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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年07月13日
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カテゴリ:日本と戦争
玄海原をこえて
 
輸送船の歌声 

戦争もいよいよ末期に近づいた昭和14年(1944)10月21日の夕船が音もなく南下しているとき、わたしは異常なものを見た。突然、海上をわたって女の歌声が聞こえてきたのだ。はじめに自分の耳を疑ったが、歌声はなおも続いていた。甲板に出てみたら、右舷の方に女を満載した船がわたしたちと平行して追ってした。朝鮮から連れて来られた、慰安婦と呼ばれた人たちだった。
こんな事態になってもまだ女を巡れて戦場に赴こうとしているのだ。誰の意志なのだろう。その女たち 
を誰が買おうというのだろう。
 それから宮古島へ上陸して数ヵ月の間、はげしい米軍の砲爆撃にさらされ、ひどい軍政社会のリンチに耐えつつ、辛うじてわたしは敗戦を迎えたのだが、危険な海を渡って、私たちと同じ船団できた朝鮮の女たちはその後どうしたのだろう、と私はとぎどき思った。島に対する空襲がようやく激しくなりつつあった頃、私はからずも彼女たちの居る場所を通りかかった。下士官に引率されて、数里先へ使役に出ていった時である。道路の側の野原のようなところに、松の丸太でつくった大きい草ぶきの家があった。私たちの引率者その前で「休憩」と言った。島の子どもが何人か集まってこの女たちをからかっていた。やはり賤業婦という意識があるのだろう。私たちは腰を下ろして見ていた。この島の子どもたちは外に遊びに出るとき、たいてい鎚を腰にさしている。そのとき家の前にすわっていた一人若い朝鮮人の女が立ち上って、近くにいた子どもから鎌を借りた。鎌か手にしたと見るや、腰をかがめて、ささっとその辺の草を刈り始めた。おどろく程巧みで、熟練した手さばきだった。私は胸をうたれた。彼女は朝鮮のふるさとや親兄弟のことを思っているに違いない。彼女たちは私たちなどよりももっとひどい扱いを受けているわけだ、と思った。

奴隷狩りのように
 以上の挿話は中野清美氏の自伝記録「ある日本人」に記されていることである。玄海灘の荒波をこえて朝鮮人が本格的に移住しはじめたのは、言うまでもなく明治43年(1910)の「日韓統一以後であった。憲兵と警察の力によってすすめられた目本人による土地収奪は、世界値民史上でも類がないほど徹底的なもので、土地を奪われた農民たちは、勢い流民の群れとなって故郷を放棄せざるをえなかった。
たとえば昭和2年(1927)四月十四日の「東亜日報」は、間島方面にむかって「元山を経由した流離れ同胞が去る3月の1ヵ月間に2万人に達した」と報じ、また同年3月24日の「中外日報」は、李載水という農民の次のような談話をのせている。
 「どんなに働いても生きる途がなし。また子どもらを勉強させることもできない。学校費用を徴収しているのにもかかわらず、学校ではまた生徒から月謝とか奨励費とかを徴収している。もしもこれを納めなければ、一年に何回も授業を受けさせないことがある。そればかりか月謝を納めないといって家財を押えることになるし------。我々は一日一食あるつくこともできず、瀕死におちいっているのです。そこですべてをあきらめてただ餓死をまぬかれる途はありはせぬかと思って、間島へ向かっている。我々の目的は鳳凰城であるが、果たして該地におちつくことができるかどうか知らない」
 これは満州へ流れて行った農民の一例でよる。このほかシベリアヘ、中国本土へ、またアメリカヘ移住していった人も少なくなかったのであるが、その大多数は日本へ渡航し、あるいは強割的に拉致されて送られた。
戦争を経るごとに雪ダルマのごとく膨れていった日本の資本主義が、いかに朝鮮人の労働力か欲したか。たとえば、昭和20年3月には、全国炭鉱労働者の32%が朝鮮人で占められていたことを見ても、その事実は理解できる。とりわけ北海道の炭鉱は数が多く、昭和18年末の統計によると、坑外労働者は45%、坑内労働者は実に63パーセントという数字を示している。
 
朝鮮での労働者徴発のしかたも暴虐を極めていた。
鎌田沢一郎『朝鮮新話』によると
「納得のうえで応募させていたのでは予定数になかなか達しない。そこで郡とか村とかの労務係りが深夜もしくは早晩、突然男手のある家の寝こみ襲い、あるいは田畑で働いている最中にトラックを回して何気なくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱へ送りこみ、その責任を果たすという乱暴なことをした」。
そして戦争が最大限に狂奔した1940年から1945年までの五年間だけで、一躍百万近い朝鮮人が強制的に移動させられ、終戦時の在日朝鮮人数は236万52,353名に達していた。日本人38八人に一人が朝鮮人であったわけである。
また以上のほか、陸海軍人、軍属或いは南方各地の基地設営のための人夫として狩り出された人々が36万5263名(復員局調べ)に及んでいたことを忘れてはならない。
 中野清見氏が宮古島で目撃した朝鮮人の女にまつわる挿話はその一例にすぎないが、彼女達の生死は上の数字の中にも含まれていないのである。
 
戦慄すべき酷使 

私たち日本人がいかに朝鮮人を酷使したか。ある日本人はこういっている。「朝鮮人の常食は麦、ヒエ(稗)、アワ(粟)であるから、普通の労働者が一家五人ないし八人の家族を持っているとしても、月収15円~21円で暮していける。だから日給は1円五50銭あれば十分だ!」
と。また金斗鎔氏は『朝鮮近代社会史話』の中で、昭和20年(1945)10月、自分が目撃した福岡県常盤炭鉱の実情について次のように語っている。
 「この炭鉱には全山4万余人の炭坑夫中、朝鮮人が半分以上を占めていた。普通朝鮮から徴用されたの
は期限が2か年になっていた。ところが実際においては2ヵ年をすぎてもまた徴用を延期させられるために、その後何年もそこで働かせられた。労働時間は平均十四時間、加えて仕事に鞭うたれるため健康な者もとても続けられなかった。
 体が悪くて休むと仮病とみなされ、事務所に引っぱられて拷問を受けた。給料は貯金という形で押さえられた。逃亡をおそれる為だった。食事やその他の特配物についても会社側が分量を減らし、酒や地下足袋や衣服類もなるべく配らなれようにして、これを横領し、横流しして、係員が私腹をこやしていた。食事の量の少ないことを抗議したというかどで、監獄に8ヵ月ぶちこまれた労務者にも私は直接出会ったのである。
 朝鮮人労働者は 入山すると、訓練という名目下に3ヵ月間、仕事から帰るとたんに軍隊式の教練をやらされなければならなかった。坑内で一晩作業して帰ってきたばかりの坑夫などは、睡眠不足のためぶっ倒れることがしばしばあった。教官(会社の係長)は、朝鮮人労働者が自分の意のごとく動かし、場合には鞭をふるいつつ。
 「挑戦人はこのように鞭でなければ聴かんのだ!」
 と怒号しながら殴打した。
 耐え兼ねた労働者たちは絶望的になって逃亡を企てた。それを防ぐために、会社には専門の暴力団が雇われていた。いつもコン棒を手にもって、労動者のまわりとか山の出口とかをうろうろしながら警戒していた。そしてもし逃亡者があって警報が発せられた場合には、全山の暴内団はもちろんのこと、会社側は総出勤して探索にあたった。不幸にして逃亡者が捕まったときは、半殺しにされることを覚悟しなければならなかった。
会社でさんざんやられた上に警察にまわされ、そこで長い間拷問、留置された末、また会社にまわされ、そこでさらに会社の牢にぶちこまれた後、釈放されるのだった。またときには逃亡者をみなの前に立たせて、仲間の面前で逃亡者をなぐらせたりした。つまりありとあらゆる方法で、ふたたび逃亡の気を起こさせないほどに息の根を殺した上で出坑さすのだが、それでも虐待と酷使に我慢できず逃亡する者があった。結局わたしのしらべたところでは、全山で徴用されてきた朝鮮人の八割は逃げて居なかった。もちろん、なかには白骨になった者のも居た。(中略)
 この常盤炭鉱は決して人里はなれた深山ではなく、むしろ町から一里もはなれていない鉱山であるにもかかわらず、この様な残忍なことが平気で行なわれていた。もしもこれが北海道のような奥山の鉱山だったら、どんな事が行われていただろうか。
昭和21年(1946)北海道の炭鉱を視察したあるアメリカの新聞記者は、この地の10万人の朝鮮人労働者の姿を形容して「飢えたる奴隷(スターヴィング・スレイブ)」という言葉を使っていた。
 太平洋戦争中、日本国民の各層に分ける民族的優越感と朝鮮人蔑視のまなざしは、他のどの炭鉱よりもひどかった。しかし朝鮮人たちの反抗はそれよりもはげしく、昭和17年の各炭鉱における朝鮮人坑夫の逃走者率は福岡門‐44・6%、常盤34%、札幌15・6%と日本側の文書に記録されているのを見ても、いかに彼らのエネルギ-強烈なものであったか想像がつく。そこにききとれる「哀号」の声と憎悪と火の凄まじさ----。けれどもそのような迫害の中で、この人々が掲げた人開愛の炎は決して失われることはなかった。

迫害をこえる人々
 
飯場の娘

山形県の土木請負業、菅野良平の長女コシイは、小学四年のとき上京して、年頃になるまでに八年間を浅草のレストラン「電気屋ホール」で働いた後、宮城県宮城ノ原の雨宮工場工事を請け負っていた父の仕事の手伝いで、飯場の飯炊きをしてした。この工事場には数カ所の飯場があり、そこに150人の朝鮮人と60人の日本人が住んでいた。昭和19年(1944)の夏のこと、北海道の炭鉱のタコ部屋から脱走した朝鮮入が3人がここに逃げたといって、5、6人の警官が追ってきた。父は仙台に出張しおり、土工たちは仕事中で、飯場には、21歳になるヨシイ、一人しかいなかった。警官らは「逃亡鮮人を見かけたらすぐ知らせろ。かくしたら身のためにならんぞ」とくれぐれも言って立ち去った。
 警官たちが帰って2時間ほどたった夕刻、縁の下からうす汚れた、破れシャツの見知らぬ男が這い出してきた。ヨシイは少し驚いたが、もともと彼女は、これまで土工たちの血を流す喧嘩にも仲裁に割って入るような娘だ。すぐ気を沈めて事情を聞いた。すると、この若い朝鮮人は、よく話せない日本語で、
「……勉強がしたくて日本にわたって来たが、金に困り、学資をつくるつもりで募集員の甘言に乗って北海道の炭拡にはいった。ところが一ケ月2円の煙草銭が支給される以外に給金は一文もわたしてくれず、学資をつくるどころではない。朝鮮人にはろくにメシも食わせぬから、同僚たちは栄養でバタバタと死んでゆく。病人でも何でも鞭とコン棒言でぬまで働かせるし、少しでもさからえば拷問を受けてどのみち殺されてしまう。自分には故郷に両親もいれば兄弟もいるし、こんなところで死にたくない」
 と云う意味のことを語りつつ、ポケットから家族の写真をとり出した。逃亡のさいにもみくちゃされたのであろう、よれよれになった写頁を愛おしそうに手で伸ばして彼女にさし出す風情には、乳くさい感じさえあって、この朝鮮人の言葉に嘘があろうとは思わなかった。小学校4年のときから実社会に出て、すでに社会の裏ばかり10年も自分の足で歩いてきた彼女は、こんなときすぐさま世間的な智慧にとらわれない独自の判断を下す。------お巡りはああ云ったが、盗人や人殺しをしてきたわけではないし、勉強をしたかったというこの真面目な若者を警察に突き出す謂れがどこにあろうか。
 彼女は父の留守の間の数日を自分の飯場にかくまってやり、その後、朝鮮人経営の飯場へ彼を送りこんだ。のみならず、この青年とともに逃走して、運拙く捕えられ、仙台の刑務所に留置されている二人の
朝鮮人的ために、自分のこづかいか使って差し入れまでしてやった。こうして工事場の朝鮮人からから信頼された彼女は、自分か日本人である事と女である事を武器にして警察の警戒心をゆるめさせ、北海道に送還される前に拘留中の二人を脱走させるという彼らの計画に加担して、成功させた。
 彼女は戦後、ある朝鮮人と見合結婚したが、この時期に朝鮮人に心をかた向け、結びついていった日本女性の中には、次に述べるように、朝鮮人の虐げられた立場に共感を覚えずにはいられない悲しし境涯の女が多い。
四国出身の北海道開拓農民の二女として生れた。南国育ちの父は気の荒い奔放な男で、土地にしがみっいているだけの百姓仕事に見切りをつけて博労になってからは、東北農村生まれの妻にますます満足しなくなって乱暴を働いた。機嫌がよいときは、よくお気に入りのミツをつかまえて、
「ミツ、女というものは、おまえの母ちゃんのように、白い腰巻を灰色にして働くばかりが能じゃあえ
んだぞ」
 といったものである。この父が酒と女に浸るようになってからは、家はますますどん底に落ちた。このころのミツの悲しい思い出は限りがない。弁当をもって行けないので、昼飯時にはこっそり教室を抜け出し、校庭のブランコで遊んで時をすごした。長旅期には母について他所の家へ手伝いに行き、姉とミツと合わせて一人分の駄賃をもらう。そこが同級生の家であったりすると、その子と顔を会わせるのが耐え、がたかった。小学4年のこと、担任の先牛かミツに、自分のはき古した運動靴乍ゴミ捨て場にすててくるよう命じた。渡された靴をみると、それは父ちゃんの似ている破れた地下足袋よりずっと上等だ。ミツは校庭の隅に隠しておいて学校が終わってから持って帰った。父には、先生から貰ったといった。それからまもなく秋の運動会があって、ミツは走り競争で一等になった。狂喜した父がわれを忘れて、見物席から踊り出てきた。父はミツの親だと云って、先生の前に得恋気に名乗り出た。ミツはとっさに父の身なりを見た。よそ行きの印半纏を着ていてほっとしたが、足をみると、例の運動靴を履いているではないか。このときのはずかしさ、みじめさをミツは今もなまなましく思い出す。
 10歳ぐらいの頃だったと思う。いつものように、母を手伝って、人目を盗みながら山に薪とりに行った。生木でなければ、北海道の冬は越せない。ミツはするすると木に登って、生木の枝を折る。すると、
 「めんこい娘よのう、開口は納屋の粥にたんと米粒さ入れてやるからな」と母は言った。ミツの家では食事といっても「七つまで育てれば親の役目はすんだんだ。どこなりと出ていって口すぎしろ。このごく盗人’」とがなりたてる父の前で粥さえ二杯と吸えなかった。母はひもじがる子どもらのために夫の目をぬすんで、毎朝納屋に粥鍋をはこんでおした。ミツはオモユの中に泳いでしる米粒を一つでも多く拾いたくて、父の目はむろんのこと姉や妹の目を覚まさぬように、こっそり床を脱げ出して納屋に走るのが常であった。(しかし母のこの苦心も長くは続かなかった。まもなく父に嗅ぎ付かれて、父は妻や子どもらを打ち、蹴りして、興奮がしずまると、どこからか馬に付けるような大きな鈴を納屋の戸につけてしまった。)
 ミツは母に誉められるのが喜しくて、小猿のようにあの木、この木とよじのぼった。大自然のふところの中で母と二人でする勤労のすがすがしい楽しさと、明朝の米粒のたくさんはいった粥鍋への期待で、ミツの胸は弾んだ。しかしその喜びも束の間、母娘が背負いきれぬほどの枝を背負って道なき道をえらんで山を降りるとき、茂みの中で山の管理人にはばったり出っくわしてしまった。
 二人は度肝を抜かれ、動顛のあまり枝木を背負ったままへなへなと尻もちをついてしまった。母はと見ると、背負い子をおろして手拭いをはずし、腰を二つに折って詫びている。小父さんはそう悪い人ではないらしく、
 「今日は見のがしてやるが、念のため名前と住所だけを行いておく」
 と言って千帖を取り出し、鉛筆をにぎった。ミツはこれまでまた部落の人達や学校友だちからはずかしめをうけるのかと思うと、目の前が真暗になった。母は口ごもりながら、ミツの隣村の部落の名を言った。つづけて、でたらめの氏名をいった。ミツは子供心にも危機が去ったのを感じた。帰り道、母は子どもの前で嘘をついたことかは恥じているのか、いつもに似ず饒舌になった。ミツは、「いいよ、母ちゃん』
 と言って唇をかんだ。やがて、ダルマ屋の女に入れあげる夫、酒を帯びて帰っては乱暴を働く夫のもとで、ミツの母は自分も子供も守りきれなくなった。姉が独立できるようになると、母は幼い子を連れ、父のお気に入りのミツだけを残して、実家に戻ったに。ミツにとって、父との生活は恐怖だった。家主に
は家賃滞納で追いたてられる。移った先には執達吏がくる。ミツは二言目には「満州に売りとばす」という父が恐ろしくて、数え年14才のとき、とうとう母のもとに逃げて行った。しかし母もまた貧農の兄夫婦のもとで、肩身狭く家内労働をしている身である。彼女がしてやれたことは二円(昭和11年)の金を工面して、質流れの煎餅蒲団をー枚をミツに買い奉公先を見つけてやることだけであった。
 ミッはその蒲団をもって、札幌をふり出しに、転々と女中奉公をして歩き、太平洋先生のころは道内の田舎旅館の飯炊きであった。このときミツは生まれてはじめて、外米であれ腹一杯の固い飯しを食べるこ
とができた。
 そのころ。旅館の近くで溝梁工事が始まった。朝鮮人飯場もできて、若い衆がミツの働く台所に水を貰いにきたりするようになった。。ミツは父の元にあるころ、「支那人でも朝鮮人でも誰でもいい。父ちゃん
のようにお酒を呑まないで、乱暴をしないであたいにやさしくしてくれる人さえあれば、早くお嫁にゆきたい」と夢見たこともある。まして今はもう娘盛り。「ミッ!」「おミツ!」「ミツヤ!」と呼びすてにされた覚えしかない彼女には、飯場の朝鮮人が慣れない日本語で、「オミツさん」(それはどうしても「おミチシヤン」と聞こえたけれど)と呼んでくれだけでもうれしかったし、なかにはミツの灰色によごれたエプロンを気にして、自分の配給石鹸を置いていってくれる朝鮮人もあった。
ミツのこれまでの生涯に、どんな他人がこんな優しい心遣い示してくれたであろう。
 ある時、周囲一帯で野犬狩りが行われた夜のことである。役人と犬殺しの人がミッの宿に泊って交わした会話を、ミツは聞くともなしに聞いてしまった。とらえた犬の処置について相談しているらしかったが、役人は、
 「犬の肉は飯場の朝鮮人に食わしちまえ、奴ら、喜んで食うべ」
 といった。ミツはドキリとした。これほどひどいはずかしめの言葉は、さすがのミツも今まで受けたことが無かった。そしてミツは石石鹸をくれたやさしい朝鮮人の顔を思い浮べ、この役人の侮辱の言葉をまるで自分が受けるもののように感じて衝撃を受けた。
ある日、ミツに主人の娘がこう言った。
 「朝鮮人がきたら、部屋がないといって追い払ってくれ。朝鮮人はニンニク臭いから」
 ミツはこの言葉に生まれてはじめて目上の人に反抗して言った。
 「朝鮮人のくれるお金が本の葉っぱというわけではないでしょうに、私は断れません。ようござんす、朝鮮人のお客は私が全部ひき受けてお世話しますから」

 このころ、ミツの父は家の付近を流れる河にはまって死んだ。村の人の知らせで駆けつけはしたが、ミツにはもはや老父が酔っぱらって足を踏みはずしたものなのか、あるいは自ら身を投げて老いの孤独と貧しさに離別したものなのか知るよしもなかった。のんべで気性の激しかった生前の父を思うと、そのどちらでもあるようにミツには思えるのだ。木内ミツはその後、この宿の常客となった朝鮮人と愛し愛される仲になって、二人の子どもまでもうけるが、問題はそれだけですまなかった。彼には朝鮮人の本妻と子供があったのである。そして日本人からは「朝鮮人の二号」とさげすまれ、朝鮮人からは「同胞女性を苦しめるチョツパリ女(チョッパリとは、日本人の履く足袋のことで、日本人に対する他称)」と恨まれつつも、男とともに豚飼いをし、行商をし、どぶろく作りに励んで、いったん身も心も捧げた相手を放さずに今日にいたっている。
 その十六年間にわたる生活は、彼女の生い立ちにまさる痛ましさに満ち道々満ちたものであり、重い宿命の刑冠は今なお彼女を日夜責めさいなんでいるのである。
 
世間に出せぬ娘 
東京部内の枝川町部落に居住し、内職のミシンを踏みながら帰国船の順番を待っている日本人妻松井よし子(大正15年生まれ)も次に出てくる川田ユリに劣らぬ苦闘の結婚史をもっている。彼女は静岡の旅館の四女に生まれ、何不自由なく育った。終戦直後、現在の夫と知り合し、愛するようになった。はじめは朝鮮人と知らず、知ったときはすでに愛していたので何の抵抗も感じなかった。
親兄弟の反対を受けるが、よし予は結婚の意志を捨てず、昭和21年(1946)身の回り品をもって出奔。
向島の彼の下宿に走った。実家には居所を知らせない。やがて二人の生活をたてるために、夫の兄のいる福島に移ろうと話がきまった。そのころ実家に北支から長兄が復員してきて、娃を案じ、そのゆくえを捜査しはじめた。兄は東京の朝連支部事務所をしらみつぶしにたずねていた。
 よし子と夫が福島に旅立つために、下宿先をたたんで都電ホームまできたとき、夫は急に用を思い出し、よし子を待たせてその場所に向かった。その僅かの間のことだった。よし子の前み止まった都電から一人、夜のホームにおりたったのは、出往以来始めて見るよし子の長兄だった。よし子はそのまま実家に連れ戻された。よし子はおしやれだから、着るものを取りあげてしまえば逃げられまい、ということで、旅行鞄や衣類もみな隠されてしまった。しかし、よし子は十日目に、ふたたび着のみ着のままで脱出した。いったん向島にもどり夫の福島行きを確かめて、そこに向かった。実家でも諦めて、よし子の持物を送ってきた。よし子の衣装の売り食いでえ、しばらくはどうにか食えたが、それも尽きると、よし子は妊娠中の身で夫とともに買い出しをやった。
お嬢さん育ちのよし子にとって、はじめは四貢匁を背負うのも死ぬ思いだったのに、やがて八貫匁を背負うようになった。その後、闇煙草巻き、焼酎つくり、ドブロク作り等を経て、白由労働者になった。
朝鮮解散(昭和24年)の前ごろから夫は民族の運動に熱を入れけじめ、二十五年、朝鮮戦争がはじまってのちは、全生活を運動に捧げるようになった。よし子は夫を理解し、支持した。
 夫は運動の中で、投獄された。上の子は家に残し、乳のみ児は工事場の付近の橋にくくりつけて、失業対策事業の労働に加わるが、これだけでは食えなかった。夜はドブロクを作って、夫の留守をまもった。
失業対策の仕事場が家から遠くなったのでやめ、ドブロク作り一本で生活をたてているとき警察の手入れを受け、8千円の罰金をおさめなければならぬことになった。(それは昭和二十七年のことであったが昨年八月にようやくこの罰金を払いおえた。)
昭和28年に三人目の子が生まれ、よし子の身が衰弱したので、そのあいだ夫は活動を休み、出稼や付近の土方に出た。よし子は健康をとりもどすと、近くの炭坑の水洗場で働いた。
 そこで働いていたある日、よし子は社長によばれ、警察が身土調査に来たと嫌味をいわれた。
 「私は頭にカーツと血がのぼって、その足で警察にどなりこんだんですよ」
と、今そのころのことを思い出して語る女からは、そういうはげしい姿を想像することは困難である。彼 
女はふっくらとし白邑山の女だ。「あなたが?」とおもわず筆者が問いかえすと、
 「そうですよ。朝鮮人の女房としていろんな苦労をしているうちに、警察なんて!クソ喰らえって!気持になっちゃうのよ。人殺しも詐欺も身に覚えのない私を、何だって調べに今きたんだって私はそこで拉かんばかりに怒ってやって、とうとうあまらせましたよ」
 結局、そこも首にされた。それからはリヤカーに乳児か乗せて、屑屋をやったが依然として米一升、麦五合をその日買いする暮らし。やはり、不馴れな仕事で儲けがあがらず、こんどは民間会社の土方になった。木材を担ぎ、砂利運びする毎日がくりかえされた。
 昭和32年、よし子はもうこれ以上、女の身体一つで家を支えることの不可能な限界点に達したことを
悟り、夫は示同胞のための活動に献身しはじめて以来八年目に、そのことを夫に相談した。夫は組織活動から身を引き、東京に引き揚げて、以来今日まで町工場の臨時工として働き、よし子は家に居て内職に励んでいる。
「この数年は楽をしているから、こんなにふとっちゃって……」と、屈託なげに云いながら彼女は話を結んだ。
 結婚して十五年目のある日、「親戚の結婚式があるからからこないか」との姉の便りに接し、よし子は祝物をととのえて静岡の実家に帰った。しかし結婚式の当日、彼女は席に連なることを許さなかった。朝鮮人の妻のよし子は、あくまでも世間に出せぬ娘であったのだ。
 
悲しみは続く 

小沼けい子は大正8年、東京吉原遊郭の界隈に「牛太郎」をしている父の子として生まれた。少女時代は浅草六区の不良少女で、「チビグロのけい坊」としてならしたという。
戦後、朝鮮の青年と結婚し、名前も鄭順伊と(チョンスイ)あらためて、現在朝鮮女性同盟の運動に従っているが、江戸っ子気質で、もと「牛太郎」の経歴を死ぬまで誇りにしていた彼女の父は、よるべなくなった老後にも、「朝鮮人の婿などの世話になることばかりはごめん」と、昭和32年、首を括って死んでしまった。彼女は深く悲しんだが、夫婦の絆はますます強く結びあった。
 また大正12年生まれの川田ユリは、十三歳のときから紡績女工として家のためにはたらかされたあげく、女郎に売られた。彼女は化粧がうすいといっては主人に叩かれ、客をとらされる度に便所で泣き、目を泣きはらしたといってはまた叱られた。その不憫さに同情したある客が、条件かつけずに身請けして親元とに帰してやった。終戦直後のことである。
 貧しいユリの両親は近くで焼酎作りをして金回りのよかった朝鮮人に、彼女を無理やりに嫁入させた。その後、夫は民族的自覚に目ざめ、運動にとびこんだ。とたんに収入は激減した。
するとユリの両親は経済的に無力になった婿から娘を引き離そうと躍起になった。だがユリは最早夫から離れようとしなかった。
 筆者がユリを知った昭和29年のころは、胃を三分の二を切りとった細い体で闇米を背負ってあきないをし、パチンコの景品買いもして、大阪のドヤ街で子供らに駄菓子を売ったりなどして一家の経済をになっていた。夫は頭のいい誠実な朝鮮人であるが、妻には暴君で、ユリは朝から晩までののしられて痛ましかったが、夫の親戚一同からは可愛がられて同情されていた。
 しかし夫には朝鮮に妻子があったのだ。まもなく夫の故郷である南朝鮮から、夫の老母が孫、すなわちユリの夫の妻子の子をつれて密航してきた。しかし上陸して捕まり、大村の朝鮮人収容所へ入れられてしまった。
老母は息子の顔を見ることも許されず、韓国へ帰された。ユリは必死に運動して夫の子供だけは引きとった。が、北鮮への帰還をひかえて今後この夫婦が歩んで行かねばならぬ道は、わたしたちの想像を絶するほどけわしく困難なものであろう。玄海原の波はまだまだ深く、荒れのである。
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最終更新日  2021年04月12日 06時28分23秒
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