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2020年05月31日
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大江戸泉光院旅日記に見る甲斐 (二)

  

 石川英輔氏著 1997 515日 『講談社文庫』講談社刊 一部加筆

 

山伏が見た江戸期庶民の暮らし

 

 甲斐関係記事 抜粋

 

十一月一日(グレ暦十二月一日)雨なのでもう一泊することにしたところ、開運の祈祷を頼まれて仁王経を読んだ。

二日、滞在して托鉢。ようやく、信玄の古城を見に行った。現在の武田神社(甲府市古府中町)である。 

三日、宗衛門の親類の勇衛門という人が昼食に招いてくれたので行くと、親類の人が来ていて、ぜひうちで泊まりなさい、というので、そのまま下積翠寺村(甲府市積翆寺)の善左衛門宅へ行った。

 四日、雨で滞在。祈祷を頼まれたので、仁王経を一日中読んでいた。

五日、そのまま滞在。ここに往み着いてしまった肥後(熊本)出身の六部が話しに来た。今は出家して、庵に住んでいるという。

六日、滞在。信玄の本城(要害山)を見に行く。

七日、下根翠寺を出発する時に、主人の善左衛門が「今年の年宿は、もう決まりましたか」と尋ねた。泉光院が、「まだ決めておりませんが、いずれ、この国で年を越さなくてはならないと思っております」

と答えると、善左衛門は、「それでは、この方へ宿参らせん、私どもで年宿を致しましょう」といってくれた。泉光院は、「お願い申し上げます」と、荒約束しおき、出立す。まだ一カ月近く先のことで、その間に何か起きるかわからないから、〈荒約束〉つまり、仮契約したのである。こうして、今年も年越しの場所は決まった。

 その足で甲府城下へ出た。町数も神社仏閣も多い、賑やかな町だった。三好の山伏宅へ行ったが、二軒は留守、明王院という男は炬燵に入ったまま黙っているだけなので、在家塚の文殊院宅で知り合った王宝院春暁という山伏を神村(甲府市上町)へ訪ねて行って泊まった。

八日は、雨になったので滞在。

九日、七覚山(円楽寺・東八代郡中道町右左白)参詣。姥口村雨上)の兵章司に泊めてもらった。

 十日、滞在して近くの打を托鉢。

十一日、大言になったので、仕方なく滞在。

十二日、托鉢しながら市川(西八代郡市川大門町)へ行く途中、踊り村(東八代郡豊富村大鳥居)泊。

十三日、今朝、珍しき物を食す。輪大根、青菜、芋、そばの粉を入れ、練りまぜたる物なり。また、平四郎は、粟の粥に千切大根の入りたるものを食したり。みな、珍食なり。健康食品である。大塚村(西八代郡三珠町大塚)に泊まったが、宿の方で食事を出してくれるので、一軒に一人だけしか泊められない。こういう風習の土地が、方々にあった。平四郎とは別の家になった。

十四日、平四郎が世話になった三郎兵衛という家へ訪ねて行ったら、もう一泊しなさいといわれて、今度は二人で泊めてもらう。            `

 十五日、高田村(市川大門町高田)まで行ったが、日蓮宗の家ばかりでどこも泊めてくれない。暗くなってから、ようやく泊めてくれる家が見つかった。

十六日、市川の宿(市川大門町)え出て托鉢。ここも日蓮宗の家ばかりで泊まれないので、花輪村(田富町)へ行って貴盛院という禅寺に泊めてもらった。住職が、一吾した僧、なかなかできた人物なので居心地がよく、

二十一日まで滞在して、托鉢に日を送った。

 二十二日、托鉢しながら神村へ行き、また三宝院春暁宅に泊まった。

二十三、二十四日、春暁に〈護身法〉を教えた。謝礼に足袋を一足もらう。

 二十五日、朝気村(甲府市朝気)に来雪という俳入がいるというので訪ねて行ったが不在なので、善光寺(甲府市善光寺町)参詣。横根町泊。

二十六日、托鉢中、後ろから呼ぶ人がいるので戻ると、庄屋宅でぜひ回国の話を聞かせてほしいという。時間を取られて迷惑だが、仕方がないので方々の名所の話をしていると昼食が出て、俳句談義になり、来雪の家を訪ねたことも話した。結局、昼過ぎまでしやべってしまった。参考までに書いておくと、東国では、庄屋のことを名主と呼ぶのだが、泉光院は必ずしも正確に使い分けていない。しかし、本書では、原文のまま書くことにする。この夜は松元(東八代郡石和町松本)の義平宅で泊まった。

 二十七日、夜、朝ともにご馳走になった上にもう一泊せよといわれて、托鉢に出た。石和鵜飼山(遠妙寺・石和町)参詣。夜はほうとうをご馳走になった。何か書いてほしいと頼まれて、「雪よりも 深き情けの あるじかな」と一句。

二十八日、朝食をご馳走になって出発。托鉢していると、平四郎がお説教した。

 「昨日あたりは、庄屋の家で雑談したりして、本気で托鉢しているとは思えません。天気の良い時にせっせと托鉢してこそ、雨や雪の時に休めるのではありませんか。それに、これからあちこちで登山するのには投銭(入山料)がかかります。それも、今から貯めておかないと急には間に合いません。前もって努力するのは欲とはいえないでしょう。天気が良いのに本気で托鉢しないのは、目先だけ楽をしたいだけのわがままというものです」

 もちろん、こんなことをいわれて黙っている泉光院ではないから、すぐに反諭した。

「蓄えておくのはいいが、目先の利益ばかりを考えていれば、必ず後で困ったことが起きる。人は、天から与えられるものによって、天の理に従って生きているのだ。理に逆らって入った金銭は、やはり逆らって出る。だから、身体をかえりみずに、身を粉にして稼ぐ必要はない。天の理にかなうようにしてさえいればよろしい。天運にまかせる気持こそ仏道修行の心なのだ」

 こんなことをいい合いながらも、天気が良いのでせっせと托鉢に励んだ。ところが、昼食の時に、ちょっとの間に米の袋を犬に噛み破られ、せっかく托鉢で蓄えた米が散ってしまった。「ほら、天が与えないものを強いて取っても、すぐに取庶民される」それみたことかといわんばかりのお説教に、感心したのかあきれたのか、平四郎は黙ってしまった。岩下村(山梨市上岩下)金左衛門宅に泊まる。

二十九日、雨になったので滞在。

 十二月一日(グ暦十二月三十日)八幡(大井俣窟八幡神社・山梨市北)に参詣し、市川村泊。

 二日、米がなくなったので、焼団子を食べて出発。水口村で托鉢していたら、男の人が、「今夜は家でお泊りなさい」と声をかけてくれた。一泊。

三日、元水口村泊。

四日、この日も焼団子だけで出発しようとしたところ、隣の家から餅を差し出してくれ、昼食もご馳走してくれる家があった。泉光院は、これ、天、人を捨てず。と書いている。峠(桜峠)を越え、赤柴村(東山梨郡牧町赤芝)で泊まった。この辺は山の中の谷間で、点在する村々も、海抜四百メートル前後の高さにある。

 五日、谷を下って、西保牧村(牧丘町西保)の庵に泊めてもらう。

六日、托鉢しながら中村(牧丘西保中)まで来ると、病人がいるので加持してほしいと頼まれ、枕加持をした。泊まっていくようにいわれて一泊。夕食を御馳走になった。

七日、朝食は、唐牛ビ(とうもろこし)の団子と、ゆでた里芋、輪大根に小豆の餡をまぶした珍しいものだった。この日も、托鉢先で昼食をご馳走になった。倉料村(同町倉料)の弥忽衛門宅に泊まった。ここの主人も禅に凝っている〈異人〉で、夜話の時、いろいろと仏教上の質問を受けた。泉先院が、「自分の身が可愛いということを忘れないと、本当の安心はできません」というと、もっとも也、といわれたり、夕食をご馳走になった。八日、滞在。近くの村々を托鉢し、方々で昼食をご馳走になった。

 九日、信玄の菩提寺である恵林寺(塩山市小屋敷)に参詣してから、東井尻村(同市上井尻)の仁衛門宅に泊まる。

十日、大雪になったので、やかをえず滞在。この家は、茶を用いることを禁ぜり。不思議のこと也、何か願いごとがあって、茶断ちしていたのだろうか。

十一日、晴れたが、もう一泊するようにすすめられ、村内を托鉢。

十二日、塩山(塩山向岳寺・同市上於曽)に参ってから、粟生野村(同市粟生野)泊。

 十三日、裂石山(裂石山雲蜂寺・同市裂石)参詣のために谷間を行くと、萩原(同市上萩原)に番所があった。この道は、甲州街道を通らずに柳沢峠を通って江戸へ出る間道なので、その警備のためだろう。萩原泊。

十四日、中萩原(同市中萩原)泊。

十五、十六日、牛尾村(同市牛奥)泊。

十七日、西の原村(同市西野原)泊。

十八日、菱村(東山梨郡勝沼町菱山)泊。週日の冬晴れが続き、もうすぐ正月なので、泉光院も毎日熱心に托鉢しながら歩いている。

十九日、泊めてくれる家がなく、また菱村の富衛門宅に泊まった。

二十日、甲州街道の勝沼の宿(同町)へ出て、中尾村(同町中尾)泊。

二十一日、甲斐一の宮(浅間神社、東八代郡一宮町一ノ宮)に参詣して、門前の茶屋泊。

二十二日、滞在して、近くの村々を托鉢。士人に望まれ、「何かなと子をいたわりつ村時雨」と一句。

二十三日、日陰村へ行って宗衛門宅に泊まる。

 二十四日、下積翠寺、善左衛門宅ヘ、年宿として行く。主人の善左衛門も待ちかねていた様子で、はなはだ、つごう良し、ししかも、十一月はじめに泊まった時、地元の〈堂頭奉納俳諧発句寄せ〉に応募するように誘われて、おしゃべりしながら片手間に書きつけた句が、千句のうち、三番と十二番に入選していた。その褒美(賞品)が来ているといって、善右衛門の息子が持って来た。それから泉光院は、俳人としてもてはやされた。(但し句は略す)というのであるから、あまり自信作ではなかったこも知れない。

神仏に奉納するという形で、大勢の人から俳句を集めるこういう催しが、山村でもかなり盛んだったことがわかる。日本では万葉の侍代から全国各地にあらゆる階級の詩人がいたが、俳句というかんたんな詩形のおかげで、江戸時代には庶民の底辺に近いところにまで広がっていた。こんな国は、世界でも珍しいのではなかろうか。

 二十五日、洗濯。二十六、二十七、二十八、二十九日、毎日、障子の張り加えなどをして、正月の支度に忙しい家人の手伝いをしてすごした。

 三十日、昨夜より大雨。今朝晴れる。歳暮一句、

耳順歳暮夢 終夜耳寒梅 塵世浮雲境 東西唯徘徊

六十路経し 闇路ほのかに 除夜の月

深更まで、年を惜しみて一句。

   静かさに 除夜の更くるを 惜しみけり

この句にて、留筆。

 

文化十三丙子年元日(グレゴリオ暦一八ー六年一月二十九日)

 

故郷の佐土原を出てから、四度目の正月を甲斐国下積翠寺村で迎えた。ここでは、元日の朝の七ツ、つまり明六ツの一刻前にそばを、儀式に食し、それからすぐに鎮守へ行って御幣をめいめいに捧げてから、雑煮を祝う習慣だったと書いている。この季節の明六ツは、申府では六時十分頃なので、七ツといえばまだ四時頃で真っ暗だ。親類や、近所の人々が年礼、つまりお年始に来た時も、最初はそばを出して、後で雑煮を出す習慣だと、泉光院は細かく観察して書いている。大晦日の最後の食事として年越し蕎麦を食べるのと、新年の最初の蕎麦を食べるのは、もともと一続きの風習だったらしい。

 二日、五人組の掟を写し始める 、と書いているが、自分の参考のためか、頼まれたのかはわからない。夕飯は名主の善右衛門宅に招かれた。ここも、そばだった。

三日、主人が親戚を招いてご馳走したが、これもそば切也。

四日、肥後熊本出身の善明」いう人の庵に招かれた。十一月初めに滞在したととき訪ねてきた人である。それからかへ近所へ年礼に廻り、お札を贈物として配った。宇衛門宅では、雑煮を振る舞ってくれた。この辺の雑煮は、餅に大根切り干しを入るる。夕食は、市之丞宅でご馳走になった。ここは、そばの次に飯が出た。

五、六日、天気が良く、何事もなく過ぎた。

 七日、厄除けの祈念と安産の祈祷を頼まれて、終日読経。

八日、名主宅で新春の祈祷を頼まれて、仁玉経を五回上げた。

九日、家で例の掟を書写。

十日、日陰村の宇兵衛宅へ行って読経する。

十一日、西という家で、厄除けのお祈り。

十二日、市兵衛宅で祈祷。引っ張りだこである。

十三目、村々で、道祖神を祭る行事を見る。

十四日、昨日の続き で、獅子舞が村中を廻る。

 十五日、甲府へ〈道祖神祭礼俄〉を見物にいった。しめ縄の竿を町々に飾りつけ、俄狂言をしている。歌舞伎のように舞台装置を作り、最後は俄、つまりおちをつけて面白がらせるようになっているのだ。六ヵ所でやっていたが、いちばん面白かったのは、伊勢の宮廻り、合の山(内宮と外宮の間の山)の仕立てだった。

 町の三丁ほどの間に、内宮、外宮、天の岩戸などをこしらえてある。天の岩戸は、周囲をかこって真っ暗にした所を二十五、六メートルも歩き、いささか緊張気味になって通り抜けると、人家の裏の畑の何もない所へ出て大笑いになる。内宮は、飾り立てた中にさつま芋を三宝に盛った飾りかおり、外宮では簾のように藁むしろがかけてある。合の山では、女装した男が赤前垂れで三味線をひき、ささらを鴫らしている茶屋があり、参詣の人を引き入れて、茶、菓子、酒、吸い物などを振る舞っていた。伊勢の合の山には、こういう恰好で伊勢節を唄う女性の大道芸人がいて、全国的に有名だったのである。また、築山や泉水の形を作った場所もあったが、植木、手洗鉢、石などは、裸の男の体に着色してその形にしたものだ。まだ寒いのに、さぞ大変だろう。ほかにも、見せ物、作り物が多かった。夕方帰って休息。

 十六日、名主宅で、そばをご馳走してくれた。去年の暮に泉光院が張り替えた障子の仕上がりを、平四郎がつくづく眺めて、「神の接ぎ方があまり上手ではありませんな」と批評した。例によって直ぐやりかえす。「本職ではないのだから、破れないように継げばよろしい。私が本気で考えているのは、回国中、夜も昼もただ厳粛に生きる爲の工夫だけで、紙の接ぎ方などどうでもいい」「そうですか」

 十七日、〈日待団子〉を一升枡に入れて、床の間に上げた。日待というのは、前夜から寝ずに日の出を待つ行事だから、その時に団子を食べる習慣があった。

十八日、直蔵宅で祈祷。

十九日、家で祈祷。

二十日、初灸治。家族全部がお灸をした。

二十一日、文助宅で祈祷。

二十二日、八衛門宅で祈祷。夕方、霰が降った。

二十三日、日陰村の宇衛門宅で、出発を祝うご馳走が出た。

二十四日、善左衛門に、屏風に何か書いてほしいと頼まれて、唐詩を書く。

二十五日、出発準備。のどかな年宿の滞在も終わりに近づいた。

 二十六日、今日は出発の予定だったが、善左衛門一家も近所の人々までも名残を惜しみ、ぜひ明日まで滞在してほしいというので、もう一日滞在した。こういうやさしい人の多い土地だから、肥後の善明のように、この地に往み着いてしまう人もあったのだろう。

 二十七日、善明も、日陰村の宇衛門も、ぜひもう一日いてくれと、無理に申さるれど、出立と定めたれば立つ。皆々、途中まで見送る。宿の老母、別して別れを惜しめリ、一ヵ月の開、家族のようにして暮らしたが、もう、二度と会うことはない。例によって淡々とした記述だけだが、ここも老母とは涙ながらの別れだったと思う。「香にそみし 袖たちがたし 花の宿」と、別れの一句を残し、昨年泊めてもらった松元の茂左衛門宅へ行って泊まる。昨年十一月二十六日の日記では、義平宅となっている。勘違いだろう。もう、雪は溶けて、春霞の季節になっていた。

 二十八日、昨年泊めてもらった、岩下村の金左衛門宅に泊まり、夜おそくまでおしゃべりをする。

二十九日、雨風が強くなったので、滞在。

三十日、去年世話になった一の宮村の言兵衛宅に泊まる。そばをご馳走になった。

 二月一日(グレゴリオ暦一八一六年二月二十八日) 滞在して、国分寺(東八代郡一宮町)参詣。古兵衛の嬢さんが、年柄悪きとて、年取りの祝い雑煮などあり。厄年の厄払いに雑煮を食べる風習があったようだ。親類や近所から、祝いの俳句が届いたので、泉光院も「若餅や 去年の鏡に また重ね」と一句。上手下手はともかく、庶民が何かにつけて句をやりとりする風流な習慣は、近畿地方だけではなかったのである。

 二目、滞在。昨年知り合った桑里という老人が、別れの歌を贈ってくれた。一の宮につとめる掃部(かもん)という人と近づきになった。この人は、『四書字引』の音声についての著作のある学者で、江戸林氏の改めありたるよし。昌平坂学問所で検閲を受け、正式の書籍として刊行したのだから、中途半端な学問ではない。

 《註》掃部について

 古屋蜂城(ふるやほうじょう)17651852 88歳 江戸時代中期~後期の漢学者・書家。

 加賀美光章に学び、寛政元年蜂城塾を開いた。本姓は志村希真。通称は専蔵。

 著作『四書字引捷径(しょうけい)』

 

 三日、中尾村雨町中尾)泊。途中、桑里宅に寄り、「梅咲いて 散り行く歌を 別れかな」を贈った。   

四日、柏尾山(大善寺・東山梨郡勝沼町勝沼)参詣。鶴瀬(同郡大和村鶴瀬)の甲州番所を越えて、水の田村泊。

五日、昼過ぎ、山中を四キロ登って天目山(大和村木賊)に参詣後、下山して田野村泊。

六日、田野には武田勝頼切腹の場所に徳川家康が建てた天童山景徳院があるので、参詣し、大いなる峠笹子峠を越えた。今は、鉄道や道路ともにトンネルになっているが、泉光院が曲がりくねった旧道である。白野原泊。

 七日、甲州街道を江戸へ向かい、猿橋を渡った。日記には、八日となっているが、この日の晩に泊まる綱の上村は猿橋よりずっと東側なので、実際は七日に泊まったのだろう。綱の上村(大月市梁川町綱の上)まで来て泊まるうとしたが、どこも泊めてくれない。庄屋宅へ行って頼んだが、差し宿はでき申さず、ここでは斡旋できない、つまり、村民に強制できないといって相手にしてくれない。困っていると、例のように向こうから声をかけて泊めてくれる人がいたので、かたじけなく、一宿もらい出す。五兵衛宅。日本国中、ほぼ均一の割合で親切な人が分布していたようだ。

八日、板橋(神奈川県津久井郡佃模湖町小原の西はずれ)泊。

 九日、板橋を出て小原まで来ると、甲斐と相模の国境の番所があった……と書いているが、これは泉光院の勘違いで、甲斐と相模(相州・神奈川県)の堺(山梨・神奈川県境)は六キロほど西の上野原で、すでに通り過ぎた。ここは相模と武蔵(武州・東京と、埼玉、神奈川県の一部)の境なのである。小仏峠にさしかかったところ、春の大雪になって、とても越せない。仕方なく板橋に戻った。

 十日、言が深くて峠を越すのはむずかしいと宿の人にいわれたが、先を急ぐので強引に越える。峠の頂上には、相州と武州の境杭があった。現在の甲州街道は、小仏峠より二キロほど南にある大垂水峠が神奈川県と東京都の境になっているが、泉光院たちは、もちろん旧道を歩いて越えた。駒木(八王子圭裏高尾町駒木野)まで下ると江戸からの番所、つまり幕府の番所があったが、手形出すに及ばず。日野(日野市)泊。

十一日、武蔵国分寺(国分寺市酉元町)と府中の入所明神(大国魂神社府中市府中町)に詣で、石原(調布市上石原・下石原)まで行って泊まった。

 十二日、石原を発って、江戸新宿というに入り込み、青山、麻布というを通り、三田小山とたずね、御屋敷へ昼すぎ着。ただちに、一番長屋二階に召しおかる。ついに、江戸の三田小山町(港区三田一丁目)にあった主君の江戸屋敷(上屋敷)に着いた。泉光院は、総本山のある京都はよく知っているが、江戸ははじめてらしいから、世界最大の都会の複雑な道筋を人に尋ねながらたどり着き、参観で江戸に来る上級武士が滞在する宿舎に通されたのであろう。

 

日記はまだまだ続くが、山梨県分の記載は終わった。石川英輔氏のおかげで山梨県の行事や風習それに優しく親切な人柄にふれることができた。この書が有ることを山梨県の人々は殆ど知らないと思われる。

 

 






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最終更新日  2020年05月31日 14時59分34秒
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