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2020年05月31日
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大江戸泉光院旅日記に見る甲斐 (一)

  

 石川英輔氏著 1997 515日 『講談社文庫』講談社刊 一部加筆

 

山伏が見た江戸期庶民の暮らし

 

 甲斐関係記事 抜粋

 

文化九年九月三日(グレゴリオ暦一八一二年十月八日<以下グレ>)

太陽がようやく東の空に顔を出した頃、一人の老修験者つまり山伏が日向国(向州・宮崎県)の佐土原(同県宮崎郡佐土原町)を旅立った。宮崎でのグレゴリオ暦十月八日の日の出は六時十二分頃だから、今の時刻では六時半になるかならぬかの頃だろう。

 この山伏は、佐土原の山伏寺、安古寺の住職で名は野成亮(しげすけ)。修験者としての院号が泉光院なので、これからは、単に泉光院と呼ぶことにする。また、佐土原は、〈さどわら〉と読むのが正しい。

 泉光院が再び故郷佐土原の土を踏んだのは、六年二カ月後の文政元年十一月七日(グレゴリオ暦一八一八年十二月四日)で、その間に、南は鹿児島から北は秋田の本庄(本荘市)まで、日本中を歩いて歩いて歩き抜いた。本書の読者の多くは、現在の居住地、出身地など、御自分にとって身近な土地を泉光院がどのように通り過ぎて行ったかを興味深くお読みになるはずだ。現在の県で足を踏み入れていないのは、本州では青森、岩手の両県と、四国の香川、徳島、高知の三県のみである。

 長い旅の間、泉光院は、たまに渡し船を利用するほかまったく乗り物に載らなかった。越すに越されぬという、かの大井川でさえ、河口近くの浅瀬を徒歩で渡っている。ひじょうに複雑な道筋を托鉢しながら歩いているので、歩いた距離を正確に計ることはとうていできないが、八十万分の一の地図に大まかな道筋を記入して計ったところ、一万一千キロになったから、実際は二万キロをはるかに越す……地球の半周以上に達するかもしれない。同行するのは合力(強力つまり荷かつぎ)の平四郎という男ただ一人。現代人には、想像を絶する旅だった。

こういう広い範囲を旅することを、昔は〈回国〉といい、長い時間をかけて国から国を回る旅人を回国者と呼んだ。文字通り各国を回る旅の事だ。この場合の国は、日本全国という意味ではなく、律令制度による諸国、日向、肥後、伊予、美作、美濃、武蔵などの国々を回る旅の意味と考える方がふさわしいだろう。

 これからご紹介するのは、ほかならぬ泉光院の回国の記録である。

 泉光院の旅には、二つの特筆すべき点があった。

 第一は、宗教者としての泉光院の旅が、仏教贈侶白乙食修行であり、長い旅行の大部分の期間を托鉢しながら歩いた点である。泉光院は、後に説明するようにひじょうに地位の高い山伏だが、それにも拘わらず、経文を読んでお札をくばり、銭や米の喜捨を受けながら移動する一種の無銭旅行をしたのである。

 托鉢の旅では、当然のことながら、施行つまりおもらいの多い土地を選んで歩く。経験のないわれわれがちょっと考えると、賑やかな町や街道筋の方が裕福で、喜捨してくれる家も多そうだが、実際はその反対だったらしく、泉光院は、人通りの多い表街道をなるべく避けて、農山村地帯の裏道に沿った小さな村落ばかりを選んで歩いている。

 しかも、宿泊料を払って木賃宿や旅龍旅館)に泊まるのは都市や大きな町だけで、例外といっていい。大部分は農家に頼んで泊めてもらった。(中略)

 

文化12年9月◇松本・浅間温泉・塩尻・諏訪

文化1210月◇韮崎

 

 十五日、松平(戸田)家六万石の城下町、松本を通って浅間温泉へ行き、常住という家に泊まり、雨のせいもあって十九日まで滞在した。雨で畠仕事ができないため、十八日には農家の男女子供が大勢が人湯に来た。夜は――奥の間にて男ども五、六人集まり、飲むやら唄うやら深更まで遊興やかまし。あゝ困りたりしこの雨で、高い山々は、雪で白くなった。二十日、出発。平田(同市平田)の金剛寺という山伏が学者だというので訪ねて行ったが、占いの料金表が張ってあるのにうんざりして出て来た。村井の宿場(松本市村井)泊。二十一日、長畔(塩尻市長畝)泊。二十二日、塩尻の宿(塩尻市)へ出る。松本の番所が

あった。塩尻峠を越えて下諏訪へ下り、和泉屋という湯宿泊。

 二十三日、諏訪明神(諏訪大社秋宮・長野県諏訪郡下諏訪町)に参詣した。泉光院は、この日、生まれてはじめて富士山を見た。次に、上諏訪(諏訪市)の諏訪家三万石、高島城下に入る。善根宿がないので、四キロ歩いて大熊村(同市湖南大熊)泊。二十四日、上の諏訪(諏訪大社上社本宮・同市中洲)参詣。――当所、七つの不思議ありといえども、くわしく聞けば、虚説多し――と一蹴している。

 甲州街道に出て、金沢宿(茅野市金沢)泊。

 二十五日、午後から風雨が強まり、蔦木(富士見町蔦木)泊。

 二十六日、甲州街道で信濃と会の堺を越え、番所のある村(白州町教来石村)に泊まった。

 二十七日、平四郎が托鉢するというので、坂を越え原村(長野県)へ行ったが、家が余りないばかりか十軒のうち九軒までは留守なので、手ぶらで下りて来た、しかも農繁期で泊めてもらえないため、三光寺(富士見町上蔦本)という禅寺に泊めてもらった。

 二十八日、住職が、「今日はお祭りなので、この近村を托鉢してもう一泊しなさい」といってくれた。托鉢先の方々で、施行の餅が出た。

二十九日、次の目的地は身延山なので、韮崎を通って南下し、北割村(韮崎市大草町上条北割)の永明寺という禅寺に泊めてもらった。この寺には――二十二・二三歳とも見ゆる大美の大黒さん、まします――女性のいないはずの禅寺に、若く美しいお嫁さんがいた。〈大美〉は、「おおうつくし」と読むのか。

 十月一日(グレゴリオ暦十一月一日)托鉢しながら飯野新田(山梨県中巨摩郡白根町飯野新田)まで行って泊まる。このあたりは日蓮宗ばかりで、他宗の者には托鉢も応じてくれない。とても泊めてくれる家はないだろうと思っていたが、「身延山の御影講に参詣する行者です」と名乗ったところ、すぐに泊めてくれた。御影供(日蓮宗では御影講)とは、宗派の開祖の肖像の前で供養をする法事のことである。

二日、本村(城根町内らしいが不明)の常禅院という山伏宅に笈をあずけて托鉢してから、林昌院という別の山伏宅に泊まった。

 三日、在宝塚村(白根町在家塚 現南アルプス市)文殊院という山伏宅に泊まり、甲州名物の「ほうとう」をご馳走になった。うどんと野菜を煮た料理である。ここには俳句の好きな人が多く、また、小林藤衛門、斎藤弥三衛門という人が、弓を習いたいといって来たので、七日まで滞在して楽しくすごした。

 八日、出発しようとしたところ、弓を教えた二人が謝礼の金を持って来た。謝絶したところ、ぜひお礼をしたいという。すると、文殊院が、ちょうど綿入れを仕立てるところなので、それをお贈りしようといい出した。泉光院も、それならお受けするから、身延山の帰りまでに仕立てておいていただきたいと頼んで出発した。上今井村(同郡櫛形町上今井)の威法院という山伏宅に立ち寄ったところ昼食が出て、今夜は泊まるようにいわれた。下作諏訪甘(同郡白根町下今諏訪)の彦兵衛宅に泊まる約束をしているといったが、ぜひにといわれて一泊し、『山伏二字義』の講義をした。ここにも、俳句の好きな人がいて、俳句の交換をする。泊まれないどころか、引っ張りだこになっている。

 九日、威法院に〈邪気加持〉の方法を伝えてから、ニキロぐらい離れた彦兵衛宅で一泊。

十日、小室(南巨摩郡増穂町小室)の日蓮宗妙法寺に参って、梶ケ沢(同郡鰍沢町)の宿場で泊まった。 

十一日、夕方、身延山(久遠寺・身延町)に着き、本堂、祖師堂、鬼子母神堂に参詣。門前転数多し。皆、旅龍屋なり。法印という宿に泊まった。

十二日、早朝身延山を発って、七面山に向かった。まず身延山の奥の院に登って祖師堂に詣で、八キロ下って、早川沿いの道に出る。それからまた七面山まで往復----と書けば簡単だが、門前町から奥の院までの高低差が七百メートル以上ある。さらに同じぐらい下って、千五百メートルほど登って、また下らなくてはならない。帰りは川沿いの楽な道を通っただろうが、門前町の宿に帰った時は夜の八時頃になっていた。

 十三日、身延を発って、下今諏訪村の彦兵衛宅へ行き、そばをご馳走になってから在家塚の文殊院宅へ夕方に着いた。頼んでおいた綿入れができていた。

十四日、滞在。

十五日、藤衛門に祈ってほしいと頼まれて、一日中、仁玉縁を読んだ。

十六日、弥三衛門宅からそばをご馳走したいと申し入れがあったので行き、ここでも祈ってほしいと頼まれた。仁王経を上げたところ遅くなったので、泊めてもらった。゛

 十七日、文殊院、藤衛門に見送られて出発。西野村(南巨摩郡白根町西野)の宝珠院という禅寺に泊まる。 

十八日、托鉢しながら野手島村(同郡八田村野牛島)まで行き、東学院という禅寺泊。白米一升の施行を受けた。

十九日、托鉢して東割村(韮崎市大草町上条東割)まで行くと、病人がいるので加持をしてほしいと頼まれ、上がって加持をすると具合が良くなったので、今晩は泊まって祈ってほしいということになった。 

二十日、出発するつもりだったが、もう一泊して開運の祈念をするように頼まれて滞在。

 二十一日、出発して四割打(同町下条西割)で托鉢し、一軒の家に立ち寄ったところ、昨日加持をした忽衛門の妹の家だった。ぜひ泊まれといわれて一泊。

二十二日、日が暮れかかって宿を探したが、村民がすべて日蓮宗の村だったので、団子村(北巨摩郡双葉町団子新居)まで行き、目の不自由な僧の住む庵に泊めてもらった。

二十三日、本団子村(同上)泊。

二十四日、島村(中巨摩郡敷島町島上条)を通って美岳山(御岳)の方へ向かったが、亀沢村(同町亀沢)で日が暮れた。しかし、忙しい季節なのでどこの農家も、留守番は、五、六歳ばかりの子供か、または百歳ばかりの老人にて、一切らち明かず、ようやく、多左衛門宅に泊めてもらった。

 二十五日、多左衛門宅に笈を預けて、美岳山の金桜大明神(金桜神社ふ甲府市御岳町)に参詣。奥の院にも参るうとしたが、雪が積もっていて登れなかった。また亀沢村泊。

二十六日、托鉢しながら吉沢村(敷島町吉沢)へ行き、ある家で休ませてもらったところ、亀沢村

多左衛門の兄弟の家とわかり、すぐに泊めてくれた。亀沢と吉沢は二キ口も離れていない。

二十七日、出発して山宮村(甲府本山宮町)で宿をもらっておき、托鉢した。戌亥(北西)方向に温泉があるので行ったが、湯がぬるく、しかも入場料が十六文たった。日本国中、温泉一度に十六銅(文)というは未聞、珍しき所なり。と書いている。湯村温泉とは反対の方向で、地図には見当たらない。江戸の銭湯でさえこの時代は六文だから、非常識に高い。

 二十八日、武田信玄の古城を見に日陰村(甲府市日陰)まで行ったが、昼から大雪になって歩けない。和田村(甲府市和田村)で一軒の家によって休ませてもらったが、雪が積もる事三尺(九十センチメートル)いよいよ行くことを得ず、となり「降りこむる雪に無理云う一つ庵」と一句を作ったところ、主人の伊兵衛が「一宿したまへ」と言ってくれた。発句にて、宿もらいたり。

二十九日、昼に和田村を発って日陰村へ行き、托鉢しながら宿を探した。雪が深くて歩けない。ようやく、宗衛門宅に泊めてもらい、蕎麦のご馳走になった。






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最終更新日  2020年05月31日 14時58分19秒
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