2311137 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年05月31日
XML

明智光秀の娘ガラシャ

特集/明智一族の謎

江蔵 一成氏(えぞう・いっせい)(大分県会員)

『歴史研究』545号・2006・10

  一部加筆 白州ふるさと文庫

 

高柳光寿博士の著書『明智光秀』 (吉川弘文館)によれば、明智光秀には少なくとも三人の娘がいたという。その中で最も有名なのが明智玉すなわち細川伽羅奢(ガラシャ)である。

玉は永禄六年(1563)に現在の福井市東大味町で生まれた。

当時光秀が、一乗谷城主朝倉義景に仕えていたからである。その後光秀は信長に仕え、元亀二年(1571)に近江坂本城主となったので、玉は少女時代をこの地で過ごすことになる。

そして、天正六年(1578)、信長の命により、十五歳で細川忠興へ嫁ぎ、細川氏の居城であった山城国長岡(現在の京都府長岡京市)の勝龍寺城に移る。玉の新婚生活は長岡で営まれたわけである。

天正八年(1580)、細川氏は丹後を平定して宮津(現在の京都府宮津市)に居城を構え、玉は忠興とともに宮津へ移る。

 

そして天正十年(1582)六月二日、玉の父光秀が本能寺の変を起こす。

 

信長を倒した光秀は、当然細川藤孝・忠興父子は自分に味方するものと考えていた。しかし、宮津で本能寺の変の報を聞いた細川父子は、もとどりを払って信長に対する弔意を表し、光秀との義絶を表明する。

あわてた光秀は、六月九日付の覚書を細川氏に送り説得する。

自分が近国を平定した暁には十五郎(光秀嫡子)や与一郎(忠興)に引渡して自分は隠居するつもりである。だから協力して欲しいと。

しかし細川父子は翻意せず、援軍を得られなかった光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、最後は山城国小栗栖で自決する。本能寺の変からわずか十一日後のことである。

 

本能寺の変を境に玉の運命も暗転する。光秀と義絶したことを明らかにするため、玉と忠興も離れねばならなかった。家臣の一人は玉を自害させるよう主張したが、結局家老松井康之の献言により、丹後国味土野(三戸野・現在の京丹後市の一部)に玉は幽閉されることになる。

玉は天正十一年(1583)から天正十二年の二年間を味土野で過ごした。この間に玉と起居をともにしたのが清原佳代という侍女である。この女性は父の影響によりキリスト教を信奉していた。佳代の父は、清原枝賢という高位の公家であったが、永禄六年(1563)にキリスト教に改宗していた。佳代は後に玉に先がけて洗礼を受けマリアと名乗り、玉の受洗を助けることになる。

天正十二年、父の仇である秀吉の許しを得て玉は忠興と復縁し、味土野から大坂の玉造(現在の大阪市中央区玉造付近)にあった忠興の屋敷に佳代とともに移る。

この頃、嫉妬深い忠興は他の男に玉を見られることを嫌い、玉を屋敷に閉じこめたという話が伝わっている。しかし私は疑問に思っている。このような話を伝えるのは、イエズス会宣教師のフロイスであるが、彼自身は直接玉や忠興と親しかったわけではない。玉の悲劇性を強調するために、フロイスが伝聞を潤色した可能性があると私は思う。

むしろ玉白身が他人との接触を嫌い、屋敷に閉じこもったというのが真相であろう。

『関原軍記大成』という古記録に残る玉の言葉はこうだ。

 

「味土野に幽閉された頃卑しい山の民に謀反人の娘と謗られて口惜しく思い自害を考えた。しかし忠興に呼び戻されて年月を送ってしまった。この頃、諸大名の奥方は淀殿(信長の姪)の御前へ参ることが多いが、私自身は謀反人の娘であるこの身を恥じて参らなかった」

 

屋敷に閉じこもる妻を慰めるため、忠興は茶道を通じての友人である高山右近から聞いたキリスト教の話を語って聞かせた。忠興自身はついに入信しなかったが、彼の母もキリシタンであり、まったくキリシタンに無理解であったわけではない。しかし、玉はすぐにキリスト教に入信したわけではない。仏教の教育を受け理知的であった玉は、むしろ最初キリスト教に対して懐疑的であったようだ。

ところが、天正十五年(1587)に秀吉がキリスト教の禁教令を出すと、まるで秀吉の命に逆らうかのように、玉はキリスト教の洗礼を受ける。宣教師たちが日本から退去する前に、洗礼を受けねばならないと決意したのである。洗礼によって玉はガラシャという洗礼名を授かる。ガラシャ(正しくはグレーシア)とは恩寵すなわち神の恵みの意味である。洗礼は侍女である清原佳代(マリア)がセスペデス神父の指導のもとにおこなった。

慶長五年(1600)、石田三成の人質となることを拒んだ玉は、玉造の屋敷で自害した。正確には、家老である小笠原少斎に自らを殺させた。その遺骨はオルガンチノ神父によって堺のキリシタン墓地に葬られたが、後に大坂の崇禅寺に改葬され今日に至る。玉と忠興の三男である忠利は、寛永九年(1632)に肥後五十四万石の大名に封ぜられた。

熊本にガラシャの血筋は残ったのである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年05月31日 23時10分11秒
コメント(0) | コメントを書く
[歴史 文化 古史料 著名人] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X