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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年08月17日
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カテゴリ:日本と戦争
3 三菱美唄炭鉱
① 美唄への連行前史を示す額

三菱美唄炭鉱は美唄駅から美唄川をさかのぼった地点にあった。

 三菱美唄は三菱鉱業が北海道炭礦汽船・三井に対抗して北海道開発の拠点とした炭鉱である。この炭鉱を三菱が買収したのは一九一五年のことであり、一九一七年には二坑、三坑を開発した。朝鮮人はこの炭鉱の開発がすすむ一七年に雇用されている。一〇年後には朝鮮人数が七〇〇人を超えた。朝鮮人が増加する中で、二七年には桜ケ岡の直轄寄宿所で舎監の更迭を求めて、五一人が連判してストライキを起こした(「美唄鉱業所山史稿本」『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2上一〇九頁)。

 この年の十一月には、ガス爆発事故がおきて三九人が死亡したが、そのうち朝鮮人は六人だった。この事故で死亡した朝鮮人が採用されたのは二七年の七月から九月のことだった。死亡者の年齢は二五歳から三五歳にかけてであり、経歴を見ると、土木、港湾、炭鉱などで働いた後に美唄に来ている。たとえば、趙正淑は三菱鯰田・小樽の荷役、金元学は三菱方城・新入、呉俊乾は朝鮮での農業・夕張炭鉱を経て美唄に来ている(「竪坑瓦斯爆発事件」『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上 二三七頁)。

 市街地であった我路のファミリー公園には一九七七年六月に建てられた炭山の碑がある。公園近くの三菱美唄記念館には鉱業所名の石板、大正期の地図、友子免状、美唄炭鉱地域の模型などが展示されている。展示品の中に、一九二三年五月一日に神社に納められた額がある。額には寄贈者の名前が記されているが、そこに日本人とともに、許億・李濟愚・李徳梧・李福祚・朴●漢・鄭徳化といった名前が記されている。三菱美唄には一九一〇年代末から朝鮮人が働いているが、この額は当時朝鮮人がこの地域で働いていたことを示すものである。



三菱美唄への強制連行者数

恐慌になると朝鮮人は大量に解雇されたが、戦争の拡大にともなう労働力不足によって大量に連行されるようになった。このころ、職場では産業報国が叫ばれ、労使協調から一君万民へと戦時統制が強まり、軍隊的労務管理がすすめられていった。
一九三九年の一〇月二〇日、三菱美唄への連行者の第一派三一八人が慶尚北道義城・達城などから連行され一心寮に収容された。この連行から一〇日後の三〇日には一五〇人が契約違反に抗議して入坑を拒否している。十一月六日に一一二人が連行されるが、十一日には連行者への傷害行為に対し抗議している。三菱系の雄別炭鉱への連行に際し、三菱は三菱マークのはいった戦闘帽を着用させている。美唄への連行の際も同様であったとみられる。翌年の一月には落盤で死亡した仲間の慰霊や同僚の釈放・待遇改善を求めてサボタージュやストライキをおこなっている。連行されてもこのような抵抗をつぎつぎとおこしていった。
三菱美唄への連行者数を諸史料からみてみると、一九三九年十二月末の現在員数は六五九人、四〇年三月末の現在員数は一一二一人(山史)、四一年三月までに慶北達城・永川・安東・義城から一五〇〇人を連行し、その後、安東・醴泉・青松、慶南晋州から連行した(「半島労務者勤労状況に関する調査報告」)。四二年六月までには二一五〇人が連行された(現在員数は一三六六人、協和会史料による)。一九四三年には一年で九二七人を連行、四四年一月から八月までには約八五〇人を連行している(石炭統制会史料)。連行者数の不明の月での連行者数を、連行状況から約一三〇〇人と推定すると、連行者総数は約五二〇〇人となる。
美唄には鉄道工業、黒田、原田、石崎、菅原、団、地崎、川西といった多くの下請けの組があり、そこにも多くの朝鮮人が連行されていたから、それらの人々を加えると三菱美唄への連行者総数は六〇〇〇人を超えたとみられる。
 三菱美唄の場合、坑内の請負労働者の率が他の炭鉱よりも高く、一九四五年七月の数字をみると坑内五八一九人中七九八人が請負である(北海地方商工局「北海道各炭礦別労働者調」)。
連行された人々は一心寮、常盤寮、自啓寮、旭日寮などに収容され、家族持ちは清水台、常盤台、旭台、桂台などに居住した。下請の組の飯場も各所にあったが、多くがタコ部屋と呼ばれていたところである。そこは拘禁性が強く、暴力的な労務管理がおこなわれていた収容所であった。
連行されてきた朝鮮人は戦時下の労働奴隷であった。とりわけ請負の組に配置された人々への虐待と拘束性は強かった。
一九四四年七月末、三菱美唄(含む日東美唄・下請組)の労働者は約一万人、そのうち三菱が直轄していた朝鮮人は約三〇〇〇人、下請けを入れれば朝鮮人は三五〇〇人ほどとみられる。この数は北炭夕張の朝鮮人約七〇〇〇人に次ぐものであり、北炭空知(含む赤間)と並ぶ数である。
三菱美唄への連行については、丁在元、金相国、金全永(黒田組)、李基淑(黒田組)崔千守(原田組)の証言がある。
三菱美唄では一九四四年に一八九万トンの石炭を産出したが、労働現場ではここでみてきたようにたくさんの連行朝鮮人がいたのである。
解放後、三菱美唄の朝鮮人は一〇月一日から十一月一九日にかけて、五次にわたって約三千人が集団帰国している。

三菱美唄での死亡者数

三菱美唄での朝鮮人死亡者はどれくらいになるのだろうか。
三菱美唄炭鉱関連での一九三九年から四五年の朝鮮人死亡者(子どもをのぞく)の数を「美唄関係朝鮮人死亡者名簿」(『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上)や「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」から作成したところ、二七〇人を超えた。連行期の三菱美唄の死者は他の炭鉱と比べて多い。
三菱美唄では一九四一年三月通洞坑でガス爆発事故(一七七人死亡、内朝鮮人は三二人)、一九四四年五月には北部第一斜坑でガス爆発事故(一〇七人死亡、内朝鮮人は七〇人以上か)というように大きな事故が二回おきている。また下請けの組での危険な現場での労働や虐待も多い。四一年三月の事故の際、三菱は朝鮮人寮や通洞坑口の警戒を強めた。事故の二日後には坑道をコンクリートで閉鎖したため、五三人(内朝鮮人は一四人)の遺体は今も地中にある。四四年五月の事故は石炭増産運動の中でおき、報道されることもなかった。
死亡者名簿から朝鮮人が連行されてきた郡がわかる。三菱美唄には慶北の義城・達城・慶山・安東・永川・醴泉・迎日・善山・聞慶などから連行されている。三菱へと戦時中に編入された日東美唄へは慶北尚州から連行されている。
下請けの組へと連行された朝鮮人の出身郡は、黒田組は京畿道・江原道・黄海道など各地、鉄道工業は京畿道楊州・冨川ほか、団組はソウル、地崎組は陜川などである。
札幌の東本願寺別院で発見された朝鮮人の合葬遺骨にはこの三菱美唄の下請けの組である鉄道工業や黒田組に連行され放置された遺骨が含まれていた。死亡して放置され、すでに六〇年が経過している。二〇〇四年五月、鉄道工業によって連行されて死亡した具然喆氏の遺族が捜し出された。遺族によれば、具氏は結婚してすぐに連行され、現在まで行方不明のままであったという。
なお大円寺には過去帳が残されているという(北海道新聞二〇〇一年八月一〇日付)。常光寺では過去帳に朝鮮人強制連行真相調査団の調査で朝鮮人名が確認された(一九七四年報告書)。
三菱美唄記念館から楓橋をわたると奥に大きな「弔魂碑」(一九二九年三月)があり、近くに小さな慰霊碑(一九七七年六月)がある。弔魂碑には三菱鉱業取締役会長が「殉職諸氏ノ英霊ノ為」「冥福ヲ祈念」して建てたことが記されている。小さな慰霊碑は閉山後の一九七七年に三菱美唄で殉職や病気で亡くなった人々の冥福を祈り、故郷を偲んで建てたと記されている。
しかしここには死亡者の名前やその死亡者の数を知るものはなく、三菱美唄に連行された朝鮮人や中国人のことは記されていない。

美唄駅と炭鉱を結んでいた鉄道の廃線駅(東明五条)に四一一〇型の機関車(一九一九年発注・三菱神戸造船製)が残されている。戦時下この鉄道は石炭を運び出すとともに、労働奴隷としての連行朝鮮人を運送する路でもあった。
朝鮮人家族も住んでいた清水台の社宅跡地は敷地の段を残して草に埋まっている。コンクリートの橋はひび割れ、欄干が崩れている箇所もある。
美唄炭鉱の施設が集中していた一の沢の跡地は炭鉱メモリアル森林公園となり、竪坑の捲揚櫓二機(一九二三年)、原炭ポケット・炭鉱開閉所(一九二五年)の建物が残されている。一九七二年の閉山にともない、ほとんどの炭鉱施設が破壊された。市街地だった我路には廃屋が並ぶ。そこに社会党の衆議院議員だった岡田春夫の生家(一九一三年頃)が保存されていた。かれの成長と活動はこの地域の炭鉱労働者の精神によって闇の奥底から支えられていたのだろう。
 労働者が入坑し、資材やズリを搬出し、入気・排気がおこなわれていた竪坑の捲揚櫓二機はあざやかな赤色に塗装され、公園は整備されていた。近くには閉ざされた坑口が残っている。それらは墓標のようである。ここで労働を強いられ、坑内に埋められたままの死者たちは、示されてはいない労働者の歴史と戦時下の連行と強制労働の史実を語り継いでいくことを求めているように思われた。
 すでに連行期の朝鮮人使者については明らかになっているので、ここでは連行前期の三菱美唄での朝鮮人死者の名を示して追悼のための資料としたい。

三井美唄の朝鮮人寮跡

三井美唄炭鉱へと連行された朝鮮人は約四〇〇〇人とみられる。三井は全羅南道から連行してきた。死亡者名簿から、連行者の出身地を見ると、谷城、宝城、求礼、長興、羅州、和順、海南、康津、済州島、莞島、霊巌、務安などであり、慶南の密陽、河東などからも連行している。連行期の子どもをのぞく朝鮮人の死亡者数は約一四〇人である。
三井美唄炭鉱跡地には当時の建物が残されている。朝鮮人寮として使われていた建物の一部は改築され、幼稚園として使用されている。三井のマークをつけたこの建物は一九三三年ころのものであり、南美唄町下五条三丁目にある。
 ほかにも三井美唄炭鉱事務所の建物や一九二八年頃に建てられた炭住が転用されて残っている。山神の近くに三井美唄炭鉱跡の碑(一九六四年美唄市建立)があり、一九二八年から六三年にいたる三五年の炭鉱の歴史の概略が記されている。旧炭鉱厚生館の建物の近くに慰霊の碑があり(一九七八年建立)、閉山十五周年行事として、生命を捧げた人々を慰霊する旨が記されている。
三井美唄には朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が連行されていた。日本人の労働者のみならず、この中からも多くの死者がでた。その歴史を記した碑はここにもない。





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最終更新日  2021年04月12日 05時36分52秒
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