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2019年08月18日
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カテゴリ:日本と戦争
戦時中の空知における 朝鮮人、中国人の強制労働の実態
  
  『歴史地理教育』歴史教育者協議会編集 19738 №214
      供野周夫氏著 一部加筆

北海道空知 朝鮮人の炭鉱労働者
 
強制連行された朝鮮人
 
 一九四〇年、朝鮮が日本の植民地なる前には、在日朝鮮人はわずか二二九人しか居なかった。しかし一九一〇年の「日韓併合」とともに、朝鮮人は「日本帝国国民」となり、安くて有能な朝鮮人労働者の供給地となった。
 「日韓併合」以前には「特に宗教、画家、陶工、織物工等は、日本にそれぞれの技術とか芸術品をもたらし、日本に定着して帰化した人も、かなりの数が歴史上に記載されている。それらの人たちの中には親目的か政治家や、いわば留学生などもあったわけですが、日本に定着する場合には、文化の面、技術の面で優れているということで、尊敬の眼(まなこ)を持って見られていたという。それが後にみられるような虐待、過酷な搾取、民旅的差別、侮蔑は、日本帝国主義のブルジョア氏族排外主義によるものであった。
朝鮮人の労働者は
 「無一文で来日したから、白分の労働力を売って生活しなければならなかった。在日朝鮮人に、植民地下の渡航という異常な形態をとおして、農民からプロレタリアートへの転化という歴史的過程をとらされた、といえよう。(「朝鮮近代史」渡部学編著」
 次に掲げる表一は強制連行した朝鮮人の人数であるが、それは正しく二十世紀の奴隷狩りに他ならない。日本の朝鮮支配、様々な植民地化支配の中でも類を見ないものであり、「あらゆる最新技術的発見と純アジア的拷問とを結びつけた前代未聞の残虐なやり方で朝鮮を略奪している。」同(レーニン全集)のであった。以下は空知における強制労働の実態を若干の資料をもとにして追及したものである。

 北海道空知における朝鮮人労働者の実態
 
空知における朝鮮人の使役については、既に一九一七年頃よりみられる。「三菱美唄炭鉱では大正六~八年(一九一七~一九)の好況と、太平洋戦争の二度にわたって大量に使用した。朝鮮人労働者は安全弁的な存在で、好況の波にのる資本家の労力不足を一時的に満たし、不況による企業の縮少には帰省をうながすという状態であった。」(三菱美唄炭鉱労働組合編著『炭鉱に生きる』岩波書店)
 以下したこの書から当時の状況をみると、大正六年には朝鮮から募集した労働者が一二四名も居た。これらの労働者は主に切羽で後山として働いていた。
日本帝国主義が他民族の侵略を開始してからは、この傾向が更に強くなる。すなわち、昭和十四年十月には四六一名、十五年には六八五名、十六年、九〇〇名、十七年、七〇〇名というように送り込んだ。
これらの朝鮮人は主に農村の素朴な青年が多かった。募集の方法は自己希望となっているが、戦争末期では強権を発動し、野良に出ている者を無理につれてくるという強奪同様の手段をとった。
 空知では、どの位の朝鮮人を働かせたかは正確にはわからない、が、畑田重夫氏は数十万、四十万とも六十万ともいわれている、とのべている。
空知では、どの位の朝鮮人を強制巡行したかについては定かではないが、一九四五年の存在していた朝鮮人の数を各市町村史、『北炭七十年史』を基に作成したものが次の表である。
  
『空知に於ける強制連行一覧表』 「一九四五年存在数」
   連行炭鉱所    連行者数 
   夕張炭鉱    7,300人
   平和      1,500人
   大夕張     3,200人
   真谷地鉱      838人
   三菱美唄    2,817人
   三井美唄    1,641人
   上砂川     3,109人
   住友赤平    1,159人
   三井芦別    1,947人
   歌志内鉱    2,504人
   上歌志内      805人
   空知鉱     2,504人
   新幌内鉱    1,489人
   幌内鉱     1,736人
   奔別鉱     1,174人
   弥生鉱       512人
   万字鉱       100人?

    計     44,577人

 表は、一つの年に在住した人数であるし、この外に強制労働をさせた雨龍浅野炭鉱、北炭万字炭鉱、美流浪炭鉱などは正確な資料が残っていないためつかめないし、また雨龍発電所の朱鞠内ダム工事などにも使役しているから、四万四千五百七十七名も一つの輪郭として、部分としてのみ押えられよう。

強制連行した朝鮮人 内務省警保局資料

年次        人数
1904        229
  1915      3,889
  1920     30,175
  1923     80,617
  1930    298,091
  1935    625,678
  1938    799,865
  1940  1,190,444
  1942  1.625,054
  1944  1,936,843
1945  2,365,263
  
  上記の資料は、朝鮮問題の研究には常に引用されているが、畑田重夫先生は,この資料そのものを批判的に検討することを教えている。

 炭鉱における 朝鮮人の使役の実態

「坑内における請負組夫は、タコ部屋といわれた土工請負の転化したものであった。しかし戦争末期では朝鮮人労働者が大半でこれらの組夫は突貫作業の坑道開さく、岩石掘進、水現場などのひどいところの作業をした。現場には棒頭がつき、逃亡を監視する見張員を坑道の要所に配置して作業をおこなっている部屋には厳重な囲いをほどこし、封建的奴隷労働さながらの鉄則に縛られていた。
リンチは所かまわず加えられる。例えば炭車が脱線するとそれを一人で直すことができないと腰が抜けるけるほど叩くなどは日常茶飯事であった。」(『炭鉱に生きる』)。
しかも、危険の比較的少ない坑外労働はできるだけ、日本人労働者に、危険の多い坑内労働は先山を除いて、できるだけ朝鮮人労働者にさせた。表は、三つの炭鉱の坑内と坑外の日本人と朝鮮人の対比であるが、この傾向は戦時中の絨竹中の今川鋲に共通していたのである。

表3 坑内と坑外の日本人と朝鮮人の   労働者の比較(S18年6月現在)

坑  内     坑   外
日本人  朝鮮人  日本人  朝鮮人
三菱美唄  2,459   2,216  2,092    93
三井美唄  1,294   1,507  1,004  134
北炭夕張  2,527   4,793  2,411 635
三井砂川  1,840   1,979  1,926 249
    「北海道炭鉱統計資料集成」

 元タコ部屋にて酷使さわた今善水さんは「朝鮮で浮浪児のようにブラブラしていたら警察につかまり、いい所に連れていってやるといわれて炭拡にきた。つく迄は何処に行くともなんともいわれなかった。着いた時は、二年たったら国に帰してやるといっていたが、二年たったら、戦争のため石炭を掘らなげれば負ける。この戦争に勝つために延期する、といわれた。仕事も危なくてひどい所は組に渡し、良くなった現場は会社にとられた。」と語っている。
  
  朝鮮人労働者に対する搾取政策
 
 「毎朝四時に起床、洗面して点呼を受け飯をかきこみ便所に行く間もない位に追い立てられ坑内電車に乗って現場まで急ぐ、日が経つにつれて飯がだんだん悪くなり----大根飯とか、人参飯になって、栄善失調でみる間に仲問は倒れて行った。先山と後山の二人の作業量は、坑道の一番危険な所に回さているにも拘らず、高さ六尺、幅五尺、長さ十二尺を掘り進んでいかなければならなかった。労働時間は平均十二時間で、夜遅くタコ部屋にもどると、雑談ができぬほど疲れ切ってしまった。(『日・韓・中国人民連帯の歴史と理論』日本朝鮮研究所)
 「当時は人間扱いされなかった。食べ物についていえば幹部の御飯は米、次は豆を入れた。最後には豆ばかりだった。労働時間は朝四時に起され九時過ぎまでが普通だった。」(金善永氏談)。
 これらはまさに奴隷的労働に外ならない。帝国主武者は、朝鮮人労働者を尚一層搾取するために、朝鮮人を手下に使うなど非常に巧妙に支配した。『三笠市史』はこの間の事情を「この人たちは五人ないし十人で一組を編成させ、二組ないし四組をもって一班とし、五班内外をもって一隊を編成させた。一七年からはこの役付者に朝鮮総督府抗割合の打合わせに基づく標準に準じて、隊長三十円、班長五円、組長三円の月額賞与を支給して、出稼増産を督励した、」とのべている。当時タコ部屋労働者の一日の賃金は三円十五銭、会社募集の朝鮮人労働者は一日五円であるからかなりな金額であった。
 
 炭鉱災害と朝鮮人の犠牲者
 
先に空知の炭鉱で使用した朝鮮人の数をまとめたが、炭鉱の災害で労働者が殺された時は必ず朝鮮人も殺された。美唄関係の坑内事故による主な死亡者数は、三菱、昭和十四年・五名、昭和十六年三月・百七十七名、昭和十九年五月・百九名、昭和二十二年・九名である。最も危険な坑内労働は朝鮮人を使役したのであるから、この内半分以上は朝鮮人であるはずだが、現在判明し判明しているのは次の表のとおりである。

朝鮮人の年次別死亡者数
 
美唄市の三菱・三井炭鉱分

   大正11年   1名
     12年   1名
   昭和12年   2名
     13年   1名
     15年   4名
     16年  43名 (内ガス爆発32名)
     17年  26名
     18年  31名
     19年  81名 (内ガス爆発42名)
     20年  13名
計 203名

  変動の激しい朝鮮人労働者

 朝鮮人労働者には、移転の自由など全然なかった。二年契約であったものも「戦争に勝つまでは----」という勝手な理由により強判労動が続けられた。重労働と差別に耐えられなくなって逃亡するものも少なくなかった。彼らが逃亡したとしようものなら「朝鮮にいる家族にまで国賊の烙印を押して差別待遇するなど、威嚇と懐柔をもって管理した。」のであった。逃亡したものがもし見つけられたりしようものなら、死を覚悟しなければならなかった。まさに命懸けの逃亡だったのである。
しかし危険をおしても逃亡する者が後を絶たなかった。タコ部屋から逃亡して見つからずにすんだ金善水氏は「タコ部屋の何が辛いかといったら、殴られたことでもなければ食う物が与えられなかったことでもない。一番辛かったのは差別だった。『こら半島、こら猿』といっては足で蹴られたり、殴られるのは普通だった。けがをしても炭鉱病院では、タコ用に玄関脇に、バラックの特別な小屋を作って、そこで手当をし た。逃げて捕まったら半殺しに合ったのを何回 も見ていて知っていたから、逃げるために随分研 究をした。そして病院に行く時は監視人が手薄なのを発見し、その時に逃げた。動機は〝腹一杯ものが「食べたい」「馬鹿にされたくない」という気持からだった。」と語っている。
 朝鮮人の変動の激しさを示すものの一つの例として、『三笠市史』は一つの資料を提供している。
坑外労働者が減少したのは、坑内に補充したと考えられるが、坑内、坑外共に減少していることは、事故による死亡、記録に残されないまま闇から闇に葬なり去られたか、逃亡かは今後の調査にまたなければならないにしても、一ヵ月の間での変動の激しさに、やはり異常な事態であったといえよう。
  
朝鮮人労働者の反抗と闘争
 
言葉が通じないうえに民族的差別の激しい中で、いつでもただ殴られ通しばかりではなかった。時としては団結し反抗したり闘った。しかしそれらには血の弾圧が常だった。空知での朝鮮人労働者の闘争の、一・二を紹介すると、大正年間三菱美唄では「日本人Sと一人の朝鮮人は空車の順番で口論となった。暫く争っていたが、Sは炭車の差しピンで朝鮮人の頭を殴った。殴られた朝鮮人は倒れてしまった。この争いが知らされるや切羽に居る朝鮮人は労働者約四十名は、ツル・スコップを持って駆けつけて来た。日本労働者はSの危険を感じ、いち早く運搬小屋へ避難させたが、集合した朝鮮人はSを入れた小屋の周囲を二十に囲んで、Sを出せと怒鳴った。休養中の仲間にも知れ、七・八十人が応募に集まった。会社では労務主任を先頭に、四・五人の係員が来て事件の鎮圧にあたった。労務主任は「持ち場に戻れ」と演説をしたが、一向に役に立たず、容易に解散する気配がないばかりでなく、益々強くSの連れ出しを迫った。会社係員は止む無く坑務室で話をしようと朝鮮人意に従い、Sを護りながら、運搬小屋を出た。坑務所入り口までくると、かねてしめし合した如く、Sを先に坑務所に入れ、先頭の四・五人を手荒く入れて、玄関を固く閉めたのである。窓越しに覗く大勢の朝鮮人の前で、なかの仲間は、腕節の強い係員に滅多打ちの制裁を受けた。係員は見せしめのために、これみよがしに棒を振った。
その勢いにのまれた戸外の朝鮮人達は誰一人押し入ろうする者はなく呆然と見守っていた。ややあって、労務係はこれらの人たちを引率して作業場へ連れていった。」(『炭鉱に生きる』)。
この事件は、労働者が集団で抗議した行動に対して徹底的に弾圧したのであった。

 夕張では、集団で砿長交渉を行ない要求項目の一定の獲得という成果を上げた。『夕張市史』はこの様子を次のように述べている。
「昭和に入ってからは、夕張砿所属大新抗では増炭を計画し、現場数に比較して多数の朝鮮人労務者を入坑させた爲、賃金が次第に低下し、労働者は内心不満を抱いていたところ、昭和二年七月二十九日、同坑で、朝鮮人坑夫二名が落盤圧死したことが動機となり、低賃金の上他坑より危険が多い、これを改善すべきであるとして、一番方坑内百二十四名は翌三十日結束して羅業に入り、賃金値上げ、設備改善の二要求を掲げて同砿事務所に押しかけ砿長と交渉した。
その結果砿長の交渉を入れ、朝鮮人代表金景項外三名を選定し、翌日さらに会社側と接衡を重ねることとして解散した。翌三十一日に会社側では
一、現場の人員配置は適当に考慰する。
二、賃金は可能の範囲において値上げする。
三、設備は速やかに改善する、
と回答したので坑夫側もこれに満足して、八月一目より全員就業し解決を見た。」とある。
 日本人労働者はただこれを傍観するのみであった。民族的差別と蔑視感が、共同した戦いに発展させるのを妨げていた。

 コンクリートの中に生き埋め、濁流に谷まれたタコ部屋の朝鮮人

  『歴史地理教育』歴史教育者協議会編集 19738 №214
      供野周夫氏著 一部加筆

空知の最北、名寄~深川間の深名線に囲まれるように両側ダム、別名朱鞠内湖がある。朝鮮人の生き埋めがあったのはこのダム工事の時であった。
雨舵ダムは戦時統制で統合され、現在は北海道電力に入っている。北電の水力発電所の総出力五三万三三六四KW(平時三九三〇KW)の発電量を誇るもので、昭和三年から、およそ十ヵ年の調査時期と約六ヵ年の工事期間をかけて完成した。
 ダム工事でどのような虐待か行なわれたかを、北海道在日朝鮮人の人権を守る会発行の小冊子第五集から当時の状況をみると、
半場の帳場をしていたY氏は、「あれをやったのは、朝鮮人ダコと日本人ダコですよ、今日は朝鮮人ダコが何人死んだ、昨日何人死んだ、という話は毎日だった」と述べている。
元タコ部屋の労働者ユン・ヨンワン氏が証言している内容を省略して紹介すると、そこで組立てする時に上にのぼり、ここから落ちたら、死ぬか片輪になるかのどっちかだ。決して助けには降りないで、そのままコンクリートを打ちこんで埋めてしまった。わしら同胞が、本当に何人あそこに埋められたか数え切れない。朝鮮人の飯場は殆どそうだった。同じ故郷から六人きたが、四人死んで二人残った。その一人もどこへ行ったかわからない。飯場で二人死んで、あとの二人は他所に引っ張られていかれて死んだ。」
 濁流に呑まれたタコ部屋は、美唄市で起きた。
 昭和十八年九月十一目美唄には八九・〇ミリの集中豪雨が襲った。美唄川上流の谷あいの狭い平地に建てられていた監獄部屋には、約百名近い朝鮮人が、タコとして閉じこめられていた。部屋の幹部は折からの豪雨と洪水で身の危険を感ずるや、我が身だけ部屋から脱出し、その時に厚い戸に外側から鍵をかけ独り裏の山手に逃げた。格子戸から手を出して、助けを叫ぶ「朝鮮人労務者」に目もくれなかった。幾十となく格子戸から必死に打ちふる手、そして叫び声を、水量を増した濁流は一瞬のうちに呑みこんでしまった。
目撃者のチョン・イムチン氏は「丁度水が増えてくるのに、自分達だけ外に出て、川の様子を見ていたのではないですか。早く開けてやれば裏が山だから逃れたのに。ところが出せば逃げると思って出さなかったんですよ。あくる目、水が退いてから、人を探しに行ってもいる者もなかった。目の前で殺されても、それを見ているだけのもので、言葉ひとつかけることもできなかった……。」
 なんという残酷なことか。これらの遺体は寺の過去帳にも載らず、結局、闇から闇に葬りさられたのだった。
 
中国人の炭鉱労働者
 
一九二〇年~一丸三〇年代の日本帝国主義は「世界を征服しようと思えば先ず中国を征服しなければならない。満蒙の利益をもとにして全中国の利益を取り、インド、南洋、中小アジア、ヨーロッパを征服する資としよう。」(『歴史教育の扱い方』大村書店)のもとに、いわゆる「満州事変」以来十五年にわたる日本帝国主流の中国侵略戦争中、三光政策による残虐行為かくり返され、中国人民千数百万人を殺傷し、さらに中国人三万八千九百三十五人を日本に強判連行し、六千八百三十人を死にいたらしめている。『北炭七十年史』は、その間の事情を「朝鮮人労務者の移入にも限界があったので、華人の使用も止むなしとすることに……当社には合計千二百二十三名が移入された」とのべている。つまり朝鮮人をさらいつくすだけさらいつくし、なおかつ足りなかったので中国人をさらってきたのである。
 中国人に対する扱いは、人間なみには扱かわれなかった。若干の資料に基づき当時の様子をみると、「被服は真冬でも薄い肌着一枚に編目の荒い作業服一枚、給食は麦粉入りの野菜粉食をこねたマントウ(饅頭)を与え、栄養の摂れない処へ量が少なかったので、ほとんどが骸骨のように痩せていた。作業現場の往復は監視付きで、空腹のあまり道路に転がっている馬鈴薯や大豆を生のままで口に入れ、甚だしきは草をむしって食べ、坑内の粘土をたべた。」(三菱炭鉱労組発行『炭鉱に生きる』岩波書店)
 同様のことは美唄ばかりではなく、芦別でもそうであった。「一粒のよごれた豆でも探しあてて食べていた事実を、私たちは涙なしでは語れない。」と前置きし当時の状況を「戦況はますます不利になりつつあった終戦の年だった。私たちが合宿所で食事をして、食べ残りを窓から投げ捨てると大勢の華人は我先にと争って走って来てそれを食べた。
炊事揚の流し尻で、水と炭殻の中に沈んでいる米や豆類を手で掬い上げ、その場で食べている姿も毎日見うけられた。----華人のなかには、栄養失調、凍傷などで作業が出来ず、途中で寮に帰る者が、三月~五月にかけて毎日一人や二人は出た。食料・煙草・その他の給与は、稼動成績で差があったと聞いていた。休養すれば半減されたことは言うまでもないことだった。」
 酷寒の二月、三月には『鉱業所には在庫なし』と称して、班長以外に地下足袋は履かず、藁(わら)で作った「ツマゴ」を素足に履かせた。もちろん、足に巻く布さえ与えず、手には、これも藁で作ったものをはめただけであった。大島常次郎『三井芦別物語』)とのべている。
 晩飯も米麦のようなものを与えたのではなく、大根のきり干しを塩で煮たものを茶わんに一杯だけしか与えなかった。(三菱美肌炭鉱の例)このような扱いは犬や描より劣っている。しぼるだけしぼり、働けるだけ働かせるというのが独占資本の政策であった。
  
 中国人の強制労働の実態
 
「作業は請負および日役の二本建で、原則として十時間二交替制をとった。出稼率は八十五・四%で、動作は鈍重であったが誠実に就労し、能率は日本人労務者に比べて十%程度であった。」(『北炭七十年史』)満足なものを食べさせもしないで、日本人労務者の七割もの能率を上げさせるのであるから、ちょっとでも休もうものなら必ず棍棒のあらしがとんだ。三菱美唄鉱で中国人を使役したN氏は「炭車を三人で押させ、それが動かないとたくさんの中国人が手伝いにくる。すると、そんなもの三人で動かせないのか、とぶんなぐった。」と述懐している。
『北炭七十年史』は「華人労務者は長期の戦争に疲弊していたので、入山当時すでに栄養におちいり、一般に疾病に対し抵抗力を消耗したものが多かった----一カ月の休養期間を設けた----」
としているが、休養期間といっても体力を回復させるための休養ではなく、軍事訓練、作業訓練が主であったことを忘れてはならないし、また採炭や掘り進みなどの重労働はさせなかったと解すべきであろう。
さもなければ後にみるような大量の死亡者か出るはずはないであろう。
 
  強制連行と死亡の実態

 前に述べたように、中国人に対しては人並みには扱われなかった。栄養失調や不衛生からくる発疹チフスその他の発病者が続出し----牝片孔増加の一途をたどった。「不慣れな作業に食事の不足、防寒衣料の配給不足のため凍傷患者が続出し、不衛生からは発疹チフスその他の発病者か続出し……」(『三井芦別炭鉱物語』)「彼らはボロのような衣類をまとい、食糧も極めて悪くて乞食同然の有様であった。昼食はマントウ二つであった。血色が悪く、隊を組んでいる姿は、見るもあわれな姿であった。栄養失調から死ぬものも続出し、上砂川火葬場であずかった霊は四十六霊となっているが、実際にはもっと死亡者が多かったのではないかと推定される。」(『上砂川町史』)とある。
 三菱美唄炭鉱で、ある組の帳場をしていたA氏は
 「あの当時は随分ひどいことをした。仕事が鈍いといってぶんなぐり、リンチで殺したとなったら問題になるのでグッタリとなっているのを飯場においてきた。翌日死んでいても病死になった。」と述懐していたが、これらの諸要因が組み合わされて死亡率四十五%(三井芦別炭鉱川口組)三十五・八%(三井芦別炭鉱)など常識では考えられない数字が並んでいる。
 
中国人の「俘虜」については、生きている時の虐待、差別だけに終わらず死後においても貫ぬかれた。美唄の三井炭鉱では病死した中国人を火葬場でなく人里離れた山中で火葬にしている。この残酷な扱いは中国人を人として扱わなかった例の一つである。空知全体で中国人の投入は六千六百六十三名、内死亡者は千七百十七名であり、死亡率二十五%にものぼっている。この事実に対して、酷使した資本の代表はどのような感覚を持っていたか。以下美唄炭鉱五代所長西村謙次郎の『想い出の記』なるものを引用しよう。「美唄炭鉱は外人俘虜収容の本部となり、総指揮官として古賀大佐が着任し……彼は古武士的な老人で、俘虜を遇するに所謂日本武士道的温情にて彼らに接した。----私の方針も大佐の方針にならって決して残酷な取扱いせぬよう指示し実行した。……」
 あいた口が塞がらない、というのはこのようなことを指すのだろう。この回想なるものを、『美唄市史』では無批判にのせ『歌志内市史』では北京独占の代表者の回想をのせている。歴史を書く者の言くものの史観以前の問題かこれらの市史は提起していて興味深い。
 
  連帯感の強い中国人労働者
 
以上みてきたように、中国人労働者に対する扱かいは牛馬にも劣るものであったが、中国人労働者の中には八路軍の影響もかなりあり、帝国主義者と日本人民とを区別して考えていた。中国人民の解放を勝ちとる以前の八路軍のその感度は非常に教訓的である。すなわち戦後労働組合づくりの準備をはじめた時、中国人労働者が資金カンパをもって激励にかけつけてきた。「大和寮(中同人寮)書記長の張連栄(八踏軍少尉)は、労働組合の結成に賛意を表し、準備資金にと三百円のカンパを贈った。また準備会には大和寮の中国人がコックを連れて激励にきた。……『本国に帰ったら君達のように労働者の解放のためにたたかう』ことを誓い、固い握手をかわされた。」(『炭鉱に生きる』)のである。

 帝国主義w者の中国侵略に命をかけて戦った日本人民の数々、帝国主義者による非人道的な虐待の数々……。この張連栄の行為もプロレタリア国際主流の気高さを示している。
 
おわりに
 空知の炭鉱地帯を中心に、帝国生辰、軍国主義というものはどんなに非人間的な残虐性を示すものであるか、また空知の石炭産業を発展させたのはどのような階級の人たちであったかを考えてきた。
空知の石炭産業の全発展の行程は、日本人の労働者ばかりではなく、中国人の労働者、わけても朝鮮人の労働者の「哀号、哀号」という血涙の上に成り立っているといっても過言ではない。
 この小稿では紙数の関係上、目本の労働者に対する労働強化・搾取の実態についてはふれなかったが「他民族を抑圧するものは自らも自由でない。」というエソゲルスの教えは常に貫徹されていた。私たちは帝国士族支配下の事実から学び、再び帝国士族、帝国主義復活を許してはならない。そのためにも、もっともっと日本帝国主義の戦争責任、自民族ばかりでなく他氏族に対する虐待の事実を発掘する必要があろう。昨年、一昨年と二年にわたり北教組教研の人権と民族分科会で訴えたが、歴教協会員や他同体の進歩的教師により調査活動が展開し、昨年は一昨年に比較して室蘭と小清水支部から報告宵が提出された。美唄においても、目弁連の強制連行真相調査団が現地調査に来たことも契機の一つとなって、五月には歴教協会
員と社会科教師五名がタコ部屋の流失現場を調査し、共同研究の芽生えが出ている。さらに各地域の共同研究に発展することを切に望んで筆をおく。 (北海遊歴教協)





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最終更新日  2021年04月12日 05時30分40秒
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