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朝鮮における皇民化運動と改姓名
朴慶植氏著 一部加筆 よく知られているように、「満州事変」を契機に、朝鮮での皇民化運動は一段と加速された。 だが台湾は、「満州」から地理的にも離れていたのであろう。事実進行の上でかなり時間的なずれがみられる。「九・一八」から「七・七」の間の日本支配の強化策は、左翼、抗日民族運動に対する激しい弾圧にむしろ重点がおかれていた。 もちろん、むちは常に飴を伴ってはじめて実効が加乗されることを当局は忘れない。大・中地主層と買弁ブルジョアジーには「地方自治」の飴を与えた。また長年、一視同仁・内台一如・内台融和等々の看 板の裏に秘められていた、うその一つでもある日台通婚の法的不成立を改めた。俗称「内台共婚法」(昭和八年二月、府令第八号)の実施がそれである。 やがて戦火が漢族系台湾入父祖の郷里である華南に下ってくるにしたがい、台湾での皇民化運動も日一日と強化されて行く。 チヤンコロ、蕃人の蔑称は本島人、高砂族に改められるよう、まず指導が見られた。 当局は、台湾路(漢族系台湾入は中国の方言である厦門語(あもいご)、客家(はっか)語。高山族系台湾入はそれぞれの母語を使用)の公開の場における使用禁止、新聞雑誌の漢文欄の廃止を通じて、まず言語を奪う。一方で奪いながら、他方で「国語」(日本語)常用家庭の認定(砂糖、肉等の特別配給、子弟の中等学校への優先入学許可等を付録につけた)と国語の強制学習を含む普及運動で、その補填、代替、定着を策した。 さらには伝統的生活習慣の改善といっては、気候風土におかまいなく、日本式の風呂、便所、和服、畳を押しつけて、日本式生活様式をなんとか外見でも確立させようと試みた。それでも不安だったのだろう。ついには「形あって精神も宿る」のスローガンで「内地式改姓名」を許可制という建前において、なかば強制する。その法制化は、まさに皇紀二六〇〇年の大祝典といって浮かれに浮かれていた一九四〇年(昭和十五)二月十一日、その日に行った。 外形のうつわを法制ででっちあげた後、今度は魂を入れ替えようと奔命する。 大和魂注入を目的に、まだ無償労働のていの搾取をもかねて、台湾青年を勤労奉仕、「皇民錬成」運動に狩り出す。 平行して、台湾人の信仰、すなわち「心」にまで泥足を踏み入れ、その精神的堡塁の解体を策す。いわゆる寺廟の整理と「昇天」(民衆の反感を怖れて神々を天に送り戻すと称した)を行い、代わって入手した関係財産で神社を郡単位に建てて、参拝と宮城這拝を強要した。そして「ぼくら少国民」には御輿をかつがした。 祖先の位牌と伝統神の神位は正庁のあるべき位置からとり払わされ、代わりに天照大神、久親王等の大麻が押しつけられた。 皇民奉公会と徴兵制 周知のように、日本国内では昭和十五年の十月に大政翼賃金がつくられた。これに呼応して着任まもなくの長谷川清総督は、翌昭和十六年四月に皇民奉公会を設立し、自ら総裁を兼ねた。それまでの皇民化運動に加えて、滅私奉公をも全台湾入に押しつけるべく大運動を試みる。 日中戦争期は台湾入を、軍夫、通訳、軍隊のための疏菜供給を任務とした台湾農業義勇団等々に動員するにとどまった。 太平洋戦争の勃発に伴って、日本人の「人的資源」はいよいよ枯渇、また南方戦線では後から打たれる心配がまずないと判断したのでもあろう。台湾人を軍隊に動員して南方戦線に投入する。昭和十七年四月一日には陸軍特別志願兵制度、翌昭和十八年七月一日には海軍特別志願兵制度が、また最終段階の徴兵制は昭和十九年九月一日に法制化をみた。 なおパターン、コレヒドール作戦で「役に立った」と絶賛された高砂義勇隊も、また昭和四十九年末インドネシア・モロタイ島で救出された中村輝夫(本名は史尼育唔(すにおん)、中国名は李光輝)が狩り出され、訓練を受けた高砂族のみの陸軍特別志願兵訓練部隊もその一環でつくられたものである。昭和十五年戦争に動員された台湾入の数は二十万七千人といわれ、戦傷者も少なからず出したという。遺族にはもちろん補償はなく、遺骨もまた今なお南海で苔とともにある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月12日 05時26分35秒
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