カテゴリ:日本と戦争
「昭和」の誕生 「光文」さわぎ
『昭和の日本』 松島栄一氏 武者小路譲氏編 一部加筆 その日は、社会部のデスクばかりでなく、新開社全休が緊張していた。電話のベルが鳴る度に、ビクッとしたような表情がみんなの顔にうかんだ。 印刷局でも全員が機械の前で、すぐにしごとに取り掛かる用意をしていた。職長けさっきも機械の調子を見まわったはずなのに、また落ち着きがなく立ち上がった。 編集局長は通りに近い窓ぎわに立って、入り口を見下ろしていた。社旗を立てた一台の自動車が入り口にサッと横づけになり、中からひとりの記者が飛びだしてきた。それを見た局長は、 「おいっ、きたぞ。」 と、声をかけた。室内はとたんにざわめいた。 パタンとドアがあいて、さっきの記者がとびこんできた。 「しょうわです。ショウワにきまりました。」 「何、ショウワ?」 「あきらか、という昭と、平和の和です。」 とびこんできた記者は、まだ息を切らし、手にした紙を局長にさしだした。 「昭和か、よし。」 原稿は予定されていたとみえて、その二字だけが書きこまれると、すぐに印刷にまわった。 輪転機の音が間もなくひびきだし、新聞社の中はどこもかしこもいがしく動きだした。 大正十五年(一九二六年)暮れ近い十二月二十五日、長いあいだ病気だった天皇が亡くなられ、皇太子裕仁親王殿下がその後を継いだ。 かなりの重体が続いていたあとだけに、予想はされていたところだが、やはりその発表は重苦しくひびいた。いつもなら、クリスマスや暮れの売り出しでにぎやかな町も、黒い布をつけた国旗を掲げ、ひっそりとしずまりかえった。 そのなかで、新聞社だけは目のまわるようないそがしさだった。つぎつぎと出る宮内省の発表といっしょに、こういうときに行われる儀式の解説記事を載せなければならないし、重臣やそばにつかえたことのある人びとの談話も貰ってこなければならない。そのうえ、皇室関係の記事は、言葉の使い方や、新聞の組み方に間違いがあったらたいへんなことになるから、よほど気をくばらなければならない。 中でも各新聞社が気にしたのは、つぎの年号がどうなるか、ということだった。 明治以来、天皇一代の間は年号が一つということに決まっていて、天皇が亡くなれば、すぐに年号がつけかえられることになっていた。 だから、さっそく、大正にかわる年号が発表されるはずだ。おそらく、学者が中国のふるい書物の中かから選んだ、目出度い文字を組み合わせて、いくつかの案を出してきたのを、重臣たちで相談しているのにちがいない。 どの新聞社でも、できるだけはやくあたらしい年号を調べて、内省の正式の発表より前にニュースにしたい。新聞記者たちは、ふだんから顔見知りの重心や役人のところをかけまわって、すこしでもはやく情報を聞かせてもらおうとした。その時に、 「号外、号外、号外! さあ、あたらしい年号だよ。」 東京日々新聞という、赤い字のはいったタスキをかけた号外外売りが、鈴の者を響かせて町を走りだした。 新聞一ページ分の大きな号外には、こんどの年号が「光(こう)文(ぶん)」ときまったことが、これまた大きな活宇で印刷されていた。 ほかの新聞社ではビックリした。もちろん、まだ正式の発表は無いし、どこでもそんな話は聞いていない。これがほんとうなら、誰が漏らしたのか分らないが、たいへんなことだ。 宮内省でもあわてているらしい。新聞社でさぐりをいれてみても、まだ発表の段階に至っていない、というだけで、公式に否定も肯定もしない。 枢密顧問官(天皇の相談役)の会議が開かれているらしい。このぶんでは、もし、光文にきまっていたとしても、変更されるだろう。 新聞記者は宮内省に詰め掛けて、今か今かと発表を待った。 そのすえに発表されたのが、 『昭和』 という年号だったのだ。 『百姓(ひゃくせい)昭(しょう)明(めい)、協和(きょうわ)万邦(ばんぽう)』(人民はあかるく、すべての国がなかよく)という、中国のふるい歴史書『言経』の中かで、神話の皇帝堯(こうていぎょう)の時代を誉め讃える言葉から選んだものである。 満州の大元帥張作霖の死 『昭和の日本』 松島栄一氏 武者小路譲氏編 一部加筆 馬隊(ま-たい)あがりの大元帥(だいげんすい) 昭和二年(一九二七年)十月十目の夜、町野武馬は、満鉄社員の江藤豊二といっしょに、北京の王宮にいる中華民国の大元帥張作霖(ちょうさくりん)を訪ねた。 いま張竹縁の住んでいるこの王宮は、世界最強の帝国といわれた清の王室のつくったものだけに、その大きさ、美しさは、日本では想像のつかないほどである。王宮の門は高く聳え、両側につらなる城壁のうえは、兵士が機関銃を据え付けて守っている。その門をくぐってから、屋根の着いた石畳の廊下が、林のあいだをぬけ、珍しい石を積んだつき山を越え、島伝いに橋を架けた池を渡り、昼間なら四季の花の植え込みの見える庭を通って、めざす宮殿まで二キロもあろうか。武装兵の立っている宮殿の入り口から張作霖に会う部屋まで、これまた長い廊下が続いている。 もう五年ものあいだ、張作霖の顧問をしていた町野にとってみれば、この王宮の道も何度か通い慣れているのだが、きょうばかりはほんとうに長く感じた。真夜中の闇に、廊下の所々のあかりで、石畳みだけが浮き上がって見えるせいばかりではないのだろう。 これから張作霖を相手に交渉しなければならない話の難しさに、町野の足どりを重くしていた。 大元帥張作霖は、満州の馬隊あがりの軍人であった。 二十世紀のはじめごろの満州は、まだ開発されていない原野と山林が広がっていた。そのころ中国を支配していた清の王朝は、満州は自分たちの祖先の出身地だというので、やたらに手をつけさせず、中国本土に住む漢民族が満州に入ることを抑えていた。けれども、清の支配力が緩み、中国本土でも内乱が怒ったりすると、土地や財産をうしなったまずしい農民が、土地を求めて満州に移住するようになった。その中かには、決まった仕事を持たない暴れ者もの少なくなかった。中国の古い諺に、『いい鉄は釘にはしない。いい人間は兵隊にならない』というのがある。こういう暴れものが武装して、馬で満州の広い原野を荒らし回った。これが馬隊、日本では馬賊とよんだ。 そのうちに、農民たちは馬隊の襲撃に苦しんで、金や穀も出しあって馬隊の陽長に送り、自分たちの村は荒らさないようにしてもらうだけでなく、ほかの馬隊の襲撃を防いでもらうようになった。そうなると、馬隊のあるものは、段々にまわりの馬隊を抑えて、地方の軍事支配権を持つことになり、ときには清の地方官までが、馬隊の力を頼りにするようにさえなった。 張作霖は、そういう馬隊の隊長のひとりだったが、部下をかわいがり、支配下にあった農民を地方官のひどい政治から庇ったので、人気が高まり、清が滅んだ頃には、満州の広い地域にその勢力をはっていた。 日露戦争以後、南満州鉄道を手にいれ、その沿線に炭鉱や鉱山を開発し、内陸から移民を送りこみはじめた日本はじめた日本は、当然この張作霖に目をつけた。張作霖の軍車力を利用して、中国革命以後落ち着かない中国から満州を切り離しし、日本の自由なるようにしようと思ったのだ。 日本は現役の軍人を軍事顧問に送りこみ、武器を与えて、そのかわりに満鉄をはじめ、日本のもっている権益には手をつけないようにさせた。 張作霖の軍隊は十数万をこえ、その私有地は日本の九州ぐらいの面積にも及び、銀行をはじめ大きな企業も彼の手に入った。その上、中国南部で蒋介石の率いる国民党が、崩れてきた中華民国を立て直そうと、はげしい戦いを始め、北京の政府が混乱に陥った隙に、万里の長城をこえて中国北部に攻め込んだ。これも日本軍の助けがあったから、北京にはいって黄河より北を抑え、大元帥の地位についた。 目本にこれをみると、満州での目本の権利をもっと広げようと、張作霖が計画していた五本の鉄道の建設を日本が引き受けることで、その沿線の産業を日本の手にいれようとした。 そのころ日本の首相になった田中義一は、中国への武力進出計画を立てていたが、この鉄道建設についての交渉を、張作霖の信頼をうけていた町野に頼んだ。 だが、日本が条約でみとめられている満鉄沿線以外に乗り出していくことは、中国人民の反感を一層激しくするだけだ。そうなると、せっかく中国本土にまで力をのばした張作霖の立場は悪くなるにちがいない。 町野は、「いまそんなことをしたら、張作霖がだめになってしまう。現在、張作霖は、中国十八省のうち十四省をにぎっている。あとは四省だけだ。だから、もう二年半待ってくれ。そのときには、なんでも希望どおりに在るから。」と断った。 ところが、陸軍や政友会の一部の強行派に押されて、田中首相は諦めようとしない。とうとう、政友会の幹事長をしていた山本粂太郎を満鉄総裁に任命して、直接に交渉をさせようとした。 あしたは山本が北京にきて、張作霖に会うという。町野としては、前もって話をしておかなければならないので、わざとこの夜中に訪ねたのだ。 ふだんなら、町野の下手な中国語で話は通じるのだが、ことがことだけに間違いがあってはならない。それで中国語の達者な江藤を連れて来たのだ。 張作霖が会見室に出てくると、町野は深夜訪問を詫び、あした山本がくるのはこの用です、と、鉄道建設についての日本案を見せた。 張作霖は差し出された条約案を手にとって、さっと目を通したが、顔色をかえて、 「日本は、こんな条約を私に押しつけるつもりか?」 と、書類をそこへ投げつけた。そのまま、張作霖が奥へ入ろうとしたので、町野はあわてて後を追いかけて、張作霖の肩をつかまえた。 「待ってください、張元帥。それでは、明日はお別れか?」 張作霖は振り返ると、じっと町野の顔を見たが、黙って部屋を出ていった。 鉄道建設の交渉 町野が張作霖の顧問になったのは、張作霖を自由に操ろうとする日本政府の命令だったのだが、この四、五年の間に、どうしたものか、張作霖は町野を大変気にいったし、町野のほうでも張作霖の人柄らに魅かれた。 町野がときどき日本に連絡にいくと、故郷の会津若松にいる両親をたずねるので、帰り遅くなる。すると、張作霖が、その一日二日の遅いのが気にいらない。とうとう、 「そんなにあいたいなら、お前の両親を北京につれてこい。」 という。 「親父は会津を離れたがりませんから。」 と、町野が答えると、 「それなら、会津若松ごと持ってくればいいじゃないか。会津若松は人口どれくらいだ?」 と聞く。 「まあ、五万でしょう。」 「そうか、それからわけはない。一軒に一万円ずつもやれば、引っ越してこられるだろう。」 これには町野もびっくりした。そのころ、大学出の月給が七十円ぐらいのときの一万円だから、たいへんなものだ。そんなことをしてまで、町野を傍へ引き留めて置こうとしたくらいだから、よほど信用したわけだ。 その町野郎、お別れだ、というのは、よほどの決心である。おそらく、それは張作霖にも通じたはずだ。 あくる日の午前十時、町野は同じ会見室に、こんどは山本満鉄総裁を案内してはいった。 待たせること二時間、張作霖はいつもと違って、元気のない足取りで会見室にあらわれた。頭にはどうしたのか、白い布をかぶっている。 町野は山本に囁いた。 「大元帥は病気中だ」 山本は進みでて、張作霖にあく手をもとめた。 「大元帥、これで喧嘩の仕納めをしましょう」 山本に大声でこういうと、条約案を差出た。 今日も通訳にきていた江藤は、この場の雰囲気の中で、こんな思い切った言葉を訳しようが無かったのか、黙っている。 張作霖も一言も言わない。 たまりかねた町野は、江藤に呼びかけた。 「江藤、山本さんのことばをそのまま伝えろ。」 やっとのことで、江藤はこの短いことばを、考え考え通訳した。 張性霖は条約書に目もくれず、すっと座を立った。 「楊宇霆と相談せよ。」 ただそれだけいって、姿を消した。 山本と町野は別室に案内され、楊宇霆と向かいあった。 楊宇霆は目本の陣軍士官学校に留学した軍人で、張作霖の片腕になっている男である。 楊宇霆は条約案を一読して、山本のほうに振り向いた。 「わたしは、いつも日本からの援助には恩を感じているし、いつかはそのお返しをしたいと思っていました。 ところが、この頃、満州にやってくる日本の役人や軍人のやっていることは、高利貸しや泥棒のようです。中国人に恩を着せるような顔をしては、力づくによりその富を奪っています。 それでも、これは小役人のすることだからと、あまり気にもかけませんでしたが、きょうのこの頃の日本の要求を見て、わたしの目本に対する考えが、いますっかり変わりました。日本政府も礼、あの小役人と同じです。」 その言葉は、激しかった。 「悪くはないでしょう。」 大元帥のさいご 「張作霖は、日本軍隊の力をかりて、皇帝になろうとしている。」 そういう噂が中国全土に流れた。そして、すれはかからずしも嘘とはいえない。それだけに、そのうわさが中国人の多くを刺激し、張作霖に反対する力を強くした。 中国南部の国民党は、南京に政府をつくり、北部へ軍隊を進めようとした。 上海付近に工場などをもっている日本にして見ると、この国民党を無視することはできない。蒋介石とも外交関係をむすび、軍事顧問を送っている。 そうなると、張作霖と蒋介石の戦いは、どっちにしても都合が悪い。日本人の保護という理由をつけて、山東(シャントン)省に軍隊を送り、蒋介石軍が北京を攻める邪魔しようとしたが、失敗した。 結局、蒋介石には、満州だけは手をつけさせない事を約束させることで、中国の代表政府であることを認め、張作霖を満州に引き上げさせる事にした。 ここまでくると、今度は張作霖が日本にとって邪魔になってくる。蒋介石の国民政府を認めた以上、馬賊あがりの張作霖など相手にするな、という意見が出てくる。 外務省でも、中国問題は国民党政府が正式のあいてだと考えている。正式の外交官では無い町野が決めてきた条約などは、問題にされない。 まして、日本の軍部はもっと乱暴だ。 満鉄を守る役目を持っている関東軍の中には、張作霖軍が満州に引き揚げてくるとき、万里の長城のところで捕まえて、武器をとりあげ、そのあとは日本軍で満州を抑えればいい、と云う意見もあらわれた。 ただ満鉄の沿線を離れて、満州と中国本土の境にある万里の長城の所まで日本の軍隊を送るのには、天皇の許可が必要である。 張作霖の死 昭和三年(一九二八年)六月四日、もう空のあかるくなりかけた五時二十分ごろだった。 北京と瀋陽を結ぶ京奉線が、中国人の住む古い市街の西の城外で、常北に走る日本の満鉄と交差している。あたりは草原で、満鉄はそのすこし南からなだらかに築かれた土手を登り、京奉線の上を陸橋でこえている。 京奉線の沿線は、西のほうにある皇姑屯(こうことん)(ホワンクーツン)の駅から旧城内まで、前の晩から、張作 霖の兵士と乗馬警官が所々に立って、警戒にあたっていた。 今日は大元帥張作霖が、もとの本拠地へ引き揚げて来るのだ。 皇姑屯の駅にも、この地方の有力者が早くから出迎えにならんでいた。 前の目に北京から特別列車に乗り込んだ張作霖は、列車のなかほどの防弾装置をつけた貨物車の窓から、機嫌よく出迎えの者に挨拶をしていた。 負けて逃げて来たようには見えない。確かに、中国北部は失ったのかもしれないが、まだ広い豊な左満州の支配者なのだ。 皇姑屯の駅を出てしばらく、張作霖は呉俊陞(ごしゅんしょう)日本人の軍事顧問儀峨(ぎが)少佐と雑談をしていた。 列車は鋭い汽笛をならした。満鉄の陸橋が見えてきた。 儀峨少佐は、張作霖にかるく頭を下げて立ちあがると、列車の揺れるのに足を踏みしめながら、先頭の車両のほうへ歩いていった。 やがて列車が陸橋にさしかかり、陸橋の支柱の黒いかげが貴賓車の窓に見えた時だった。 ズズーン、という大きな音がしたかと思うと、電光のよう座元と煙が列車をおしつつみ、満鉄の陸橋は響きを立てて、列車の上に崩れ落ちた。 貨物車は形も無く避け、あっというまに捻じ曲げられた。脱線した折れかかった機関車が蒸気を吹き上げる。 吹き上げられた土砂や破片が、その上にパラパラと音をたてて降ってくる。 警戒にあたっていた兵士や警官は、いっせいに駆け集まった。 運び出された張作霖は、手のつけようもない重傷だった。 すぐに旧城内の屋敷に運び込まれ、手当をうけたが、 「いかん、おれは逝くよ。」 という一言を残して、この馬隊あがりの大元帥は息をひきとった。 しばらく父の死を秘密にしていたその子張学良は、満州を目本の手に渡なさいために、日本の反対を押し切って、国民党政府と手結んだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月12日 05時38分29秒
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