カテゴリ:日本と戦争
輸送船の歌声 奴隷狩りのように
戦争もいよいよ末期に近づいた昭和14年(1944)10月21日の夕船が音もなく南下しているとき、わたしは異常なものを見た。突然、海上をわたって女の歌声が聞こえてきたのだ。はじめに自分の耳を疑ったが、歌声はなおも続いていた。甲板に出てみたら、右舷の方に女を満載した船がわたしたちと平行して追ってした。朝鮮から連れて来られた、慰安婦と呼ばれた人たちだった。 こんな事態になってもまだ女を巡れて戦場に赴こうとしているのだ。誰の意志なのだろう。その女たちを誰が買おうというのだろう。 それから宮古島へ上陸して数ヵ月の間、はげしい米軍の砲爆撃にさらされ、ひどい軍政社会のリンチに耐えつつ、辛うじてわたしは敗戦を迎えたのだが、危険な海を渡って、私たちと同じ船団できた朝鮮の女たちはその後どうしたのだろう、と私はとぎどき思った。島に対する空襲がようやく激しくなりつつあった頃、私はからずも彼女たちの居る場所を通りかかった。下士官に引率されて、数里先へ使役に出ていった時である。道路の側の野原のようなところに、松の丸太でつくった大きい草ぶきの家があった。私たちの引率者その前で「休憩」と言った。島の子どもが何人か集まってこの女たちをからかっていた。やはり賤業婦という意識があるのだろう。私たちは腰を下ろして見ていた。この島の子どもたちは外に遊びに出るとき、たいてい鎚を腰にさしている。そのとき家の前にすわっていた一人若い朝鮮人の女が立ち上って、近くにいた子どもから鎌を借りた。鎌か手にしたと見るや、腰をかがめて、ささっとその辺の草を刈り始めた。おどろく程巧みで、熟練した手さばきだった。私は胸をうたれた。彼女は朝鮮のふるさとや親兄弟のことを思っているに違いない。彼女たちは私たちなどよりももっとひどい扱いを受けているわけだ、と思った。 奴隷狩りのように 以上の挿話は中野清美氏の自伝記録「ある日本人」に記されていることである。玄海灘の荒波をこえて朝鮮人が本格的に移住しはじめたのは、言うまでもなく明治43年(1910)の「日韓統合」以後であった。憲兵と警察の力によってすすめられた目本人による土地収奪は、世界値民史上でも類がないほど徹底的なもので、土地を奪われた農民たちは、勢い流民の群れとなって故郷を放棄せざるをえなかった。 たとえば昭和2年(1927)4月14日の「東亜日報」は、間島方面にむかって「元山を経由した流離れ同胞が去る3月の1ヵ月間に2万人に達した」と報じ、また同年3月24日の「中外日報」は、李載水という農民の次のような談話をのせている。 「どんなに働いても生きる道がなし。また子どもらを勉強させることもできない。学校費用を徴収しているのにもかかわらず、学校ではまた生徒から月謝とか奨励費とかを徴収している。もしもこれを納めなければ、一年に何回も授業を受けさせないことがある。そればかりか月謝を納めないといって家財を押えることになるし------。我々は一日一食あるつくこともできず、瀕死におちいっているのです。そこですべてをあきらめてただ餓死をまぬかれる途はありはせぬかと思って、間島へ向かっている。我々の目的は鳳凰城であるが、果たして該地におちつくことができるかどうか知らない」 これは満州へ流れて行った農民の一例でよる。このほかシベリアヘ、中国本土へ、またアメリカヘ移住していった人も少なくなかったのであるが、その大多数は日本へ渡航し、あるいは強割的に拉致されて送られた。 戦争を経るごとに雪ダルマのごとく膨れていった日本の資本主義が、いかに朝鮮人の労働力か欲したか。たとえば、昭和20年3月には、全国炭鉱労働者の32%が朝鮮人で占められていたことを見ても、その事実は理解できる。とりわけ北海道の炭鉱は数が多く、昭和18年末の統計によると、坑外労働者は45%、坑内労働者は実に63パーセントという数字を示している。 朝鮮での労働者徴発のしかたも暴虐を極めていた。 鎌田沢一郎『朝鮮新話』によると 「納得のうえで応募させていたのでは予定数になかなか達しない。そこで郡とか村とかの労務係りが深夜もしくは早晩、突然男手のある家の寝こみ襲い、あるいは田畑で働いている最中にトラックを回して何気なくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱へ送りこみ、その責任を果たすという乱暴なことをした」。 そして戦争が最大限に狂奔した1940年から1945年までの五年間だけで、一躍百万近い朝鮮人が強制的に移動させられ、終戦時の在日朝鮮人数は236万52,353名に達していた。日本人38八人に一人が朝鮮人であったわけである。 また以上のほか、陸海軍人、軍属或いは南方各地の基地設営のための人夫として狩り出された人々が36万5263名(復員局調べ)に及んでいたことを忘れてはならない。 中野清見氏が宮古島で目撃した朝鮮人の女にまつわる挿話はその一例にすぎないが、彼女達の生死は上の数字の中にも含まれていないのである。 戦慄すべき酷使 私たち日本人がいかに朝鮮人を酷使したか。ある日本人はこういっている。「朝鮮人の常食は麦、ヒエ(稗)、アワ(粟)であるから、普通の労働者が一家五人ないし八人の家族を持っているとしても、月収15円~21円で暮していける。だから日給は1円50銭あれば十分だ!」 と。また金斗鎔氏は『朝鮮近代社会史話』の中で、昭和20年(1945)10月、自分が目撃した福岡県常盤炭鉱の実情について次のように語っている。 「この炭鉱には全山4万余人の炭坑夫中、朝鮮人が半分以上を占めていた。普通朝鮮から徴用されたの は期限が2か年になっていた。ところが実際においては2ヵ年をすぎてもまた徴用を延期させられるために、その後何年もそこで働かせられた。労働時間は平均十四時間、加えて仕事に鞭うたれるため健康な者もとても続けられなかった。 体が悪くて休むと仮病とみなされ、事務所に引っぱられて拷問を受けた。給料は貯金という形で押さえられた。逃亡をおそれる為だった。食事やその他の特配物についても会社側が分量を減らし、酒や地下足袋や衣服類もなるべく配らなれようにして、これを横領し、横流しして、係員が私腹をこやしていた。食事の量の少ないことを抗議したというかどで、監獄に8ヵ月ぶちこまれた労務者にも私は直接出会ったのである。 朝鮮人労働者は 入山すると、訓練という名目下に3ヵ月間、仕事から帰るとたんに軍隊式の教練をやらされなければならなかった。坑内で一晩作業して帰ってきたばかりの坑夫などは、睡眠不足のためぶっ倒れることがしばしばあった。教官(会社の係長)は、朝鮮人労働者が自分の意のごとく動かし、場合には鞭をふるいつつ。 「挑戦人はこのように鞭でなければ聴かんのだ!」 と怒号しながら殴打した。 耐え兼ねた労働者たちは絶望的になって逃亡を企てた。それを防ぐために、会社には専門の暴力団が雇われていた。いつもコン棒を手にもって、労動者のまわりとか山の出口とかをうろうろしながら警戒していた。そしてもし逃亡者があって警報が発せられた場合には、全山の暴内団はもちろんのこと、会社側は総出勤して探索にあたった。不幸にして逃亡者が捕まったときは、半殺しにされることを覚悟しなければならなかった。 会社でさんざんやられた上に警察にまわされ、そこで長い間拷問、留置された末、また会社にまわされ、そこでさらに会社の牢にぶちこまれた後、釈放されるのだった。またときには逃亡者をみなの前に立たせて、仲間の面前で逃亡者をなぐらせたりした。つまりありとあらゆる方法で、ふたたび逃亡の気を起こさせないほどに息の根を殺した上で出坑さすのだが、それでも虐待と酷使に我慢できず逃亡する者があった。結局わたしのしらべたところでは、全山で徴用されてきた朝鮮人の八割は逃げて居なかった。もちろん、なかには白骨になった者のも居た。(中略) この常盤炭鉱は決して人里はなれた深山ではなく、むしろ町から一里もはなれていない鉱山であるにもかかわらず、この様な残忍なことが平気で行なわれていた。もしもこれが北海道のような奥山の鉱山だったら、どんな事が行われていただろうか。 昭和21年(1946)北海道の炭鉱を視察したあるアメリカの新聞記者は、この地の10万人の朝鮮人労働者の姿を形容して「飢えたる奴隷(スターヴィング・スレイブ)」という言葉を使っていた。 太平洋戦争中、日本国民の各層に分ける民族的優越感と朝鮮人蔑視のまなざしは、他のどの炭鉱よりもひどかった。しかし朝鮮人たちの反抗はそれよりもはげしく、昭和17年の各炭鉱における朝鮮人坑夫の逃走者率は福岡、44・6%、常盤、34%、札幌、15・6%と日本側の文書に記録されているのを見ても、いかに彼らのエネルギ-強烈なものであったか想像がつく。そこにききとれる「哀号」の声と憎悪と火の凄まじさ----。けれどもそのような迫害の中で、この人々が掲げた人開愛の炎は決して失われることはなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月12日 06時27分50秒
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