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2020年05月31日
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〔芭蕉の生涯 芭蕉、藤堂良忠の小姓に〕
 

芭蕉は承応二年(一六五三)頃、つまり十才になった頃に、藤堂新七郎家の嗣子、藤堂主計良忠に小子姓として仕えたという。出仕の時期については異説もある。

上野には城代の釆女家に次いで、侍大将として藤堂玄蕃・新七郎の両家があり、ともに代々五千石の大身である。

その一つの新七郎家の嗣子良忠は、寛永十九年(一六四二)の生れだから、芭蕉より二つ年長になる。だから芭蕉が約十才の頃出仕したとすれば、遊び相手のようなものだったかもしれない。

この主従の関係は良忠が二十五才で没するまで、約十余年つづくことになるが、この二人の少年の問には、単なる主従の問柄をこえた親密さがお互いに感じられたものらしい。

 良忠はいつの頃からか、蝉吟と号して、貞門の俳諧を京の北村季吟に学ぶようになる。古典注釈家・和学者として多角的な活動をした季吟は、明暦二年(一六五六)以後俳諧宗匠として、諸方の貴族・豪商に出入していた。そして当時の俳諧、それは和歌の伝統的マンネリズムや、既に儀礼的文学になっていた連歌とちがって、用語も自由だし、何よりも、軽いユーモラスな気分のもので、地方の青年公子良忠の文学趣味を満足させるに十分なものであった。

〔芭蕉の生涯 藤堂家の文学〕
 

 藤堂家は文学に全く無縁であったわけではない。数少い俳諸初期の資料として珍重すべき、藩祖高虎と家臣八十島との両吟俳諧百韻が、現在も遺されており、新七郎家の初代良勝・高虎等の連歌の懐紙も遺っている。

さらに蝉吟と時代を同じくして、本家三代目の弟で、伊勢久居五万三千石の初代領主となった藤堂高通は、任口と号して同じく季吟の教えをうけていた。

良忠の蝉吟が季吟を帥と選んで俳諸を嗜んだのも、ごく白然なことであったのである。

芭蕉が、ついに生涯のはかりごととなった俳諧と結ばれたのも、おそらくこの蝉吟の文学趣味に影響されたものであろう。すでに寛文四年(一六六四)四月に刊行された『佐夜中山集」には「松尾宗房」として、
 
「姥桜さくや老後の思ひ川」
 
「月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿」
  の二句を入集している。文献に見える彼の句の最初のものであり、ともに諦曲の文章によりかかって仕立てた句で、言葉の技巧的なおかしみをねらったもの、当時の風体をそなえて巧みである。 

寛文五年十一月には、蝉吟の発句に季吟の脇句を得て興行した貞徳十三回忌追善の俳諧に一座している。一座の連衆は正好・一笑・一以等上野の俳人である。当時上野の武土・町家の且那衆に俳諧が行われ、「続山之井」には上野の俳人が三十六人も入集している程で、一種の俳壇が形成されていた。
 






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最終更新日  2020年05月31日 07時22分59秒
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