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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年08月01日
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カテゴリ:著名人紹介
山本周五郎 永遠の女性



   宮崎修二郎氏著 中央公論『歴史と人物』昭和51年6月

  

 ついに見出した「須磨寺夫人」に、謎を秘めた文豪、山本周五郎の神戸時代を尋ねる



 ----木村久邇典様----

 

はるばる長距離電話でのごあいさつ、痛み入りました。お電話をいただいてはじめて、鎌倉市からご移転のおもむきを承りましたようなわけで、じつは〝須磨寺夫人″健在のことが判明した日の夜、“餅は餅屋”へと、鎌倉へご報告のお電話をさしあげたのでした。

 ところが″不通″とあって、とりあえず単身、訪問取材に行きましたような次第、頼りなき草野球選手、いや、大リーガーの木村選手のファンが、やむを得ず〝代打″を買って出ざるを得なかった事情、ご賢察下さい。

 すでに十一冊もの関係著作をお持ちの、山本周五郎研究第一人者である貴兄の、これがご取材であれば、いわゆる「山本周五郎伝から欠落した処女作時代」の全容が、完全なものに近づいたものをと悔やまれる現時点ではありますが、とりあえず貴兄の〝山本詳伝″ご作成の基礎工事のための、いくらかのお役に立てばと存じ、この報告をお届けに及ぶ次第です。



 さて、「須磨寺附近」という、その人の文壇登場作が、わたしの心にかかりはじめてから、かれこれ二十年ほどにもなるかと存じます。と申しますのが、そのころわたしは、つとめ先神戸新聞の普及エリャー兵庫県と文学とのかかわりについて、当時流行しました**文学散歩**流の連載物、「文学の旅・兵庫県」を企画して、素人なりの探索と執筆作業に従うておりました。

 その途上、たまたまそんな題名の小説があるらしいことを『現代日本文学年表』(吉田精一編・『現代日本文学全集・別巻2』)で知ったのでした。

 ところがその収載詰『文芸春秋』の大正十五年四月号が、当地なりに八方を手を尽したのに入手できず、やがてはご同業、新聞社勤めのめまぐるしい稼業の中で、ともすれば、忘却の砂の底に埋もれがちになってしまっておりました。

余談になりますが、神戸市の須磨と申しますと、いわば日本文学の歌枕の中では〝三役″に入るほどの名所です。おびただしい数の作品が残されています。ところが、たとえば「須磨寺」で「ふかぬ笛きく木の下聞」と詠んだ芭蕉でさえも、「かかる所の秋なりけりとや、此の浦の実は秋をむねとするなるべし」といった固定観念にしばられているように、須磨にちなむ作品のほとんどが『源氏物語』と『平家物語』の悲哀と感傷の尾を曳いているその画一性が、おたしには不満で仕方がなかったのです。

 それだけに「――すべてがだらけ切ってゐるやうに見えた。私はそれらの自然から産み出される人間や文化にさへ、疑ひを抱かずにはをれないやうな気がした。温室に咲いた花のやうな美しさと脆さとを持ってゐるのは彼らではないのかと思はれた」などという、徳田秋声の『蒼白い日』のリアルな自然観照の系列にある「須磨文学」の発見に心が急がれ、「須磨寺附近」に執心しつづけたような次第だったのです。

 一昨年の秋のことでした。

「あったぜ、君、ご執心のものが…」と「須磨寺附近」六枚のゼロックス複写を届けてくれた人がありました。貴兄もご存知の詩人足立巻一さんです。じつはわたしも、本居春庭の評伝『やちまた』で文部大臣選奨を受けた足立さんを中軸とする季刊の詩語『天秤』に籍を置かせていただいている一人ですが、「あるPR雑誌で周五郎の足跡をたどってみたんだが…」と足立さんは言うのでした。「まだはっきりした部分は少ないが、ぼつぼつわかってくるだろうよ」

 あの大作『やちまた』の著者らしくしぶとさの底にあるこまやかな跡づけの作業に、わたしは低頭し、これまで中途半端な〝執心″に移ったわたしを恥じ入ったことでした。

 その後、二十年の『文学の旅』の〝洗い張り″めく連載『文学の山河』を書くことになり、早速先輩――貴兄と足立さんの――〝おこぼれ″を拝借してつぎのような記事を書きれ、「須磨寺附近」のあらましと、周五郎の神戸時代の動静を、一般前者にわかってもらい、できれば〝証人″の出現への期待も、ひそかにこめていたわけでした。

その作家は、この辺に住んでいたのだろうと、別に探索の目的はないのですが、ついつい目をくばるようにしで歩いてゆきました。

 古い松の大樹が一本、その通りに覆い被さって、その手前の二階家には須磨のスダレ――と言いたいが、ビニール製―-が垂れてあり、その作家の処女作「須磨寺附近」(「文芸春秋」大正十五年四月号)の二節を思い出させました。

 〈……二階ヘ上がって北側の窓を開けた。南の中に須磨寺や鉄拐山の縁が寒くかすんでゐた。〉

大正十二年(一九二三)、関東大震災をのがれて西下したその作家は、まず但馬の豊岡市に行き、地方新聞に勤めます。二十歳でした。一週間ほどでそこを辞めたのは、給料をくれそうにもないインチキ会社だと同僚に教えられたからだと言っています。

 次いで、神戸に移ります。小学校の級友の姉が須磨寺近くに嫁いで来ていたので、そこへ転がり込んだのでした。その女性、作中の康子は「日光を浴びて彫像のやうに崇高」で「鋭い情熱的な冷たい瞳」と表現されている美人だったようで、この短編[須磨寺附近]はその人妻の短かい間の交渉を描いたものです。

 須磨寺付近にいたころのその作家の動静について、最初に調べあげたのは、須磨区在住の詩人足立巻一さんで、『神戸新聞』の昭和四十八年九月二十六日の「冗語」欄に「作中で最も美しい場面は、主人公が入妻に誘われて、秋雨の須磨寺をたずねるところだ」と言います。

 なるほど作中には「白鳥が群を作って遊んでゐ」る「大きな池」や「高い石段に登ると寺があ」ったり「義経や敦盛の名の見える高札か立ててある」情景、「寺の前から裏山へかけて、八十八ヵ所の地蔵堂」がある須磨寺風景が現われます。その風景の中の古城を歩いてみました。しきりに落葉が降り、正岡子規

や尾崎放哉の句碑が、冷たい日差しの中に錆びていました。

 作中の二人は朱い山門の下で休みます。そのとき人妻は言うのです。

 〈あなた、生きてゐる目的が分りますか。生活の目的でなく、生きてゐる目的よ〉

じつは、と足立さんは言します。「それは周五郎が生涯かかげて文学で探究した主題だったのだ」と。作者にとっては〝最初の女性″そしでそのときの異性体験は、その後の作品にも幾度も描きこめられ、みがかれて文学的真実へ高められてゆくのです。その人にとって″須磨寺夫人″は永遠のナゾの女性であり、それだけに終生心の壁画から剥落することのなかったあこがれの女人像だったのです。

 さてその作家は、当時生田区元町五丁目にあった「夜の神戸社」に勤めていました。

大正六年に創刊され、昭和四十年まで続いた、花街やカフェー界の情報だのをゴシップだのを載せた雑誌の探訪記者として同僚に後年映画評論家として名を成した水町青磁もいました。

 そのころの回想をふまえたのが、昭和二十四年『苦楽』の八月号に載った「陽気な客」です。この作家の〝神戸三部作″の中で(本として)私たちの千に入るのはこの一作だけで、新潮文庫の「つゆのひぬま」に収められています。



周五郎研究の第一人者木村久邇典さんによれば、もり一作は昭和八年九月に出た『アザヒグラフ』に載った「豹」で、須磨寺にあった動物園の檻を破った豹脱出事件がその作品の背景になっているそうです。「陽気な客」の中にはこんな記述があります。

〈須磨の大村さんの家へころげこんで(中略)神戸夜話社という怪しげな雑誌社へ入った。その社は元町通りと栄町の電車通りをつなぐ狭い横丁の喫茶店の二階にあった(現在は矢内高広のビルに変っています)。神戸という土地は摩耶山おろしといって冬のはじめから凛寒な風が吹く。おれが厄介になっていた大村さんの家は須磨の離宮山の下で南向きの日当りのいい環境だから暖かいが、市内では十一月末になると朝晩の寒さは誰しもかなわないと言った〉

 ……いま、ちょうどそんな季節です。作中の舞台――須磨寺の参道で、その作家の神戸時代のことを知る唯一の人当時「夜の神戸」社の経営者――寺田新さん=葺合区目暮通=のお話を想い出しました。

――当時から山本……のペンネームを使っていました。丈の高い武骨な、まじめ一方の人で、神戸新聞の求人広告を見て入社しました。福原、花隈、三宮が担当で、すんなりした記事を書いていましたが、退社はたしか大正十四年の春ごろ……円満退社でした》



 おわかりいただけるように、わたしの〝足″は全然加わっておりません。長い間の貴兄のご労作の借用です。ところが、その学恩に対する心理的負担が、いくらか軽くなりそうな朗報が、はいって来たのです。その記事が載ってしばらくしたある日、知り合いのご婦人からの電話がありました。じつはわたしがお世話している宝塚市の主婦グル-プのメンバ-で高村弘子さんという中年の美しい方ですが、

「ご近所の方で、私がお花を教えでいただているおばあちゃん――木村じゅんさんとおっしゃる八十一歳の方ですが――〝須磨寺夫人″らしいのですよ。いつだったか、ふと山本周五郎さんのことをお話しになられたことを、あの記事で思い出したので……」で連絡まで――ということなのです。

「外国生活をなさっていたので、とても気さくな方で、周五郎さんと、そうねえ、手を握ったにことぐらいはあるかも知れないわねェ、なんて、ご冗談もおっしゃるんです.一度、都合をうかがっておきましようね」

 このお便りの最初に記しましたような次第で、この「代打野郎」は兄貴の著作から改めて神戸時代の動静を箇条書きにしてみました。

 ①大正十二年九月、関東大震災の直後関西に避難し、小学校時代の級友桃井達雄の紹介で、当時須磨寺付近に住んでいた、達雄の長姉のもとに身を寄せ、大正三年ごろ帰京しで文筆界に入った。

 ②来神(神戸)するしばらく前、豊岡市の地方新聞に勤めた。

 ③神戸時代ら勤務先は月刊誌『夜の神戸』社だった。

 ④「須磨寺附近」の原稿を文芸春秋へ発送する際の住所に、東京にあったかつての勤め先山本質店を使い、その寄宿先の店主山本周五郎方としたのが、編年者の手違いから山本周五郎名で発表されてしまい、以後それをペンネームとした伝説があることです。さて――

 

当の〝須磨寺夫人″は、宝塚市の、鉄斎遺墨収集で有名な清荒(きよす)神に近い住宅皆済荒神一〇-一六に、長男木村一正氏(六一)夫妻のご家族と平安の日々を送って居られます。往年の美貌の面影をとどめた、八十一歳とは思えない記憶力も確かな刀自として、貴兄にご報告できることがその際の一問一答をお届けすることとともに、私にとっても嬉しいことです。



――山本周五郎さんが、須磨に見えたのは?



 刀自 

大震災の直後------そう、三、四日目でしたか。弟の桃井(もものい)達雄も横浜で勤め先のアイザック商会が被災したので、周五郎さんもごいっしょに私宅に寄宿なさったんですよ。家は今の離宮町二丁目です。

当時二軒だけだった家のまわりは一面の田んぼで、今も残ってるはずですよ。(その数日後、刀自から「さがしに行ってみたんですが、なくなっていました」と電話がありました)

 一正氏 

お見えになったときのことを、今でもはっきり覚えています。二人の姿を見たとき、煙突掃除かルンペンかと間違えましたよ。全身まっ黒で。東海道線が不通だったので、中央線の貨車の屋根の上に乗って来た。

だから汽車の煙でいぶされていたんですね。私は小学校二年生でした。

――じゃあ、東京から直接だったんですね。須磨へ見える前、豊岡市の新聞社に------

 刀自 

そりやあ、ウソ。家にいらっしたころ、なぜか城崎の方に行ってみたいって、おっしやって、見物に行かれたんですよ。だって翌日の夜遅く帰ってみえましたもの。

 一正氏 

私もね、いっしょに行くと言って、母にしかられたことを覚えてますからね、豊岡で勤めてたとは考えられません。たったの二日だから……。冬でしたよ。

 ―-そのときが、周五郎との初対面で?

 刀自 

いやそれ以前にも二回ほど遊びに見えました。弟の達雄といっしょに――

横浜時代も遊びに見えたそうですが、何分九歳も違っていますからね、記憶にありませんよ。

私の父は逓信省の管吏、課長クラスでしたが、従軍して朝鮮の仁川で病死しました。各地に赴任しまして、私は出形で生まれ仙台で大きくなり、横浜で女学校を出て、卒業するとすぐ結婚して神戸へ来たんです。学校は神奈川県立平沼女学校、外人の英語教師もいましたが、したが、もう……。

だから外国でも私の英語はむちゃくちゃでしたの。

 

――周五郎の上京が大正十四年だから、アメリカヘいらしゃたのはやはり……。

 刀自 

いやあ、私たちが渡米したのは大正十三年の二月の半ばですよ。主人が今のKラインの商船会社のポートランドの支店長か何かで………私たちはその後を追って渡米したんですよ。周五郎さんも東京へ帰るって――で、名古屋までご一緒して別れました。お困りのご様子だったので、たしか二十円差しあげたことを覚えています。

――じゃ、神戸は九月から翌年一月までの五か月ほどで………。

刀自

ええ、そのまま東京へいらしゃったんですからね。

 ――「夜の神戸」社の勤めは?

 刀自 

ほんのちょっとでしたよ。勤める以前は毎日図書館に行って勉強してらっしたし、私たちが渡米する一週間ほど前に、「やめた」と言ってらっしやいましたから。

 ――昭和三年の「青かべ日記」に、十二月三十一日の記として、二五八四年の除夜は神戸の千秋旅館に、二五八五年も同じく神戸に、という回想があるんですよ。

に」という回想があるんですよ。

 刀自 

あ、私たち大正十三年の秋帰国しましたの。で、お正月ごとに二回、神戸の家へ遊びに見えましたよ。そうそう、あの方の弟さんもごいっしょでした。小説がなかなかうまくゆかないって話してらっしゃい言した。

そういえば、名古屋で。別れるとき″姉さん、もし山本周五郎という名の小説を見たら、私か出世したと思っで下さい″と言われました。家にいるときも、二階にこもって原稿用紙をクズでいっぱいにして……。だからあのころから山本周五郎のペンネームだったんですね。本名は清水三十六(さとむ)-明治三十六年生まれ、ですね。

 ――菊池寛が大阪に来たとき、原稿をもって行かれたとか……。

 刀自 

神戸の関西学院に講演に見えたときでした。「売り込みに行ったが、断わられた」

って聞きました。大阪のお勤めもウソ。

 ――居候だったんですか?

 刀自 

私が下宿料はいいって言うのに、ちゃんと十円置かれるような几帳面なところがおありでしたね。幼いころから苦労なさった方だから………。でもひどい「機嫌変え」でしたよ。弟の達雄――これも文学青年で、昭和六年に神戸で亡くなったんですが――にはひどくわがままで、酒はよく召しあがりましたね。そのくせ、人をそらさないといった人間的に能力のある方でした。でも不潔で……。

 一正氏 

近よると臭いんです。団子鼻で奥目のぶおとこでしたか、やさしい心の持ち主で、私か『少年世界』なんか読んでると、むきになって母を叱るんです。「こんな俗悪なものはダメです」って。そして鈴木三重吉の、『赤い鳥』を買って来られて……。

 刀自 

アルスの「児童文庫」だとか……。

神戸でも転々と職を変えられたようでしたがねえ。写真がお上手で、そうハーモニカなんか、外国の曲ばかりでしたよ。山本質店で、夜、右岸の中で練習したんだって……。

服装? やはり質店に勤めていたので商人の着る縞柄がお嫌いで、そう、久留米ガスリが着たいって、私ごいっしょに買いに行って仕立ててさしあげたことがありますわ。そう

ですか、終生カスリの和服で……。

――「須磨寺附近」お読みになりました?

 刀自

 二十歳になる孫の昭子が『山本周五郎アルバム』を買って来て、おばあちゃんが出てるって言うんで、気が付いたんです。あの付録で読みました。小説って本当のことを書くんじゃないんだし、あれ事実じゃありませんよ。私も嫌いじゃなかった。あの人も私が好きだったんでしょうが……。

まあ、読む邦画どう思いになろうとかまいませんよ。私だってもう歳だから……。

 でも今考えると、あの方の生い立ちと生活様式が違ってたので、ひどく興味がおありだったんでしょうね。

 ――その後の文通なんかは?

 刀自 

弟の達雄が亡くなったときお悔み状いただいて……。戦後、主人が亡くなり、長男もソ連から帰らず寂しかったとき一度、お手紙を差し上げました。住所がわからないので、講談社気付で。ご返事に「私の方が先に死ぬんだから……なんて書いてあって、気味が悪かったですよ。でも主人や妹の安否を気遣って下さいました。あの方は家庭の温とみを知らずに育った方でしたからね。私に心を寄せられたお気持ちはわかるんです。お家はうどん屋が看板で、裏で曖昧宿なんか営んでたんだって話していらしましたね。そんなことで苦労したし、芸者相手の質屋に勤めてたから人生の裏表に通じてる――なんて、ね。

でも、今思えば、まだ二十歳でね。苦しかったし、道楽もしてらっしゃらなかったし、弟のように可愛かったし、よくしてあげましたし、楽しく懐かしい思い出ですわ。もう、すべてが時効よ、ねえ。

 

 木村久邇典さま――

なるべく、「須磨寺夫人」のプライバシーの領域に踏こまないように留意しての問答が以上です。貴兄なりに、その行間から推理をおすすめになられる要素――いくらかの今後の作業のご参考になるデータもおありかと存じます。

 貴兄は『人間山本周五郎』のはしがきに「山本さんは」「物書きはどこまで言っていることが本当で、どこからがウソなのかわからないところがなければいけない」と語ったことを記しておられます。ところが、作家でない私たちには、その韜晦部分が許されないだけに、嘆息し、かつ虎視耽々たらざるを得ない

ものもあるわけで……。

 ではご健筆をお祈りいたします。





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最終更新日  2021年04月12日 05時40分47秒
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