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(豊臣秀吉) 二度にわたる朝鮮出兵
大系 日本の歴史 1988・11・20 朝尾直弘氏著 小学館 一部加筆
天正一五年(1587)五月に九州平定を終えた秀吉は、対馬の領主宗義調・義智父子にたいして朝鮮国王を日本に服属せしめるように命じたが、そもそも秀吉は対馬と朝鮮との関係を誤解していた。というより、基本的に理解していなかったというべきであろう。 対馬はその地理的条件に制約されて耕地がほとんどなく、米をはじめとして多くの穀物・物資を朝鮮からの輸入に依存していた。したがって、朝鮮側からすれば宗氏を臣従するものとみなしていたのであり、右のような秀吉の命をうけることは、宗氏にとっては板ばさみの状況におちいることを意味した。宗氏とすればまさに対応に苦慮するばかりだったのである。 しかし、対朝鮮通交の諸権益を失うことは、みずからの存立の基盤をほりくずすことになってしまう。 宗氏はいろいろと手をつくして交渉をかさねた末に、秀吉の日本統合を祝う使者を朝鮮から日本へ送りこむことに成功したのであった。 天正一八年一一月、聚楽第に来た朝鮮国王の使節は秀吉の国内統合にたいする賀を述べ、隣交を修める趣旨の国書を持参した。それは朝鮮国王の日本への服属をもとめていた秀吉の意図とはかけはなれていたのだが、秀吉はその間のからくりを知らずに満足し、答書において入貢を賞し、明国遠征の道案内をする(「仮道人明」)ように命じた。使節は答書の内容を見ておどろき抗議したが容れられず、宗氏は朝鮮側を説得しようとつとめた。 一方朝鮮が明征服の先導役をつとめると思いこんだ秀吉は、天正一九年一〇月、肥前名護屋において城普請をはじめ、ここを拠点として明征服の準備をすすめた。そして翌天正二〇年のはじめ、秀吉は名護屋にあつめた一六万の兵力を九つに分け、それぞれ六か月分の食糧をととのえさせ、準備ができしだい三月はじめから順次渡海させた。 やがて釜山に上陸した第一軍(宗義智・小西行長ら一万数千人)は、四月一二日から一四日にかけて釜山城ついで東条城を攻めおとし、朝鮮侵略の戦いが開始された。おくれて釜山に上陸した第二軍(加藤清正・鍋高直茂ら二百数千人)は四月二八日に第一軍に忠州で合流した。 李朝政府は中位を派遣して志州で日本軍の北上をくいとめようとしたが果たさず、朝鮮軍は鉄砲で武装した日本車に撃破され、五月三日には宮廷のあった漢城(ソウル)が陥落した。陥落前にのがれていた朝鮮国王は都を平壌(ピヨンヤン)に移し、明の援軍を仰いで回復につとめようとした。 こうした朝鮮側のもろさの背景としては、鉄砲で武装した日本軍と鉄砲をもたない朝鮮軍の軍事力の差をあげることができようが、それにしてもほとんど抵抗らしい抵抗もせずに全土を蹂躙されてしまった原因の根本には、季朝支配体制の矛盾、すなわち当時の朝鮮政府内部における分裂、日本にたいする対応のおくれ、さらには一部の腐敗した官僚層からの民心の離反があったといえよう。
季朝の内情
日本軍の侵入以前から、李朝政府も日本側の動きに神経をとがらせ、朝鮮南部の忠清・全羅・慶尚三道を巡察させ、城の新築・修築を行なってはいたが、民衆の築城を厭う声を目の当たりにした地方官僚たちは、新たな築城政策には批判的、協力的であった。そのために十分な備えをすることができなかったのである。 また、一五九一年(天正一九)二月には李舜臣を全羅左道水軍節度使に任命し、一五九二年春に申砬と李鎰に辺境の軍備を点検するために巡察させていたが、巡察は形式に流れ、あらかじめ辺境に配置しておくべき将軍をいたずらに都にとどめおくなど、危機認識にはあまいところが多かった。 四月一七日、日本軍が釜山をおとしたという知らせが朝鮮国王のもとに届くと、朝鮮政府も臨戦態勢をととのえようとしたが、その間にも各地から敗戦の報があいついだため、政府内部は動揺するばかりであった。ようやくにして率鎧が派遣されることとなるのだが、十分な兵力をあつめることができなかった。 また、中央から李鎰が到着するのを待っていた前線の尚州では、将軍の到着がおくれたことや、大雨と兵糧不足もかさなって、李鎰到着前に兵たちが逃亡してしまい、慶尚道巡察使が夜中じゅう駆け回って数百人をかきあつめたものの、すべて戦闘能力に欠けた農民たちばかりであった。また、尚州の南から来た者が李鎰に日本軍が近くまでせまっていることを伝えたが李鎰はこれを採用せず、逆にこの人物を切り殺してしまった。ために二度とおなじような情報を李鎰のもとにもたらそうとする者がいなくなってしまった。結局、李鎰はなすところなく鳥嶺の要害をも捨て、忠州に逃れた。後方支援のために忠州を守っていたのが申砬であったが、かれもまた李鎰と同様の誤りを犯し、配下の将のいうところを採用せずかえってこれを斬刑に処してしまい、申砬はここで戦死することとなった。 一方、朝鮮国王の都落ちに際しては、漢城の住民たちが国王一行にたいして「自分たちを見捨ててしまうのか」と泣き叫び、王宮は放火されて財宝類は略奪され、さらには戸籍を保管する倉庫が焼き討ちされるといった極度の混乱状況に見まわれる。こうして、多くの民衆たちはもはや頼るべき何ものをも持たないことを悟り、雨中の国王一行の逃避行をながめるばかりであった。
唐・天竺までも
漢城陥落後の戦況を要約すると、まず漢城・平壌を中心とした朝鮮半島北部において日本軍がさらに攻勢に出ようとする、ついでそのようすをつたえ聞いてさらに積極的な政策を打ちだす日本国内の秀吉、そして全羅・忠清・慶尚道やその南部地域における朝鮮側の反撃の開始、この三つの動きがほぼ同時並行的に進行したということができる。やがて、南部地域における反攻が効を奏し、日本側の戦局に重たくのしかかってくるのである。 すなわち、漢城をおとしたのち小西行長はさらに追撃作戦を展開するとともに、朝鮮とのあいだに和議をむすんで明への進軍の協力をもとめた。 六月はじめには小西行長の軍勢は平壌にせまり、同月半ばには平壌城をも陥落させることとなる。また加藤清正らはこのあと分かれて進路を北東の咸鏡道にとり、七月には朝鮮の二人の皇子を捕らえる。朝鮮国王は平壌を去り、さらに北方へのがれて明と境を接する義州に入った。いよいよ明の援軍にたよらざるをえなくなったのであり、明の側もこのころからようやく援軍を送りはじめたのである。 満城陥落の報を聞いた秀吉は、天正二〇年五月一六日、朝鮮半局内に従軍している諸大名にたいして九か条からなる指示をあたえた。この中で秀吉は、逃亡した朝鮮国王を捕らえるよう命じている。国王に知行をあたえ、あくまで明への先導をつとめさせるつもりであった。また、都には秀吉が入るつもりなので、軍勢は郊外に撤収し、百姓・町人を還住させ、兵粕を備蓄するよう指示している。 もともと秀吉は朝鮮八道に諸大名を代官としておき、法度による支配を行なって、朝鮮農民から年貢などを取る、といった日本国内と同様の支配のあり方を構想していた。さらに朝鮮入に日本語を教え、日本的な風俗を強制することも考えていたのである。 まもなく五月一八日、関白秀次にあてた文書の中で、秀次にも来年の出陣を命じ、あわせて空想的な大帝国建設のプランをあきらかにした。そこでは時の後陽成天皇を北京に移してその関白に秀次をつけ、国内は皇子良仁親王か皇弟智仁親王を帝位につけ、関白に羽柴秀保か宇喜多秀家をつけるというのである。同日秀吉の右筆山中長悛が聚楽第の女房にあてた書状によれば、秀吉は寧波にみずからの居所を定めて、天竺までも支配下におさめようとしていたことがうかがえる。そしてこの構想の具体化に気持ちを馳せる秀吉は、自分の渡海準備を急がせるのであった。 この秀吉の構想は、秀次あての文書をつたえた江戸時代の文化人、加賀藩主前田綱紀によって「豊太閤三国処置太早計」と評されたように、のちの感覚でみるとたしかに誇大妄想の感があるが、ここに表わされたかれの世界認識のありかたは、のちにみる日明講和交渉の場においても基本的につらぬかれていたのである。 しかし、戦線を遠くはなれたところからの認識とは別に、現地での事態は別な展開をみせはじめる。 その現実の前には、「直ちに御手前ばかりにて」もみずから渡海する意向を強く示した秀吉も、この六月二日には徳川家康と前田利家の諌止により渡海を中止せざるをえなくなったのである。
義兵・水軍の反攻
漢城陥落の前後から、まず慶尚道・全羅道・忠清道において義兵が組織され、両班の地生層を中心に朝鮮民衆による抵抗運動が高まってきた。両班とは、高級官僚になる資格をもった特権的な身分階層をさす。 慶尚道の両班郭再祐は、一五九二年四月に日本の朝鮮侵略がはじまると、自身の家財道具をことごとく売り払って民兵を募り、五月には全羅道に入ろうとする日本軍を打ち破った。その動きに刺激された全羅道でも、科挙の受験勉強をしていた両班子弟を中心に六月中旬には六千人ほどの義兵が組織された。 七月になると、忠清道公州でも、反政府の言動によって罷免され地元に帰っていた官僚の手で義兵闘争が開始された。このため、南方の補給路確保のために全羅道への侵入をくわだてた小早川隆景も、最終的にはその試みを断念せざるをえなくなった。
海上においては、はじめ戦い半ば放棄していた慶尚道右水使元均が全羅道左水使李瞬臣とともに戦線にたつことになって以来、戦況に変化が生じた。五月はじめ、まず玉浦において、李瞬臣及び全羅道右水使李億祺の率いる総勢八十般あまりからなる水軍が、藤堂高虎の指揮する三十余艘の日本水軍を撃破した。 さらに五月末から七月にかけて、泗川・唐浦・唐項浦・栗浦など巨済島周辺で水軍の戦闘を重ねた。 このうち五月末からはじまった泗川での海戦においてはじめて亀甲船が登場することになった。これは従来の装甲船を改良したもので、船首に設けた竜頭から大砲を撃つことができ、また敵艦に突き当たってこれを撃破することもできた。李舜臣はこの亀甲船を自在に駆使し、七月はじめの閑山島の戦いにおいては、入り江の中に集結した脇坂安治の水軍を海上におびき出し、鶴翼の陣をもって打ち破るなど、作戦面でもきわだったはたらきをみせた。 閑山島の大敗で大船を多数失ったのちは、日本水軍も容易には海上戦ができず、かといって入り江の奥に安住することもできず、引きつづいて行なわれた安骨浦の海戦でもまた大きな打撃をこうむることとなった。秀吉はこののちにおこる海戦の休止指令を出し、釜山浦から巨済島にかけての慶尚道南岸の補給路確保につとめながらも、指示を出すまで日本側から戦いを挑んではならないと命じざるをえなくなったのである。
講和交渉の失敗
朝鮮軍の反攻による戦局の変化に対処するため、天正二〇年(一五九二)八月、侵攻軍の総大将宇喜多秀家は秀吉の上使黒田孝高をくわえ、廃城において軍評定を召集し、朝鮮各道に展開していた武将たちをあつめて、今後明がせまってきたときの対処法について議論した。そこでは、攻勢的に攻めこんでいくという策も、釜山まで撤退するという策もしりぞけられて、当時の前線基地である所載を専守する方針におちつくことになる。しかし、翌文禄二年(一五九三)一一月の平壌の戦いで小西行長が李如松の率いる明の大軍に敗れたことによって、さらに抜本的な政策転換を余儀なくされることになった。 平壌から敗走してようやく漢城にもどった小西勢を見た漢城内の朝鮮民衆はいきおいづき、南下する明・朝鮮軍に内応する動きもみえた。これを恐れた日本軍は、廃城内の朝鮮人男子を殺戮し、「ただ女人のみ死を免る」と朝鮮の正史に記録された。その後、碧蹄の戦いにおける日本軍の勝利など、明・朝鮮車との戦いには一進一退があったが、大局的にはこの敗戦を機に義兵の動きがさらに活発化したこともあって、咸鏡道など北方に展開していた加藤清正や鍋島直茂らも、けっきょく戦線の縮小と後退を余儀なくされ、漢城へ帰還することとなった。 一方、この間、戦争が長期化するにともなって、日本軍の士気も低下する傾向がでてきた。日本人将兵のあいだに食糧不足からくる不安と厭戦気分がひろがりけじめ、逃亡する者の数が黙視しがたいほどになったために、この文禄二年春、秀吉が兵糧の確保・医師の派遣・水夫の帰郷など、対策を厳命していることからも、それはうかがえる。 日本側前線基地名護屋においても、朝鮮半島における苦戦の状況がつたわって不安感が蔓延し、五月、出羽山形の最上義光が国へあてた書状には、朝鮮在陣の日本軍が飯米もなく困窮しているとの情報をつたえ、「あわれあわれ、そのごとくにて、いのちのうちに、いま一ど最上の土をふみ申したく候、水を一はいのみたく候」と記している。名護屋にいる大名ですらこのさまであった。 こうした状況下、日本と明のあいだに講和交渉がはじめられることになる。六月、秀吉から七か条の講和条件が示された。そこには、明の皇女を天皇の妃とすることや、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮の王子のうち一人を人質として日本に渡すことなどが述べられていた。このような内容は日本側が戦争に勝利をおさめたという観点からつくられたもので、秀吉にとっての一方的な内容であり、じっさいの戦局の推移からすれば、とうてい明・朝鮮側に受け入れられるはずのものではなかった。
秀吉の講和七か条
一、明の皇女を迎えてわが皇后とする。 二、勘合貿易を復活する。 三、日・明両国の大臣が誓紙をとりかわす。 四、朝鮮の北部四道と国都を返還する。 五、朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。 六、去年生捕の朝鮮王子二人は故国に帰す。 七、朝鮮の重臣が日本にそむかないとの誓紙を書く。
朝鮮国王はこの講和に反対し、また日本車はこの講和交渉中にもなお朝鮮半島南部に約八万の軍隊を 駐屯しつづけていたにもかかわらず、文縁五年(慶長元=一五九六)九月、明からの講和使節が日本に到 着した。来るはずもない使節が到着した背景には、一刻も早く戦争を終結したい小西行長と、明側の外 交交渉にあたった沈推敬とのあいだの裏取引があった。しかし、大坂における明使引見と饗宴が終わったあと、国書の正確な読み上げによって事のしだいがあきらかとなり、明皇帝が秀吉を日本国王に冊封するとの文面が発覚した。七か条の講和条件を無視された秀吉は激怒し、ふたたび戦争が引き起こされることとなった。 講和交渉までを「文禄の役」、戦争再開後を「慶長の役」とよんでいる。「役」とは、中国の古典にいうところの「国の大事」、とくに戦争をさす言葉であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月31日 15時01分55秒
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