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〔芭蕉の生涯 寛文六年〕 翌寛文六年は芭蕉の生涯の一転機となる重大な年である。 その年の四月二十五日、主君蝉吟が僅か二十五才を一期としてなくなったからである。 特別に自分に目をかけてくれた主人の死、それは二十三才の多感な青年にとって大きなショックであったに違いない。 追って切腹を願出て許されなかったという説があるのも、近世初期の切腹流行期を隔ること違いなく、列死禁令が出たのが僅か三年前の寛文三年であったことを思えば、あながちに伝記作者の理想化の結果とも言いきれない。 六月中旬、命ぜられて蝉吟の位牌を高野山報恩院に納め、その後致仕を乞うて許されず、無断で伊賀を出奔したというのが通説である。 出奔の動機についてはいろいろな推測が行われている。 通例、伊賀を出て上洛し修学したと伝えられるが、これまた確実な資料を欠き、推測の域を山ない。現在の資料では、寛文十二年までの間は全く空白である。 そして、六年後に現れて来た芭蕉は、既にしっかりした自分のものをもち、驚くべき豊かな成果を示していた。自句をも含めて、上野の俳人たちの句を左右に分け、それに〔宗房〕の判詞を加えた三十番の句合せ「貝おほひ」一巻を、上野菅原社に奉納したのがそれである。 ここに集められた句は、当時の流行「小歌」や「はやり言葉」を「種」として作らせたもの、それに加えた宗房の判詞もまたこれらを種とした気の利いた文章で、彼の処女作であり、彼自身の企画と編集になるものである。 「寛文拾二年正月廿五日伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」 と署名している。その一行の中にも、彼のこの書に対する白信がうかがわれる。現在、生家の奥に残された釣月軒、あの狭い薄暗い部屋で、昂然と眉を上げて机に向っている青年芭蕉の姿が思われる。この「貝おほひ」の企画、内容のもつ澗達奔放な気分は、当時の俳壇の最も前衛的な傾向、爾後数年間、談林俳諧へと俳文芸が進んで行った、その路線に明らかに指向されており、その前駆的な意義をもつ作晶である。 二十九才の芭蕉がいかに俳壇の動き、時代の息吹きに対して敏感であったかを証明するものである。と同時に芭蕉の中に、この才気を目覚めさせ成長させ、このダンディズムを身につけさせたのは、この以前六年問の空白時代をおいてはないと考えられる。『貝おほひ」は芭蕉の東下後、おそらくは延宝初年に、江戸の中野半兵衛から出版された。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月31日 07時25分20秒
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