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2019年07月23日
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カテゴリ:日本と戦争
日本に於ける 朝鮮支配と徴用工
 
  参考資料 『太平洋戦争』 著者 藤原彰氏 1970 文英堂発行 
         『日本残酷物語』 編集 発行 下中邦彦氏 昭和35年刊
 
 徴用工について連日報道を賑わせているが、改めて書物に目を通すと、日本が朝鮮や中国で行ってきた卑劣な行為には目を見張るものがある。史実は覆すことはできないが、悔いて謝罪をして償いをすることに思いが馳せる。徴用工についても真摯に見つめ直さないとならない。 
 
 徴用工について 『太平洋戦争』 より抜粋
  
 (前文略)この徴用令状は白紙であったので、赤紙召集にたいする白紙召集として恐れられた。権力が強制的に人間をかり出す点では同様であり、行き先が戦場か軍需工場かのちがいがあるだけだった。徴用は国民動員の手段の中でも、もっとも苛酷であった。
 太平洋戦争に突入すると、この徴用制度はさらにきびしくなった。徴用制には、さらに「勤労手帳制度」と「国民登録制度」が加わり、すべての国民を労働力の対象として強制的に国家統制のもとに釘づけにすることになった。昭和十六年二九順二)十二月には労務需給調整令が公布されて、労働者の解雇・退職はすべて国民職業紹介所長の認可が必要となり、また小学校卒業者に至るまで、すべての労働者の配流について指示命令が行ない得ることになった。そして農業や中小商工業、とくに小売業からの徴用がきびしく行なわれた。
 未熟練の徴用工は、遠く家を離れて監視つきの寄宿舎の中で管理され、低賃金で奴隷的な労働を強いられたのである。なれぬ農民や商店主が、徴用工として旋盤や機械に立ち向かい、寄宿舎でたこ部屋的な生活を強いられていた。それは強制労働的な色彩が濃いものであった。
 
 徴用工 朝鮮人・中国人
 
 戦争の拡大とともに、徴用工の徴は次第に増加していった。そして徴用工でもたりない部分は、植民地朝鮮から強制的に巡行した労働者、あるいは中国からの捕虜・強制労働者で補われた。この徴用工や強制労働者は、監獄なみの侍遇のもとで、資本の利潤追及の道具とされていたのである。
 企業整備も国民生活に大きな影響をあたえた。軍事生産の拡大のために強制的な軍事産業への転換政策の一環として行なわれた企業整備は、一面では中小企業の大企業への整理統合であり、他の一面では、小売り業の整理とその労働力の大企業への編入という意味をもっていた。
 昭和十七年(1942)五月、企業整備令が公布され、企業整備については政府に法的強制力があたえられ、広汎な産業分野が整理の対象になった。とくに小売り業者にたいする整理は、労働力を急速に調達する必要から、強権的に行なわれた。
 東京だけで、昭和十八年半ばまでに一万一千の小売り店舗が閉鎖され、その店主は徴用工にかり出された。

 (中略)
 朝鮮・合湾・満州を植民地とし、ここに苛酷な軍事支配を行ない、さらにアジア最大の民族中国にたいして大規模な侵略戦争を戦っている日本が、「大東亜共栄圏」や「アジアの解放」を口にしても、それは内外から信用されるはずがない。まして南方占領地域を「解放」せず、領土としようとしていたことをもってしては、この戦争をとうてい解放戦争と規定できないのである。
 三千年の歴史と、すぐれた文化をもつ朝鮮民族が、四〇年間日本の支配下に置かれた状態ほど、「共存共栄」やアジア解放のかけ声の内実を示すものはなかろう。日露戦争以後、「合邦」の名において完全な植民地とされて以来、朝鮮にたいする日本の支配は、他のどのような植民地支配にも苛酷さにおいて劣らないものであった。

 領有いらい日本の帝国主義が朝鮮にたいして行なった植民地政策は、徹底した弾圧と搾取であった。明治三十七年(1904)から四十三年(1910)にいたる朝鮮併合の過程は、朝鮮人民の独立闘争にたいする日本軍隊の血みどろの攻撃の歴史であった。併合後も、朝鮮統治は、軍隊を背景とし憲兵と警察が直接の担当者となり、行政官から小学校の教員までが帯剣して臨んだ武力支配であった。
 この下で、朝鮮民族はいっさいの自由を奪われ、大規模な朝鮮土地調査事業によってその土地まで奪い去られた。
 1919年(大正八年)三月一日、朝鮮の人民は独立万歳を叫んで反抗に立ち上がった。これにたいして三ヵ月間の残酷な武力鎮圧を行なったあと、日本の支配は、武断政策から文治政策にかわったとされている。
 しかしこれ以後の「同化政策」は、支配の緩和を意味するのではなかった。それは朝鮮人を民族として抹殺しようとするもので、日本語教育を強制し、日本の歴史を教え、「皇統化」をはかるものにほかならなかった。土地収奪についで、日本の資本が朝鮮に進出し、民族資本の成長を押え、二乗にも三乗にも搾取を強化するものであった。日本の大陸進出の基地として重要な意味をもった朝鮮にたいしては、水力発電をはじめ工業建設が行なわれたが、それも朝鮮人民の生活水準を向上させるものではなく、軍事工業化をはかったにすぎなかった。
 米騒動以後は、朝鮮でも米の増産がはかられたが、それは内地の食糧不足をカバーするためで、朝鮮での米の産高がふえるのに反比例して、朝鮮入の米の消費量は減り、雑穀で飢えをしのがねばならない状態であった。
 戦争に入ると、食糧原料の供給地としての朝鮮の必要はいっそう大きくなり、略奪はますます苛酷になった。日本本土の食糧不足を補うため、朝鮮に実施された食料配給制度は、実質的には朝鮮人に米を食べることを禁止して、すべて本土に運びこむものだった。日本国内で不足する繊維資源として、綿花・麻の栽培が強制され、それもすべて強制供出させられた。その他の軍需資源も同様であり、戦争のための大兵站基地として、人民の生活は最低以下に押し付けられていたのである。
 しかし、朝鮮人にとって、もっと残酷であったのは、食糧や資源以上に、人間そのものをかり出されたことである。植民地収奪の激しさから、生活の手段を失った朝鮮人は、併合以後日本本土や満州に大量に低賃金労働者として流出していた。戦争に入って、本土の労働力不足が深刻になると、こうした流出労働者だけでなく、強制的に朝鮮人労働者を巡行し、もっとも労働のきびしい炭坑や鉱山や、港湾の荷役に酷使することが、政府の手で大規模に行なわれた。
 「契約労働者」という名の奴隷労働者として強制連行された者の数は、昭和十四年(1939)から二十年(1945)六月までで、六六万七千人をこえている。これはその他の一般労働者を含まない数である。この人々は、監獄部屋同然の宿舎に監禁され、警察の監視下に奴隷的な労働に従事させられたのである。
 戦局がきびしくなると、兵力の不足を補うため、朝鮮人を兵士として戦場に送ることも行なわれた。昭和十三年(1938)いらい特別志願兵として朝鮮人を陸軍に採用したが、もちろん自発的に志願する者が多いはずはなく、この「志願」は強制的な割当てによって行なわれた。
 さらに昭和十八年からは徴兵制が施行され、多くの朝鮮人青年が中国大陸やビルマや南方諸島に送られた。南方の多くの島々には、このほかに軍属の名で、飛行場建設などの労働者として、多数の朝鮮人が送りこまれた。連合国側に捕虜となった者の中に朝鮮人が多いのはそのためである。青年男子が戦場に送られただけではない。多数の女子が、慰安婦として戦場に巡行され、日本兵のため奉仕させられるという、民族的辱しめを受けさせられたのである。
 戦争下では、資源や労働力の収奪、が激しくなっただけに終わらなかった。民族としての朝鮮人を完全に抹殺
してしまおうとするきちがいじみた政策が実行された。
 昭和十四年いらい「創氏改姓」が強制され、先祖からの姓と親のつけた名を、日本式に変えさせることが行なわれていた。
 昭和十八年には朝鮮教育令の改正が行なわれて、朝鮮語中朝鮮歴史の教育が禁じられ、すべて日本国内の教育に準じて、天皇主義・軍国主義の教育が行なわれることになった。言語も風俗習慣も、朝鮮本来のものをすべて禁じて、完全に日本人に同化させようという政策である。しかしこの「同化」は同一化でないことはもちろんで、選挙権を始めとするいっさいの人民の権利は認められず、憲兵と警察の弾圧支配はますます苛酷になっていった。ポツダム宣言の中で、「朝鮮人民の奴隷的状態」と述べている言葉は真実であった。
 もちろん朝鮮人民は、このような状態に唯々(いい)として屈従していたのではない。地下でたえまない反抗の戦いがつづけられ、はげしい弾圧を冒して労働運動・農民運動も続けられた。日本国内にほとんど抵抗運動が影をひそめた戦時下においても、朝鮮における民族的戦いは止まず、朝鮮の治安情勢は、日本にとっての大きな不安の種であった。
 さらに満州東部の朝鮮人居住地区を地盤とする武装闘争は、金日成(きむいるそん)の指導の下に発展し、昭和元年(1934)には朝鮮人民革命軍が、翌年には統一戦線として祖国光復会が結成された。
 昭和12年(1937)6月4日、金日成の指揮する朝鮮人民革命軍は,国境を越えて朝鮮成鏡北道の普天堡に進攻し,日本の警察・役所を襲った。この武装闘争は国境をこえて朝鮮北部への武力進撃を繰り返し、日本の帝国主義支配を脅かしていたのである。
 植民地解放のため戦ったという日本帝国主義の、自ら支配する植民地の実態はこのようなものであった。もっと古くからの植民地台湾でも、実質的な植民地満州でも、支配の実態は同様であったのである。

 戦争を経るごとに雪ダルマのごとく膨れていった日本の資本主義が、いかに朝鮮人の労働力か欲したか。たとえば、昭和20年3月には、全国炭鉱労働者の32%が朝鮮人で占められていたことを見ても、その事実は理解できる。とりわけ北海道の炭鉱は数が多く、昭和18年末の統計によると、坑外労働者は45%、坑内労働者は実に63パーセントという数字を示している。
 
 朝鮮での労働者徴発のしかたも暴虐を極めていた。
 
 『日本残酷物語』 編集 発行 下中邦彦氏 昭和35年刊
 
 鎌田沢一郎『朝鮮新話』によると
 「納得のうえで応募させていたのでは予定数になかなか達しない。そこで郡とか村とかの労務係りが深夜もしくは早晩、突然男手のある家の寝こみ襲い、あるいは田畑で働いている最中にトラックを回して何気なくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱へ送りこみ、その責任を果たすという乱暴なことをした」。
 そして戦争が最大限に狂奔した1940年から1945年までの五年間だけで、一躍百万近い朝鮮人が強制的に移動させられ、終戦時の在日朝鮮人数は236万52,353名に達していた。日本人38八人に一人が朝鮮人であったわけである。
 また以上のほか、陸海軍人、軍属或いは南方各地の基地設営のための人夫として狩り出された人々が36万5263名(復員局調べ)に及んでいたことを忘れてはならない。
 中野清見氏が宮古島で目撃した朝鮮人の女にまつわる挿話はその一例にすぎないが、彼女達の生死は上の数字の中にも含まれていないのである。
 
 戦慄すべき酷使 

 私たち日本人がいかに朝鮮人を酷使したか。ある日本人はこういっている。「朝鮮人の常食は麦、ヒエ(稗)、アワ(粟)であるから、普通の労働者が一家五人ないし八人の家族を持っているとしても、月収15円~21円で暮していける。だから日給は1円五50銭あれば十分だ!」
と。また金斗鎔氏は『朝鮮近代社会史話』の中で、昭和20年(1945)10月、自分が目撃した福岡県常盤炭鉱の実情について次のように語っている。
 「この炭鉱には全山4万余人の炭坑夫中、朝鮮人が半分以上を占めていた。普通朝鮮から徴用されたの
は期限が2か年になっていた。ところが実際においては2ヵ年をすぎてもまた徴用を延期させられるために、その後何年もそこで働かせられた。労働時間は平均十四時間、加えて仕事に鞭うたれるため健康な者もとても続けられなかった。
 体が悪くて休むと仮病とみなされ、事務所に引っぱられて拷問を受けた。給料は貯金という形で押さえられた。逃亡をおそれる為だった。食事やその他の特配物についても会社側が分量を減らし、酒や地下足袋や衣服類もなるべく配らないようにして、これを横領し、横流しして、係員が私腹をこやしていた。食事の量の少ないことを抗議したというかどで、監獄に8ヵ月ぶちこまれた労務者にも私は直接出会ったのである。
 朝鮮人労働者は 入山すると、訓練という名目下に3ヵ月間、仕事から帰るとたんに軍隊式の教練をやらされなければならなかった。坑内で一晩作業して帰ってきたばかりの坑夫などは、睡眠不足のためぶっ倒れることがしばしばあった。教官(会社の係長)は、朝鮮人労働者が自分の意のごとく動かし、場合には鞭をふるいつつ。
 「挑戦人はこのように鞭でなければ聴かんのだ!」
 と、怒号しながら殴打した。
 耐え兼ねた労働者たちは絶望的になって逃亡を企てた。それを防ぐために、会社には専門の暴力団が雇われていた。いつもコン棒を手にもって、労動者のまわりとか山の出口とかをうろうろしながら警戒していた。そしてもし逃亡者があって警報が発せられた場合には、全山の暴内団はもちろんのこと、会社側は総出勤して探索にあたった。不幸にして逃亡者が捕まったときは、半殺しにされることを覚悟しなければならなかった。
 会社でさんざんやられた上に警察にまわされ、そこで長い間拷問、留置された末、また会社にまわされ、そこでさらに会社の牢にぶちこまれた後、釈放されるのだった。またときには逃亡者をみなの前に立たせて、仲間の面前で逃亡者を殴らせたりした。つまりありとあらゆる方法で、ふたたび逃亡の気を起こさせないほどに息の根を殺した上で出坑さすのだが、それでも虐待と酷使に我慢できず逃亡する者があった。結局わたしの調べたところでは、全山で徴用されてきた朝鮮人の八割は逃げて居なかった。もちろん、なかには白骨になった者のも居た。(中略)
 この常盤炭鉱は決して人里はなれた深山ではなく、むしろ町から一里もはなれていない鉱山であるにもかかわらず、この様な残忍なことが平気で行なわれていた。もしもこれが北海道のような奥山の鉱山だったら、どんな事が行われていただろうか。
 昭和21年(1946)北海道の炭鉱を視察したあるアメリカの新聞記者は、この地の10万人の朝鮮人労働者の姿を形容して「飢えたる奴隷(スターヴィング・スレイブ)」という言葉を使っていた。
 太平洋戦争中、日本国民の各層に分ける民族的優越感と朝鮮人蔑視のまなざしは、他のどの炭鉱よりもひどかった。しかし朝鮮人たちの反抗はそれよりもはげしく、昭和17年の各炭鉱における朝鮮人坑夫の逃走者率は福岡44・6%、常盤34%、札幌15・6%と日本側の文書にされているのを見ても、いかに彼らのエネルギ-強烈なものであったか想像がつく。そこにききとれる「哀号」の声と憎悪と火の凄まじさ----。けれどもそのような迫害の中で、この人々が掲げた人間愛の炎は決して失われることはなかった。





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最終更新日  2021年04月12日 06時26分53秒
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