成功させた。
 彼女は戦後、ある朝鮮人と見合結婚したが、この時期に朝鮮人に心をかたむけ、結びついていった日本女性の中には、次に述べるように、朝鮮人のしいたげられた立場に典感かおぼえずにはいられない悲しし境涯の女が多い。

 宿命の剕冠

『日本残酷物語』第5部 近代の暗黒 下中邦彦氏著 一部加筆
昭和35年 平凡社刊

 「木内ミツ」は大正十二年、四国出身の北海道開拓農民の二女として生れた。南国育ちの父は気の荒い奔放な男で、土地にしがみ着いているばかりの百姓仕事に見切りをつけて博労になってからは、東北農村生まれの妻に、ますます満足しなくなって乱暴を働いた。機嫌がよいときは、よくお気に入りのミツをつかまえて、
 「ミツ、女というもはの、おまえの母ちゃんのように、白い腰巻を灰色にして働くばかりが能じゃねえんだぞ」
 といったものである。この父が酒と女に浸るようになってからは、家はますますどん底に落ちた。この頃のミツの悲しい思い出は限りがない。弁当を持って行けないので、昼飯時にはこっそり教室を抜け出して、校庭のブランコで遊んで時をすごした。農繁期には母についてよその家へ手伝いにゆき、姉とミツと合わせて一人分の駄賃をもらう。そこが同級生の家であったりすると、その子と顔を合わせるのが耐え、がたかった。
小学四年のこと、担任の先生がミツに、自分のはき古した運動靴乍ゴミ捨て場に捨ててくるよう命じた。渡された靴をみると、それは父ちゃんのはいている破れた地下足袋よりずっと上等だ。ミツは校庭の隅に隠しておいて学校が引けてからもって帰った。父には、先生から貰ったといった。
それからまもなく秋の運動会があって、ミツは走っくら(走り較べ)で一等になった。狂喜した父が我を忘れて、見物席から踊り出てきた。父はミツの親だといって、先生の前に得意気に名乗り出た。ミツはとっさに父の身なりを見た。余所行きの印半纏を着ていてほっとしたが、足をみると、例の運動靴を履いているではないか。このときの恥ずかしさ、惨めさをミツは今もなまなましく思い出す。
 
十才のころだったと思う。いつものように、母を手伝って、人目を盗みながら山に薪とりにしった。生
木でなければ、北有道の冬は越せない。ミツはするすると木に登って、生木の枝を折る。すると。
 「めんこい娘よのうー、明日は納屋の粥にたんと米粒さ入れてやるからな」と母は言った。ミツの家では食事といっても「七つまで育てれば親の役目はすんだのだ。何処なりと出ていって口すぎしろ。このごく盗人」
とがなりたてる父の前で粥さえ二杯と吸えなかった。母はひもじがる子どもらのために夫の目をぬすんで、毎朝納屋に粥をはこんでおいた。ミツはオモユの中に泳いでいる米粒を一つでも多く拾いたくて、父の目は無論のこと姉や妹の目を覚まさぬように、こっそり床を脱げ出して納屋に走るのが常であった。
(しかし母のこの苦心も長くは続かなかった。まもなく父にかぎつかれて、父は妻や子供らを打ち、蹴りして、昂奮が静まると、どこからか馬に付けるような大きな鈴を納屋の戸につけてしまった。)
 
ミツは母にほめられるのが嬉しくて、小猿のようにあの木、この木とよじのぼった。大自然のふところの中で母と二人でする勤労の清々しい楽しさと、明朝の米粒の沢山はいった粥鍋への期待で、ミツの胸は
はずんだ。しかしその喜びも束の間、母娘が背負いきれぬほどの枝を背負って路なき路を選んで山を降りるとき、茂みの中で山の管理人にバッタリ出っくわしてしまった。
 二人は度胆をぬかれ、動顛のあまり枝木を背負ったままヘナヘナと尻もちをついてしまった。母はと見ると、背負子を下して頭の手拭いを外して、腰を二つに折って詫びている。小父さんはそう悪い人ではないらしく、
 「今回は見のがしてやるが、念のため名前と住所だけを聞いておく」
といって手帖を取り出し、鉛筆をにぎった。ミツはこれでまた部落の人達や学校友だちから辱めを受けるのだと思うと、目の前が真っ暗になった。母は口ごもりながら、ミツの隣村の部落の名を言った。つづけ
て、でたらめの氏名を言った。ミツは子供心にも危機が去ったのを感じた。帰り道、母は子どもの前で嘘をついたことを恥じているのか、何時にも似ず饒舌になった。
ミツは、「いいよ、母ちゃん」と言って唇を噛んだ。やがて、ダルマ屋の女に入れあげる夫、酒を帯びて帰っては乱暴を働く夫の元で、ミツの母は自分をも子供も守りきれなくなった。姉が独立できるようになると、母は幼い子を連れ、父のお気に入りのミツだけを残して、実家に戻って行った。

ミツにとって、父との生活は恐怖だった。家主に家賃滞納で追いたてられる。移った先にも執達使いがくる。ミツは二言目には「満州に売りとばす」という父が恐ろしくて、数え年で十四のとき、とうとう母の元に逃れていった。しかし母親また貧農の兄夫婦のもとで、肩身の狭く家内労働をしている身である。彼女がしてやれたことは二円(昭和十一年)の金を工面して、質流れの煎餅蒲団一枚をミツに買いあたえ奉公口を見つけてやることだけであった。
 
ミツはその布団一枚をもって、札幌をふり出しに、転々と女中奉公をして歩き、太平洋戦争のころは道内の田舎旅館の飯炊きであった。このときミツは生まれて始めて、外米であれお腹一杯めしを食べることができた。
 そのころ。旅館の近くで溝梁工事がはじまった。朝鮮人飯場もできて、若い衆がミツの働く台所に水をもらいにきたりするようにもなった。ミツは父の元にあるころ、
「支那人でも朝鮮人でも誰でもいい。父ちゃんのようにお酒を飲まないで、乱暴をしないで、あたしに優しくしてくれる人であれば、早くお嫁にゆきたい」と夢見たこともある。まして今はもう娘盛り。
「ミッ!」「ミツや!」「おミツ!」と呼びすてにされた覚えしかない彼女には、飯場の朝鮮人がなれない日本語で、「おミツさん」(それはどうしても「おミチシャン」と聞こえたけれど)と呼んでくれるだけで嬉しかったし、中にはミツの灰色に汚れたエプロンを気にして、自分の配給石鹸を置いていってくれる朝鮮人もあった。ミツのこれまでの生涯に、どういう他人がこんな優しい心使いを示してくれたであろう。
 その辺一帯で野犬狩りが行われた夜のことである。役人と犬殺しの人がミツの宿に泊って交わした会話を、ミツ聞くとも無しに聞いて。捕えた犬の処置について相談しているらしかったが、役人は、
 「犬の肉は飯場の朝鮮人に食わしちまえ、奴ら、喜んで食うべ」
といった。ミツはドキリとした。これほど酷い辱めの言葉は、さすがのミツも今まで受けたことがなかった。そしてミツは石鹸をくれた優しい朝鮮人の顔を思い浮べ、この役人の侮辱の言葉をまるで自分が受けたように感じて衝撃を受けた。

ある日、ミツに主人の娘がこう言った。
 「朝鮮人が泊りに来たら、部屋がないと言って追い払っておくれ。朝洋人はニンニクくさいから」
 ミツは生まれてはじめて目上のものに反抗して言った。
 「朝鮮人のくれるお金が木の葉っぱというわけではないでしょうに、私は断れません。ようござんす、朝鮮人のお客は私がすべてひき受けてお世話しますから」

 このころ、ミツの父は家の付近を流れる河にはまって死んだ。村の人の知らせで駆けつけはしたが、ミツにはもはや老父が酔っぱらって足を踏み外したものなのか、あるいは自ら身を投げて老いの孤独と貧しさに訣別したものなのか知るよしもなかった。のんべ-で気性のはげしかった生前の父を思うと、そのどちらでもあるようにミツには思えるのだ。

木内ミツはその後、この宿の常客となった朝鮮人と愛し愛される仲になって、二人の子どもまでもうけるが、問題はそれだけですまなかった。彼には朝鮮人の本妻と子があったのである。そして日本人からは「朝鮮人の二号」と蔑まれ、朝鮮人からは「同胞女性を苦しめるチョツパリ女(日本人のはく足袋のことで、日本人に対する侮辱)」と恨まれつつも 男とともに豚飼いし、行商をし、どぶろく作りに励んで、いったん身も心も捧げた相手を放さずに今日に至っている。
 その十六年間にわたる生活は、彼女の生い立ちにまさる痛ましさに満ち満ちたものであり、重い宿命の剕冠は今なお彼女を日夜責めさいなんでいるのである。

 世間に出せぬ娘 

『日本残酷物語』第5部 近代の暗黒 下中邦彦氏著 一部加筆
昭和35年 平凡社刊

東京部内の枝川竹部落に居住し、内職のミシンを踏みながら帰両船の順番を待っている日本人妻松井よし子(大正十五年生まれ)も次に出てくる川田ユリに劣らぬ苦闘の結婚史を持っている。
彼女は静岡の旅館の四女に生まれ、何不自由なく育った。終戦直後、現在の夫と知り合し、愛するようになった。はじめは朝鮮人と知らず、知ったときはすでに愛していたので何の抵抗も感じなかった。
親兄弟の反対を受けるが、よし予は結婚の意志を捨てず、昭和二十一年(一九四六)身の回り品をもって出奔。向島の彼の下官に走った。実家には居所を知らせなかった。やがて二人の生活をたてるために、夫の兄のいる福島に移ろうと話がきまった。そのころ実家に北支から長兄が復員してきて、妹を案じ、そのゆくえを捜査しはじめた。兄は東京の朝連支部事務所をしらみつぶしに訪ねていた。
 よし子と夫が福島に旅立つために、下宿先をたたんで部電ホームまできたとき、夫は急に用を思い出し、よし子を持たせてそこへ向かった。そのわずかのあいだのことだった。よし子の前でとまった都電から一人、夜のホームに降り立ったのは、出征以来はじめてみるよし子の長兄だった。よし子はそのまま実家に連れ戻された。よし子はお洒落だから、着る物を取りあげてしまえば逃げられまい、ということで、旅行鞄も衣類もみなかくされしまった。しかし、よし子は十日目に、ふたたび着の身着のままで脱出した。いったん向島にもどり夫の福島行きを確かめて、そこに向かった。実家でもあきらめて、よし子の持物を送ってきた。よし子の衣装の売り食いで、しばらくはどうにか食えたが、それも尽きると、よし子は妊娠中の身万夫とともに買い出しをやった。
お嬢さん育ちのよし子にとって、はじめは四貫匁背負うのも死ぬ思いだったが、やがて八貫匁を楽に背負うようになった。その後、闇煙草巻き、焼酎を作り、ドブロク作り等を経て、白由労働者になった。朝連解散(昭和二十四年)の前ごろから夫は民族の運動に熱を入れはじめ、二十五年、朝鮮戦争がはじまってのちは、全生活を運動に捧げるようになった。よし子は夫を理解し、支持した。
 夫は運動の中で、投獄された。上の子は家に残し、乳のみ子は市場の付近の橋にくくりつけて、失業対
策事業の労働に加わるが、それだけでは食えなかった。夜はドブロクを作って、夫の留守を守った。失対事業の仕事場が家から遠くなってそこを辞め、ドブロク作り一本で生活をたてているとき警察の手入れを受け、八千円の罰金を収めなければならぬことになった。(それは昭和二十七年のことであったが、昨年八月にようやくこの罰金を払いおえた。)
昭和二十八年に三人目の子が生まれ、よし子の身年が衰弱したので、そのあいだ夫は活動を休み、出稼ぎや付近の土方に出た。よし子は健康を取り戻すと、近くの炭坑の水洗場で働いた。
 そこで働いていたある日、よし子は社長に呼ばれ、警察が身上調査にきたと嫌味を言われた。
 「私は頭にカーッと血が上って、その足で警察に怒鳴り込んだんですよ」
 
と、今そのころのことを思い出して語る彼女からは、そういうはげしい姿を想像することは困難である。彼女はふっくらとし色白の女だ。「あなたが?」とおもわず筆者が問いかえすと、
「そうですよ。朝鮮人の女房としていろんな苦労をしているうちに、警察なんてクソ喰らえって気持になっちゃうのよ。人殺しも詐欺した覚えのない私を何だって調べにきたんだ、って私はそこで泣かんばかりに怒ってやって、とうとうあやまらせましたよ」
 結局、そこも馘首された。それからはリヤカーに乳児をのせて、屑屋をやったが依然として米一升、麦五合をその目買いする暮らし。やはり、不馴れな仕事でもうけが上がらず、こんどは民間会社の土方になった。材木をかつぎ、砂利を運びする毎日がくりかえされた。
 昭和十二年、よし子はもうこれ以上、女の身体一つで一家を支えることの不可能な限界点に達したことを悟り、夫が同胞のための活動に献身しはじめて以来八年目に、そのことを夫に相談した。夫は組織活動から身を引いて東京に引き揚げて、以来今日まで町工場の臨時工として働き、よし子は家に居て内職にはげんでいる。
「この数年は楽をしているから、こんなにふとっちゃって……」と、屈託なげにいいながら彼女。は話を結んだ。
 結婚して十五年目のある日、「親戚の結婚式があるからこないか」との姉の便りに接し、よし子は祝物をととのえて静岡の実家に帰った。しかし結婚式の当日、彼女は席につらなることを許されなかった。朝鮮人の妻のよし子は、あくまでも世間に出せぬ娘であったのだ。

 悲しみはつづく 

『日本残酷物語』第5部 近代の暗黒 下中邦彦氏著 一部加筆
昭和35年 平凡社刊

    小沼けい子

大正八年、東京吉原遊郭の界隈に「牛大部」をしている父の子として生まれた。
少女時代は浅草六区の不良少女で、「チビグロのけい坊」としてならしたという。
戦後、朝鮮の青年と結婚し、名前も鄭順伊(チョンヌンイ)とあらためて、現在朝鮮女性同盟の運動に従っているが、江戸っ子気質で、もと「牛太郎」の経歴を死ぬまで誇りにしていた彼女の父は、よるべなくなった老後にも、「朝鮮人の婿の世話になることばかりはごめん」と、昭和三十二年首をくくって死んでしまった。彼女は深く悲しんだが、夫婦のきずなはますます強く結び合った。
 
 川田ユリ

大正十二年生まれの川田ユリは、十三歳のときから紡績女工として親のために働かされたされたあげく、女郎に売られた。彼女は化粧が薄いといっては主人に叱られ、客を取らされるに及び便所で泣き、目を泣きはらしたといってはまた叱られた。その不遇さに同情したある客が、条件をつけずに身請けして親元
に帰してやった。終戦直後のことである。
 貧しいユリの両親は近くで焼酎作りをして金回りのよかった朝鮮人に、彼女をむりやりに嫁入させた。その後、夫は民族的自覚に目ざめ運動にとびこんだ。とたんに収入は激減した。
するとユリの両親は経済的に無力になっ婿から娘を引き離そうと躍起になった。だがユリはもはや夫から離れようとしなかった。
 筆者が。ユリを知った昭和二十九年のころは、胃を三分の二を切りとった細い体で闇米を背負って商いをし、パチンコの景品買いもし、大阪のドヤ街で子供たちに駄菓子を売ったりなどして、一家の経済を担っていた。夫は頭の良い誠実な朝鮮人であるが、妻には暴君で、ユリは朝から晩までののしられて痛ましがったが、夫の親戚一同からは可愛がられて同情されていた。
 しかし夫には朝鮮に妻子があったのだに。まもなく夫の故郷である南朝鮮から、夫の老母が孫、すなわち。ユリの夫の先妻の子をつれて密航してきた。しかし上陸して捕まり、大村の朝鮮人収容所へ入れられてしまった。老母は息子の顔を見ることを許されず、韓国へ帰された。ユリは必死に運動して夫の子供だけは引きとったが、北鮮への帰還を控えて今後この夫婦が歩んで行かねばならぬ道は、わたしたちの想像を絶するほど険しく困難なものであろう。玄海灘の波はまだまだ深く、荒いのである。





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最終更新日  2021年04月12日 16時54分34秒
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