2303476 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年07月30日
XML
カテゴリ:著名人紹介
大久保長安の「遺書」 大野瑞男氏 著

 

   『日本歴史』 日本歴史学会編集 

1987年9月号第472号 吉川弘文館



 大久保長安については、山梨県では武田時代を通じて歴史の中に封じ込められている。徳川時代になり多くの活躍をするが、甲斐の時代には鉱山関係の歴史の中から長安を探り出せない。徳川時代になり急激に歴史の中に登場する。しかもその活躍は尋常ではない。多くの謎に包まれている。そんな折に『日本歴史』(日本歴史学会編集)を大量に得ることができた。そして貴重なこの記事に出会うことができた。山梨県の人も知らない内容の記事が満載で、心躍らせて読ませていただいた。



大久保長安の「遺書」大野瑞男氏著



大久保長安は武田信玄に猿楽師として仕えた大蔵大夫金春七郎喜然の次男として生まれ、理財にたけ経済的手腕をもって農村支配に当っていた。天正十年(1582)武田氏が滅びると、徳川家族に仕え、関東入部以後は代官頭として武蔵八王子に陣屋を構え、伊奈忠次と並んで蔵入地の支配・知行割・検地など

に活躍した。

慶長五年(1600)関ヶ原戦後は石見大森銀山を支配し、同人年佐渡全銀山を管轄、代官頭彦坂元正が支配していた伊豆の土肥・大仁・縄地・湯ケ島などの金銀山なども、同十一年元正の悪政による失脚後これを支配し、先進的な技術をもって産出額を激増させた。また彼は東海道・中山道などの修理や伝馬制度の整備に貢献し、さらに江戸城・名古屋城などの普請に当って資材の調達を行い、いわゆる「所務奉行」としてのちの勘定頭と同様な職務に就き、慶長十年代には国奉行として活躍した幕臣である。当時金銀上納は請負制であったから、巨額の蓄材をしていたものと考えられ、その私生活も豪奢を極めていたという。

 ところで慶長十八年(1613)四月二十一日の大久係長安の藤堂高虎に宛てた、次のような覚書が国立史料館所蔵(本居文庫旧蔵)紀伊国古文書「戸田藤左衛門所蔵文書写」の中に発見された。同文書には慶長十一年から十八年までの十二の文書が写されているが、その大部分は藤左衛門に宛てられ、主として伊豆金銀山開発と経営の模様が記されている。

同文書によれば、戸川藤左衛門は大久保長安の家臣で慶長十一年五月佐渡国加茂郡において長安から六百石の知行を与えられ、当初は佐渡にいたらしいが、同十二年頃には伊豆全銀山を管轄していたとみられる。彼は長安の死後牢人となったが、のち徳川頼宣の家臣となり、元和五年(1619)頼宣の転封とともに紀州に移り、二千石を与えられている(『南紀徳川史』第八冊)。

 長安はこの覚書の四日後の慶長十八年四月二十五日に死去し、その後生前の金銀隠匿、幕府転覆の陰謀などの理由によって遺族十七人が死罪に処せられ、石川座長以下の大名・代官が連座して失脚した。したがって、この覚書は死の直前に書かれたいわけ「遺書」ともいうべきものである。



       覚

一、我等煩無油断養生仕御奉公可申上と存候へとも、又比比ハ少風を引相煩、手足に腫気指出申候、

加様に御座候ヘハ何時ふと相果可申も不存候間、存命の内に覚書を以申上候事、

一、石見銀山並地かた米売銀共に寅卯辰巳午未(慶長七年~十二年)六ケ年分御勘定者、酉年(慶長

十四年)仕上御皆済披下候事

一、同所申戌亥四ケ年(慶長十三年~十八年)勘定候者、子年(慶長十七年)仕上御皆済披下候事、

一、同所子年よりハ江戸 将軍様(徳川家忠)へ被進候間、御運上江戸へ納申候、」其内くさりにて

残有之分ハ、我等相果候共、被地物主として指置候竹村丹後(道清)御勘定仕上可申候事。

一、佐渡銀山之儀、辰年ゟ巳午未四ケ年分之御勘定ハ、酉年仕上、御皆済被下候事、

一、同所申酉両年分ノ御勘定ハ、銀山并地かた米売銀共に子年仕上、御皆済披下候事、

一、戊年ゟ江戸将軍様へ被進候間、御運上江戸へ納申候、残面くさりにて御座候分も我等何時相果候

共、彼地物ぬしとして田辺十郎左衛門尉・宗岡弥右衛門御勘定仕上可申候事、

一、御前より被成御借候金子、松平右衛門殿(正綱)ヨリ三千枚、松風助四郎所より千枚、合四千枚

分に佐渡灰吹弐千八百貫目納相申候、是も佐州御勘定帳のおくにかきのせ御前へ上置申候事、

一、伊豆銀山酉戊未申三カ年分、酉年御勘定仕上御皆済被下候事、

一、同所子年よりこの方ハ、御運上納置申候、御勘定ノ儀ハ、我等相果候共、彼地爲物主指置候和田

河内(恒成)武村九郎右衛門(嘉理)・河合作兵衛(川井政正)御勘定仕可申事、

一、同所地かた、御勘定の儀ハ年々仕上候、相残所ハ我等何時相果候共、為物主指置候河合作兵衛・竹内九郎右衛門尉勘定仕上可申候事、

一、和州・江州・濃州御代官の儀ハ酉年まてハ御勘定相済候、戊年ゟこの方御勘定之儀ハ、我等何時

果候共、彼地之爲物指置候。平岡岡右衛門(道成)・岩波七郎右衛門尉(道成)仕上可申候事、

一、関東御代官所之儀ハ、年々御勘定相究仕上申候、是又相残所ハ我等相果候共、彼地為物主指置候

差置候 田辺庄右衛門尉・大野八右衛門尉仕上可申候事、

右所々御代官所、右之もの共為物主申付置候、我等ハ指図申計に御座候、惣別致法度ニ御公方物

少成共我等手前へつかひ不申候事、

一、先年御陣の時もと判の金九拾七枚、松風助四郎手前ゟ請取真候、此金ノ者中野七蔵(重吉)・富

田伊豆・小宮山民部・青木弥三左衛門(満定)立合、将軍様小諸より上方へ御座候時、各陣扶持

にわたり申候同(間カ)岡作兵衛に松本にて米をかい、木曽中方々にて御扶持に出申候、但拾枚

分ハ青山播磨(忠成)殿・内藤修理(清成)殿へ致勘定上由候事、

      

右外



一、木曽谷地かた并土井・榑御勘定之儀、代官山村父子(良安・良勝)只今相究申ため此の地へ参居

申候、急度究させ候而上可申候、我等何時相果候共、材木壱本成共我等自分につかひ不申候、是

叉存命之うちに山村父子にも被成御尋可被下候事、右大方覚候通言書申上候、惣別少之儀もそれ

ぞれ物主を申付、物主手前よりすくに御勘定為致候様に常々仕置候間、此書立に残族儀御座候共  

らち立可申候、右通可然様に仰上可被下候、以上

       丑(慶長十八年)

      卯月廿一日     大久保石見守(長安) 判

藤泉州(藤堂高虎)様         

 

これによると、長安は石見銀山・佐渡銀山・伊豆銀山およびその地方の支配を行い、石見は慶長七年から十二年まで、佐渡は同九年から十二年まで、伊豆は同十一年から圭二年までの勘定を、いずれも十四年に仕上げ(決算し)、皆済となっており、石見の同十三年から十六年まで、佐渡の同十三年・四年、伊豆

の同十四年から十六年までの勘定は、それぞれ同十七年に仕上げて皆済になっていること、次に石見は慶長十七年、佐渡は同十五年に江戸将軍すなわち秀忠領となったので、運上は江戸へ納めることとなったことが判る。

そして石見・佐渡とも「くさり」(鏈=鉱石)で残してある分け、それぞれの物主(差配人のような者、長安の直系の代官や手代)が勘定を仕上げると書いている。

 これは、松平正綱が慶長十四年会計の総括を命じられ、同十七年八月安藤重信が慶長五年以来の収支を査検して財政実態を把握したという事実(「駿府記」『史籍雑纂』第二、二三七頁。北島正元『江戸幕府の権力構造』三四六頁)と照応するのであるが、むしろ長安のような奉行・代官の不正の横行があり、これらに対する措置として、会計の検査を実施したとみるのが適当であろう。

 また佐渡において「御前」すなわち家康から借りた金子つまり松平正編三千枚・松風助四郎千枚、合計四千枚分は、吹銀二千八百貫目を納めて済ませ、佐州勘定帳の奥に記載して家康へ上納したこと、伊豆の慶長十七年以降の運上は上納済みで勘定は伊豆の物主が行うこと、伊豆の地方方勘定は毎年仕上げ、残りは物主が仕上げること、大和・近江・美濃の代官所(家康の支配とみられる)の勘定は慶長十四年まで仕上げ、残りの慶長十五年から十七年までの分の仕上げは、家康・秀忠支配分ともに物主が行うよう準備していること、と述べている。

この点からは、彼が三カ国の代官所・将軍領の支配・管理をしていたとみられる。彼は慶長十年代に大和・美濃の国奉行を兼ねており(高木昭作「募藩初期の国奉行制について」『歴史学研究』四三一号)、両国の代官所勘定が国奉行の権限に基づいてなされたものと思われるが、近江については、以下に述べるように慶長十六年より駿府へ納めることとなった十三万石分の代官所勘定であろうか。

 

「当代記」巻七(『史籍雑纂』第二、一七八頁)によれば、慶長十六年より全国の蔵入地のうち美濃・伊勢および近江のうち十三万石は「駿府」(家康)、尾張は「右兵衛主」(徳川義直)、駿河・遠江は「常陸主」(徳川頼宣)分国とし、残りは全て「江戸将軍」(秀忠)へ納めることとしたといわれるが、この覚書によれば、佐渡は慶長十五年、石見は同十七年に将軍に引き渡しているので、「当代記」の記事とずれがあるのである。いずれにしても、それ以前は蔵入地の支配を駿府が一手に行っていたとみられる。そして美濃と近江十三万石が家康代官所として残り、伊勢と近江の残りは慶長十六年前後に秀忠領となり、どちらも









長安の管理するところであったと思われる。

 甲斐の蔵入地については慶長十四年までの勘定は済み、同十五年よりの勘定は彼の物主に仕上げを依頼し、関東代官所は毎年勘定仕上げをしているが、もし彼が死んだならその物主が仕上げるということである。そして「御公方物」は少しも自分が使っていないという。関ケ原の役に際して判金九十七枚を松風助四郎が自分より受取り、秀志の各陣扶持に渡され、十枚分は青山忠成・内藤清成に勘定し上納しているとのことである。このほか木曽谷の土居・榑勘定は代官山村長安・長勝父子に究明させるとのこと、材木一本たりとも自分用に使用していないことを弁明している。

 

 こうしてみると、彼の死後の処罰を予期しているかのような文言が随所にみられるのである。そしてこのような弁明を家康に言上して貰うよう藤堂高虎に宛てているこの覚書が、高虎から家康に取り次がれたかどうか明らかではない。それはともかく、彼の権限が自己の所領である武蔵八王子周辺だけでなく、関東や甲斐の蔵地、石見・佐渡・伊豆の銀山とその地方、国奉行として支配した大和・美濃の諸国、そして近江や木曽山林に至る百二十万石ともいわれる広範囲の地域に及び、その権勢が強大であったことが、死後の処罰に繋がったといえよう。

  

(付記) 



筆者は静岡県史近世部会専門委員として、慶長十四年から元和五年まで駿河府中に在城していた徳川頼宣関係史料の調査を昨年春に実施した。和歌山県立図書館所蔵の「紀州家中系譜並に親類書」を閲覧するとともに、国立史料館所蔵の「紀伊国古文書」の「藩中古文書」等と参照の必要があり、この「戸田藤左衛門所蔵文書写」を発見した。筆者が史料館在職中には全く気付かなかった大久保長安史料であり、不明を恥じるとともに、本史料を紹介する次第である。また、「戸田藤左衛門所蔵文書写」の全文については、 別の機会に紹介したいと考えている。 (東洋大学文学部教授)



◆ 参考資料 ◆



≪大久保長安』「ナンバー2の栄光と悲惨な生涯」 堀和久氏



『徳川実記』から、大久保長安に連座したとみられている人名を拾い出すと、次の通りである。

慶長十八年七月九日―長安嫡男藤十郎三十七歳。

◆ 次男男藤二郎(外記)三十六歳。

◆ 三男権之助(成国)三十歳。

◆ 四男達十郎二十九歳。

◆ 五男藤五郎(内膳)二十七歳。

◆ 六男右京二十三歳。

◆ 七男藤七郎(安寿)十五歳。

 以上七人、切腹。

 

『駿府記』に、七人皆腹切らしめる。とあるから、仏門の安寿にも目こぼしがなかったことになる。

 慶長十八年七月九日――戸田藤左衛門、山田藤右衛門、ほか長安家臣・下役多数、斬刑。

 同年八月某日――閣老・青山図書助成重、七千石を削られ、罷免、閉門。

 同年十月十三日――旗本弓気多昌吉・久貝正俊・鵜殿兵庫助、以上三名改易。

 同年十月十九日――信州松本八万石石川康長、所領没収。

 同年十月二十四日――日向七万石高橋元種・伊予宇和島十一万石富田信高、以上二大名の所領没収。

 同年十月二十五日――信州一万石石川康勝・信州五千石石川康次、ともに所領没収。

 慶長十九年一月十九日――閣老首座・小田原六万五千石火久係恋隣、改易。子弟姻族も配流。

 同年二月二十二日――堺奉行米津親勝・米津春親、切腹。

 元和二年(一六一六)七月五日、越後七十五万石松平忠輝、改易配流。

 

この間、顕了道快(武田信道)、その子教了(武田信正)、係累者七名が伊豆大島へ流罪に処せられている。

顕了和尚が長延寺の山門楼上に保存していた武田家伝来の甲冑・軍配・馬印・軍旗・幔幕などが、長安決起時の道具とみなされ、謀叛共犯の冤罪をこうむったのである。



長安近親のなかで、連座をまぬがれた主な人々は次の通り。

 長安より三ヵ月早く他界した池田輝政とその一族。

 服部正重と妻美香。三井吉正と妻楓。大久保安正。

 大久保安正は、もとの名の田辺十郎左衛門定政にもどり、長安の後任として、元利四年(一六一八)まで約五年間、佐渡奉行をつとめた。

 藤十郎、藤二郎、成国、右京の妻たちも、実家に戻されただけで、助命された。

大久保閥を蛮勇をもって一掃し、徳川陣営を一枚岩にした徳川家康が、最後の障害である豊臣家を滅ばすべく強引に戦端をひらいたのは、慶長十九年十一月。長安の死後一年半であり、忠隣を放逐して十ヵ月目である。

 家康の死は、豊臣家滅亡のおよそ一年後の元和二年(一六一六)四月十七日であった。七十五歳。

 大久保長安より六年、長命だったことになる。



大久保石見守の主な人脈

≪大久保長安』「ナンバー2の栄光と悲惨な生涯」 堀和久氏






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月12日 05時42分18秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X