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2020年05月31日
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明智光秀略年譜

 

大永8年(1528)

 光秀が生まれたとされる。(異説あり)

 

天文22年 (1553)

 光秀26歳にて妻木煕子19歳と結婚す。

 

弘治2年 (1556)

 斎藤義龍により明智城落城。光秀は一族と共に脱出。(29歳)

 

永禄9年 (1566)

 足利義秋(義昭)が朝倉氏を頼り一東谷へ亡命。

光秀、細川藤孝の仲介で家臣となる。(39歳)

 

永禄10年(1567)

 足利義昭と織田信長の仲介役を果たす。(40歳)

 

永禄11年(1568)

 朝倉家を辞し、立政寺にて義昭と信長との会見に立会う。(41歳)

 

永禄12年(1569)

 三好三人衆、京都本間寺の足利義昭を襲撃するも、光秀らが撃退する。

織田信長より羽柴秀吉とともに二条の御所の普請を命じられ、京の奉行に任じられる。(42歳)

 

元亀2年(1571)

 比叡山焼き討ちに参加。戦後、積年の功により近江志賀郡を与えられる。(44歳)

 

元亀3年(1572)

 坂本城の築城開始。3月滋賀郡北部の木戸・田中城を攻略す。

 4月柴田勝家らと共に摂津・河内に転戦する。

7月小谷城攻めに 参加。(45歳)

 

天正元年(1573)

 本願寺勢が籠る。今堅田城を攻略す。(46森)

 

天正2年(1574)

 1月11日、岐阜での年賀を終え、大和郡山城へ入る。

2月1日、東美濃へ進出して来た武田勝頼を討つべく信長に従い出陣。

信長 の命により、筒井家、細川家と縁組する。

織田信澄を娘婿に迎えたのも同時期である。(47森)

 

天正3年(1575)

 6月丹波攻略の命を受ける。

7月3日惟任日向守に任ぜられる。

 越前攻めが丹波攻略より優先され、越前国制圧後、

羽柴秀吉と共に先鋒となり、加賀国へ攻め込む。(48歳)

 

天正4年(1576)

 1月、黒井城攻めの最中に八上城主波多野秀治の離反により

丹波から撤退し坂本へ引き上げる。

2月~3月、織田家に味方した丹波の国人衆に援軍を送る。

4月、石山本願寺攻めに従軍。   」

5月11日、天王寺の陣所にて病に倒れる。

11月7日、光秀、』平癒後に妻熈子病没する。(享年48歳と伝わる)

(光秀、49歳)

 

天正5年(1579)

 雑賀攻め、松永久秀を攻め、丹波亀山城攻め、籾井城攻めに従軍。(52歳)

 

天正6年(1580)

 上城攻め、本願寺攻め、園部城攻め、神古城攻め、荒木村重攻め、

黒井城攻めに従軍。(51歳)

 

天正7年(1581)

 8月、八上城の波多野兄弟が降伏し京へ送るが約束に反して信長が兄弟を殺すという。(52歳)

 

天正8年(1582)

丹波攻略の恩賞として丹波29万石を加増され近江志賀と併せて34万石となる。(53識)

 

天正9年

2月28日、京で馬揃えが行われ、正親町天皇も見物されたが、光秀が総指揮を務めた。

8月1日、二回目の馬揃えか行われた。

(馬揃えは天皇を威嚇し譲位を迫るものであったとされる)。(54歳)

 

天正10年

5月17日、家康饗応役を免じられ、中国地方出陣を命じられる。

5月26日、中国出陣のため、近江坂本城から丹波亀山城に入る。

5月27日、愛宕山参詣、籤を3度引く。

5月28日、愛宕威徳院で百韻連歌に参加。

6月1日、一万三千の兵を率い亀山城を出発。

6月2日、未明、本能寺を奇襲し信長を討ち、次いで二条御所にて信恵を討つ。

近江に向け進軍するも山岡景隆が抵抗し瀬田唐橋を焼き落としたため、坂本城に入る。

6月3日、瀬田唐橋修復を待つ。

6月4日、待機。この頃、征夷大将軍に任ぜられたとも伝わる。

6月5日、安土城入城、佐和山城・長浜城を攻め占拠。

6月7日、勅使古田兼和と安土城で会見し、誠仁親王からの進物を受領。

6月8日、坂本城へ帰城。

6月9日京に入り、支配体制を整える。細川父子に書状送るも返事なし。

下鳥羽に出陣、南殿寺に本陣を置く。

洞ケ峠に陣を布き筒井順慶の来援を待つ。

6月10日、順慶に再度、出陣要請するも順慶来会せず。

夜半に、秀吉の動向を知る。

6月11日、再び下鳥羽に本陣を構え、淀城・勝龍寺城の防備を固める。

6月12日、山崎で秀吉軍と対陣。

6月13日、光秀軍一万六千、秀吉軍三万七千が山崎にて決戦、

明智軍敗れて勝龍寺城に撤退。

光秀、近臣と共に深夜に再起をかけて近江方面に逃走する。

が、小栗須で落ち武者狩りに遭い絶命。

6月14日、明智秀満、光秀の敗戦を知り坂本へ退去、一族と共に白刃。(55歳)






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最終更新日  2020年05月31日 23時08分00秒
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