2312625 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年05月31日
XML

『甲州の山旅』「甲州百山」高嶺(たかね 二七七八・八メートル)

 

山村正光(やまむら・まさみつ)

一九二七年山梨県生まれ。一九四〇年、甲府中学(現甲府一高)入学、山岳部に入る。爾来、主に南アルプス全域に足跡を印す。一九四五年、国鉄に入社。一九八五年退職。その間、一度の転勤もなく、四十年間、甲府車掌区在勤の車掌として、中央線、新宿-松本間を約四千回往復。同年、『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)を上梓。現在、朝日カルチャーセンター立川で山登り教室講師、日本山岳公会員。

 

《編集協力》コギト杜《地図編集》中川博樹《地図製作》GEO

初版第一刷発行 一九八九年十月三十日

第三刷発行 一九九〇年四月二十日

発行者 増田義和 発行所 実業之日本杜

 

早川尾根の基点となる山。白峰、甲斐駒、八ヶ岳などの展望台。

 

この山は、甲府盆地から見えず、北巨摩も韮崎以西でないとお目にかかることができない。鳳凰三山が

あまりにも有名なので、いうなれば不遇の山といえるかも知れない。

 それに呼び名においてもなじみがうすい。甲州には、○○嶺という山がいくつかある。有名な大菩薩嶺

を始め、雁坂嶺、唐松尾嶺、束嶺(三本木)、西嶺(ハンゼの頭)などである。しかして、嶺をすべて「レ

イ」と読んでいる。例外として「高嶺」だが、「コウレイ」とは読まない。日本山岳会の機関誌「山岳」第

四年三号(明治四十二年十一月刊)に載っている「白峰山附近明細図」には「高根」と記されている。これだけ顕著な頂であるにもかかわらず『甲斐国志』にも山名が見当たらない。

 

さて、この山だけ登るという登山者は、恐らく皆無であろう。

鳳凰三山から早川尾根を縦走して仙水峠に至る者、あるいはその逆コース。

または広河原から、広河原峠や白鳳峠を経てこれに登り、鳳凰三山を縦走して夜叉神峠におりる者(またはその逆コース)。

最近は、後者のコースを辿るパーティを多く見受けるようになった。

 何故かというと、車の便がいいからである。広河原、夜叉神峠ともに、山からおりたらすぐにバスに乗

ることができる。自家用車を使っても、夜叉神峠目の駐車場に車を置き、広河原までバスを使い、一廻り

して来て峠口の車を回収して帰るわけである。

世の中、なかなかの知恵者がいるものである。仙水峠のコースの場合は、広河原に車を置いて、芦安村営バスに乗り換えて北沢峠からあがればいいわけである。車を二台使って広河原と夜叉神峠に置けば、もっと効率はよくなる。

 さて、鳳凰三山は、南アルプス縦走の入門コースといわれている。いったん稜線に出てしまえば、多少

のアップダウンはあっても、森林限界を抜けているので、高く登ったという満足感も充分ある。それに、

全山花肖岩なので、稜線上は白砂ときている。ハイマツとのコントラストは実に見事である。

 かてて加えて、四囲の眺望は正に絶佳。正面には、野呂川の谷をへだてた南アの盟主北岳。その右に仙

丈岳。さらに甲斐駒ヶ岳の荒々しいピラミッド。さらに右、北巨摩の台地を一手に引き受けた感じの八ヶ岳。そして、奥秩父の金峰山の優美な姿、東に遠く大菩薩の連嶺、南にはひときわ高く富士山。

 こんな眺めに出会ったら登頂の苦労などは一度に吹きとんでしまう。それに、この一帯は南アの中では

山小屋の数も多いときているのだからこたえられない。

 これが高嶺まで歩を進めると、自分が、ついさっき縦走して来た山稜をそっくり眼にすることができる

のだ。あの頂に、自分の汗の一しずくでも落としていることを記憶している者にとっては、感激また新た

なるものがある。

 この高嶺からひと下りすると白鳳峠である。巷間、白鳳渓谷にくだる峠なるがゆえに、白鳳峠であると最近いわれるようになった。ところが事実は大違い。この峠名は、珍しくも、その命名の由来から命名年月日まではっきりしているのだ。

 

 余談になるが、県下には、命名の理由から年月日までわかっている峠は他に一つある。鰍沢から、旧出

頂の茶屋を経て早川町の湯島にくだる源氏山の北の足馴峠である。

 この白鳳峠は、大正十四年七月三日の十時半頃命名された。いやに正確だなあと疑われそうなので、その根拠をご披露申し上げる。

 

大正十丑年六月発行の、甲斐山岳公機関雑誌「山」第二年第二号に、次のような記事が出ている。筆者は、当時の韮崎の白鳳会(現存する日本の社会人山岳今では二番目に古い歴史を侍っている)の常任幹事の柳本徑武氏である。題名は「白鳳峠の開発」。

 

(大正十四年七月)

「三日、午前五時小舎出発、一気に地蔵岳の頂上目がけて駈け登る。(中略)前六時十五分一同頂上に着。お鉢廻りや眺望に二時間余を遊んでアカヌケ沢の頭に向って出発。観音岳との岐れへ「白峯道」第一号を打つ。高嶺から朝の北岳はひとまたぎ出来さう。霧も上らず、朝日を浴びた大樺沢の大雪渓も美しく。傲然と構へた姿はげに南アルプスの重鎮たりである。高嶺を下りきった鞍部。此処へ白鳳峠と命名することにする。『ナンダ白鳳会の白鳳峠か』なぞといはず白峯と鳳凰を連絡する意味より御寛恕に預り度い」

 

少々長い引用になってしまったが、こちらも御寛恕にあずかって、この項を終わりとしたい。

 

       地蔵岳直下、白砂の賽の河原を出発し、ハイマツを抜けると赤抜沢の頭である。

       野呂川の谷一つへだてて大様沢の上の北岳が傲然とかまえ、白鳳峠下まで付きあってくれる。

       西に大きなドーム状に見えるのが目指す高嶺である。途中、崩落箇所があるが、心配することはない。

       高嶺は別名、天狗岳ともいわれ一頭地抜いており、眺望絶佳。

 

 さて、ハイマツの切り明けの三〇〇メートルを急降して白鳳峠におりたつ。すぐに左にくだると、黒い岩屑(熱変成岩)は太陽のカケラと言いふるされている。これをくだり、樹林帯に入る。途中、大ガレの上を通るので要注意。ひたすらくだり続ければ野呂川林道に出て、少し歩けば、アルペンプラサ・広河原となって山旅は終わる。

 

 〈参考タイム〉

賽の河原(一五分)

赤抜沢ノ頭(四〇分)

高嶺(四〇分)

白鳳峠(二時間三〇分)

広河原

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年05月31日 16時20分17秒
コメント(0) | コメントを書く
[歴史 文化 古史料 著名人] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X