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2019年08月17日
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カテゴリ:日本と戦争
朝鮮人・中国人の強制連行

『太平洋戦争史 5』 太平洋戦争Ⅱ 歴史学研究会編 
 Ⅲ 大東亜共栄圏の崩壊 P128~132
著者代表 今井清一氏 青木書店 1973

朝鮮人の強制連行

国民の根こそぎ動員によっても労働力の涸渇と戦争経済の崩壊はくいとめられなかった。そこで支配階級は、植民地の朝鮮人々占領地域の中国人を強制的に集団巡行し、鉱山や建築現場や軍需工場などで苛酷な重労働に従事させて労働力の不足を袖おうとした。この強制連行は、日本帝国主義が太平洋戦争において朝鮮民族や中国民族におこなったもっとも陰惨な戦争犯罪の一つであった。
 
国家権力による朝鮮人徴用労働者の強制連行政策は、三九年七月の朝鮮人太量集団募集許可にはじまり、
四四年の「官斡旋」政策で朝鮮人連行数は飛躍的に増大し(第4巻二二五ページ参照)、四四年の「朝鮮人への一般徴用令適用(一五二ページ参照)で最大に達した。三九年から四五年までの連行者数は、完全な数ではないが七一万四千余名という多きにのぼる。これらの連行を日本側当局者は、「募集」「官斡旋」によるものとしている。しかし、その実感はまったく強制的なものであった。朝鮮総督府の官吏や警察官などは、日本側の「国民動員計画」を達成するために、朝鮮人が野良で働いているところや寝こみを襲ったり、さらには威嚇や甘言の手段で行先を告げぬままに連行したのである(朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』)。
 連行された朝鮮人の約半数は、石炭鉱山に配置され、大部分が危険な坑内夫で突貫作業の坑近開鑿・岩石掘進・水現当などをうけもたされた。その他、土木建築現場・鉄鋼所・造船所や農業生産などでも強度の重筋肉労働がわりあてられ、労働災害率も日本人労働者にくらべてはるかに高かった。
労働時間は一〇~一二時間は当り前で、劣悪な食糧しかあたえられず、給与は日本人労備考の半額程度に制限された。宿舎は日本人と朝鮮人・中国人とのあいだで厳格に区別され、一人平均一畳以下しか割当てられなかった。
労務管理の厳重さは際立っており、日本人労務係による制裁が絶えなかった。
このような苛酷な労働条件や日本人係官や警察官の虐待によって多くの犠牲者がでた。
連行者のうちの死亡者は、六万数千名とも推定されており、この故に、軍人・軍扇関係の死亡・行方不明者をくわえると二〇万をこえる犠牲に達するという(朴前掲書)。また最近の日弁連・朝鮮総聯の「第二次大戦時沖繩朝鮮人強制連行虐殺頁絹訓査団」の調査によっても戦時中、日本軍により軍人軍属・労務者・慰安帰として沖縄に強制巡行された人数は数万人と推定され、そのうちきわめて多数が虐殺、あるいは戦死・餓死・病死させられたことが明らかになっている(『沖縄タイムス』72・9・4)。

 中国人の強制連行

強制連行された中国人のばあいはさらに悲惨であった。
四二年一一月、東条内閤は閣議で重筋労働部面での労働力不足を補うため、鉱業・荷役業・土水建築業、その他の工場雑役に中国人を移入して労働させることを決定した。
これによって中国人の「試験移入」として、四三年四月より一一月までに炭鉱に五五七名、港湾荷役に八六三名、計一四二〇名が連行された。
さらに東条内閣は四四年二月、次官会議で本格的に中国人を移入する方針をたてた。
この結果、四四年三月から翌年五月までに三万八九三一名が日本に連行された(外務省「華人労務者就労事情調査報告害」『世界』一九六〇年五月号「中国人強制連行の記録」による)。これらの中国人は、日本政府の決定にもとづき、現地の日本大使館、軍、汪兆銘「国民政府」が一体となり、労務統制機関(華北労工協会・日華労務協会など)の管理によって狩り集められた心のであった。
「行政供出」、「訓練生供出」、「特別供出」、「自由募集」という形式をとってはいるものの、その実態は日本軍の「労工狩り」作戦によって戦闘員で心ないのに捕虜とされ、有無をいわさず連行された一般住民がほとんどであった。「自由募集」の場合も、その労働条件をまったく偽ったものだった。そして現地の中国人収容所(日本側は「労工訓練所」と称した)では、非衛生、食糧不足、寒気のため衰弱者や病人が続出し、何の治療もうけぬまま多数の死亡者がでた。
そして連行されて乗船された三万八九三五名のうち、わずかの期間に船中で五六〇名が死亡し、日本への上陸後、事業場への到着までに二四八名が死亡した。これは家畜以下ともいえる待過によるものであった。
さらに残りの中国人も極端な衰弱で労働不能の状況にあったが、すぐに鉱山・建築現場・港湾荷役に配置され、重労働に従事させられた。各事業場の管理には警察が大きな役割をもった。警察は管理の方針として、
「親切にすればする程増長するを以て親切心或は愛撫の必要なし」
「宿舎は座して頭上二、三寸空けば良し」
「入浴の設備は被征服者が征服者をもてなすと云う支那の観念かおるから必要なし」
「外出は一切認めざること」

といった(釜石警察署のばあい)非人間的な感度で対処した。宿舎は逃亡を防ぐために高圧電流がはられ、食事は一食に万頭一個というありさまたった。過重な重筋内労働に耐えきれず、外務省の集計でも、事業場到着後三ヵ月以内に、二二八二名が死亡し、三ヵ月以後に三七一七名の死者がでた。このうちには、何の手当りも受けず病死したものも多かったが、警察官や労務係の暴行で殺害されたばあいも少なくなかった。
 このようにつねに生存の危機に、軍事監獄的な労働条件のなかにあった朝鮮人・中国人労働者は、困難な条件のもとで個別的な逃亡やさらには集団的蜂起までをもふくめて、ぎりぎりの抵抗をおこなった。
三九年から四五年三月までの連行朝鮮人のうち二二万余名が逃亡したといわれているし(朴前掲書)、中国人の逃亡も絶えず、軍需生産にあたえた影響も多かった。
 四五年六月、秋田県花岡の鹿島組出張所の連行中国人が蜂起した。外務省の記録では、四四年七月以来花岡には九八六名の中国人が配置された。彼らは、虐待と苦役と飢餓とのために、四五年六月までに一三
七人が死亡した。この死亡者は、餓死・栄養失調死、ほかに日本人監督による殴打・拷問によって殺害されたものが多かった。
六月三〇日、残った数百人の中国人は、生命の恐怖にかられて栄養失調の身体を駆って、集団逃亡をおこなった。その際日本人監督四人と中国人スパイー人を殺した。しかし、逃亡は失敗し、全員が逮捕され、花岡町の映画館前の広場にしばられたまま坐らされて三日間にわたって徹底的に殴打され、多数がその場で殴り殺された。花岡における死者は四一八名に達している(中国人強制連行当住資料編簒委員会『草の墓標』)。
 逃亡や抵抗には、失敗すれば日本側の残虐な報復行為がまちうけていたが、この動きはなくならず、日
本の敗戦直後の鉱山を中心とする朝鮮人・中国人の集団的な蜂起をもたらすのである。
 外務省調査による中国人連行者は、三万八九三五人、うち死亡者六八三〇人となっている。この中国と朝鮮の人民にくわえられた虐待は、同時に日本国内の人民抑圧の強化のための手段でもあった。





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最終更新日  2021年04月12日 05時37分14秒
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