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『甲州の山旅』「甲州百山」地蔵岳(じぞうだけ 二七六四メートル)
『甲州の山旅』「甲州百山」
著者(敬称略)
蜂谷 緑(はちや・みどり)
本名、近藤緑。一九三二年、岡山生まれ。文化学院卒。戦中戦後を安曇野に過し、短歌・演劇に興味をもつ。都立小松川高校時代、「祭」により高校演劇コンクール創作劇賞を受賞。以後「悲劇喜劇」誌に戯曲を発表。のちに山に親しむようになり、雑誌「アルプ」に紀行文を書く。日本山岳会会員。最近は山梨県勝沼町に仕事場をもつ夫と共に甲州の山々を歩いている。著書に『常念の見える町』(実業之日本社)、『尾瀬ハイキング』(岩波書店)、『ミズバショウの花いつまでも』(佼成出版社)ほか。
小俣光雄(おまた・みつお)
一九三二年、山梨県北都留郡大鶴村鶴川生まれ。明大仏文科卒。一九五七年、東斐山岳会を創立し、一九七〇年代前半まで、県内でもっともユニークと言われた会の運営に当たった。一九七七年、上野原町内に執筆者を限定した雑誌「雑木林」を発行。同年、写真研究・五入会を創立し、主として町内西原地区の撮影に没頭、一九八七年、個展『西原の人々』をNHK甲府放送局ギャラリーで開催した。上野原町文化財審議会委員。住所・上野原町鶴川一八七~一
山村正光(やまむら・まさみつ)
一九二七年山梨県生まれ。一九四〇年、甲府中学(現甲府一高)入学、山岳部に入る。爾来、主に南アルプス全域に足跡を印す。一九四五年、国鉄に入社。一九八五年退職。その間、一度の転勤もなく、四十年間、甲府車掌区在勤の車掌として、中央線、新宿-松本間を約四千回往復。同年、『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)を上梓。現在、朝日カルチャーセンター立川で山登り教室講師、日本山岳公会員。
《編集協力》コギト杜《地図編集》中川博樹《地図製作》GEO 初版第一刷発行 一九八九年十月三十日 第三刷発行 一九九〇年四月二十日 発行者 増田義和 発行所 実業之日本杜
岩頂の初登単者は果たして誰か、何時の時代か、登山‘者ではウェストンであったが。 鳳凰山の地蔵仏岩と、甲府盆地をはさんで対峙する金峰山五丈岩とはよく対比される。共通しているの は、どちらも花圈岩でできていることである。対照的なのは、前者が大小二つの大岩が手を合わせたよう な尖塔であること。後者はずんぐりとした巨岩であること。お角力さんにたとえれば、ソップ型とアンコ 型とでもいったらよいだろう。 どちらも人気のある山だが、地蔵仏岩の頂頭への一般登山者の登畢はむずかしい。五丈岩の方は比較的 楽に登れるし、上は平らであるところなど、きわだって違っている。 このような山へ、最初にわけ入ったのは誰であろうか。おそらく修験道の人たちだろうと想像できる。 山岳修験の祖は、役小角(行者)といわれている。本県の右左口の七覚山円楽寺は、文武天皇(六九七年 -七〇六年)の御宇、彼が創建したといい、境内には延慶二年(一三〇九)在銘の本人と母の像が安置さ れている。彼は大宝元年(七〇一)にここから富士山に登ったという伝説が残っている。 金峰山は『甲斐国志』によると、雄略天皇の十年(四六七)に里宮の金桜神社が建てられ、頂上の奥宮 には役小角の奉納の鉄杖、鉄剣があると記されている。地蔵仏岩の方はどうかというと、女帝、孝謙天皇 が天平宝字元年(七五七)退位し、奈良法皇と称し、病気治療のため奈良田に転地、八ケ年滞在した。そ の間に登ったのが法王山(鳳凰山)であったとのこと。その他、平安時代、京の朱雀大路の公卿、六ノ宮 の娘で、存。叫卿の妻、都祁登睦が登ったといわれているが、全て伝説の域を出ない。 生前の平賀文男氏の話では、賽の河原に、武田信玄が諏訪攻略中の天文十一年(一五四二)建立の石碑があったという。これはかなり信憑性がありそうである。 また昭和九年七月、地元白鳳会を主力に、山頂調査が行われた。この概要は白鳳会初代会長の小屋忠子 氏が、日本山岳会機関誌「山岳」第三十一年一号(昭和十年発行)に発表している。 発見された径三〇センチの懸仏、古銭などから類推し、奈良時代から平安初期の間に密教の行者によって開山されたと判断している。 この頂に登山者として初登頂したのは、イギリスの宣教師、ウォルター・ウエストン師であることは、つとに知られている。時に明治三十七年七月十四日、単独登畢であった。この状況は、同師著『極東の遊歩場』や日本山岳会機関誌「山岳」第五年二号(明治四十三年発行)にくわしい。 第二登は、野尻抱影先生の義弟、大島隣三、同級生の内藤安城(ともに甲府中学校生徒)とが明治四十三年の夏に登った(昭和九年発行「山小屋」四月号参照)。 ついで第三登は、カナダ人のH・E・ドーントら三人が、大正六年十月十四日に登っていることが「山岳」第十丑年二号(大正九年発行)に出ている。 女性では、昭和八年、英国領事館員のC・H・アーチャー氏と一緒に登ったマクレン夫人を嚆矢とする。 続いて日本人では、翌九年七月七日、南嶺会の鈴木喜太郎氏をリーダーにした男性五人、女性は三井松子氏ほか二人、計八名全員が登頂を成功させている。
この記録は、雑誌「山小屋」昭和九年十月号に詳細が出ているが、岩場の東北面のルート図や登単状況 を鈴木氏が書いている。 注目すべきは、A高点の凹所に地蔵さんが二体、B高点には五銭白銅貨二枚、一銭銅貨が十枚、計二十銭の宴銭があがっていたこと。 昭和三年八月、この頂に立った神戸の三谷慶三氏の名刺と手記、賽銭が、岩凹の砂の下に埋められていたことを記していることである。 お金はともかく、何時、誰が、地蔵さん二体をこの尖頭に安置したのか。初登頂者、ウエストン師は気 がつかなかったのか。今となっては謎の一言につきる。 ウエストン師は同行の人夫から、初登頂者として、麓に地蔵さんを祀った祠を建てて神主になったらどうかとすすめられたという。牧師をして神主になれとは、これまた楽しい話ではないか。師は「疑う余地 のない誠意から出たものだったが、私の心を強く打った」と書き残している。 さて、私は、鳳凰山地蔵仏岩と書いて地蔵岳とは言っていない。これにはすこしばかり理由がある。 現在では、地蔵仏岩のあるピークを地蔵岳、左に順に赤抜沢の頭、三角点のある観音岳、双耳の薬師岳、ついで砂払と五つのピークを総称して鳳凰三山といっている。 ところがこれに異議をとなえる論説も根強く残っている。鳳凰山はあくまで鳳凰山であって、決して地蔵岳ではないというのだ。 敢えて私見を述べれば、赤抜沢の頭というのは野呂川側でつけられた山名である。これに、石地蔵のある賽の河原のすぐ上の山なので、これを地蔵岳とすれば、あとは『甲斐国志』の言い分と合致する。どの 論争を調べてみても、赤抜沢の頭の扱いが欠落しているが故に。
* 冬はともかく、無雪期にこの山だけを登る人はほとんどないと思う。 * 鳳凰三山の縦走の途次、立ち寄るパターンが多い。そして、この尖塔は割愛して、基部を一まわりして次のピークを目指す。 * かつては御座石鉱泉から燕頭を越える尾根コース、青木鉱泉からのドンドコ沢のコースから登っていた。
最近では車を利用する登山者が多いので、それなりのプランを設定してみた。 車を夜叉神峠東口の駐車場に置いて、夜叉神峠、杖立峠を経て南部室小屋または薬師岳小屋に泊まる。翌朝、薬師岳、観音岳、赤抜沢の頭(ここに荷を置いて地蔵岳を一周してくる)、高嶺、白鳳峠を経て広河原におりる。ここからバスで夜叉神峠口にて下車、車を回収して帰る。
〈参考タイム〉 夜叉神峠東口(一時間一〇分) 夜叉神峠(五時間) 南部室小屋(二時間) 薬師岳小屋(二時間) 赤抜沢の頭〈地蔵岳往復一時間〉(一時間二〇分) 白鳳峠(二時間三〇分) 広河原
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最終更新日
2020年05月31日 16時21分12秒
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