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2020年05月31日
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明智光秀を懐う

 

特集/明智一族の謎

近藤範夫氏(大阪府会員)

『歴史研究』545号・2006・10

 

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

光秀のファンになったのは最近である。昭和六年私は、父の勤務地樺太(現サハリン)の製紙会社の社宅で生れた。敷香(現ポロナイスク)で中学二年の時に終戦、三年後に日本に帰った。

落ち着いたのは岐阜県中津川市、隣が光秀ゆかりの明智町。今は退職して高槻市に住んでいるが、隣が山崎、光秀最後の地だ、ここに大山崎山荘がある。

梅雨時、庭園の四阿で紫陽花をみながら、光秀の逃避行を思い何時しかファンとなった。戦前の国史で、彼は主君を弑逆した悪人と教わり、ああそうですか、で終っていた。戦後は自由な歴史観から、新たな光秀像が個性豊かに、歴史に文学に登場して来た。彼が出たといわれる恵那地方は、中央アルプス南端の秀峰、恵那山を北に仰ぎ、山裾を覆う豊かな森林が途絶えるあたりから、なだらかな丘陵と沃野が広がり中央に清流明智川を抱く山紫水明の地。詩情豊かな感性を育むには絶好であり、後年歌をよくした彼のセンスはここで芽生えたに違いない。この地には、光秀の母於牧の方の墓があり、毎年五月「光秀まつり」が催され、わが町出身の名将を偲んでいる。

ついでながら、すぐそばの岩村藩からは碩学佐藤一斎が出ている。閑話休題。

通説では光秀は美濃源氏の支族で、幼時に父を失ったため叔父の明智城主、光安入道宗宿に養われ元服して十兵衛光秀と名乗った。宗宿入道は、斎藤道三と子の義竜との合戦で道三とともに敗死するが、その時光秀にわが子光俊と甥の光恵を託し、明智家再興を頼んだ。

ここから光秀一行の流浪がはじまる。光秀三十歳頃のことか、苦しい旅が続いた。妻(細川ガラシヤの生母)は自分の髪を切って金に換えたとか。苦労話もいくつか伝わっている。かくて苦節十年の後、光秀は朝倉家に禄を得、同家に身を寄せていた将軍義昭に仕えることになる。そこで歌人武将の細川藤孝を知り盟友となった。

 

永禄十一年(1568)光秀は藤孝とともに信長と会見、将軍義昭に対する与力を求め、事は成就した。信長は上洛を果たし光秀を家臣に加える。信長は光秀の能力を活用し、光秀もよく仕えた。特に義昭や公家衆との接接に本領を発揮したと、高柳光寿博士の記述にある。

 しかし時とともに、物事は変る。いつしか年下の主君は、更に若くて動きの速い秀吉を重用するようになる。光秀は信長と義昭の間が冷えていく中、自分の立場に微妙なかげりを覚えた。信長の配下で京都を任された最高幹部としての衿持と老いの自覚、焦燥は増していった。光秀は能吏だ。攻略以外にも功績がある、中でも抜群の功績はこれ。

元亀元年(1570)信長は比叡山麓に布陣する。敵対するは、比叡山、浅井朝倉連合軍、琵琶湖周辺の一向宗徒、各地の本願寺門徒、更にこれに呼応して北伊勢長島の一向宗徒が一揆をおこした。

かくて信長生涯の大ピンチとなるが、義昭のはたらきで朝廷より勅諭が下り危機を脱した。だがこの時期、反信長運動をしていた義昭が自ら和平工作に乗り出す筈がない。義昭を説得したのは光秀であろう。光秀にとっては信長も義昭もともに主君、動かざるを得まい。それより真の動機は、彼の信条として比叡山攻撃を阻止したかったが故と考えたい。

これこそ最大の功績である(結局比叡山は焼討されるが)。翌元亀二年光秀は、近江滋賀郡十万石をあたえられ、坂本城を築く。更に十有余年経過。今や光秀は惟任日向守を名乗る三十四万石の大名である。

天正十年(1582)歴史の舞台は京都本能寺へと移る。この時光秀五十五歳(『明智軍記』)突如として天下取りのチャンスが到来した。期せずしてこの時、洛中の信長のもとには数十名の近習のみ、そして畿内に在るは、わが明智軍団一万三千のみの状況となった。光秀の心の奥つきには、もし信長にとって変る時が来れば、人間尊重の世を造りたいとの深い思いがあった。とき至る、しかし慎重な彼は愛宕権現に参り、おみくじを三度もひいて神意をはかる。

 翌五月二十九日同社にて里村紹巴を交え連歌興行を催す。

外は雨、光秀の発句「ときは今あめが下しる五月かな」

の解釈はさまざまだが、光秀ファンとしては、ここはやはり「土岐は今天下を……」と行間を読みたい。六月二日本能寺に突入、信長は自刃する。しかしながら十三日秀吉の果敢な作戦に敗れ山崎を追われる。深夜、反撃の決意を胸に坂本城を目指すが、途中土民の手にかかり手傷をおって自刃した。彼ほどの武将がと。信じられないが、彼も人の子、心身ともに疲労困憊、願いは一つ、一族の待つ坂本城で只々眠りたかった、そこを土民につかれたのだ。

 

私の遠い昔の記憶、終戦の日、時に十四歳。国境から逃れて雨の中を歩き続けた。只々眠りたかった、他に何も思わなかった。光秀の心中や如何に、無念なりや光秀。せめて坂本城を枕に一戦を交え、たとえ鎧袖一触に敗れるとしても、あの猿面冠者に丁咽ふかせてから散らせてやりたかった。

 

【参考文献】

『明智光秀』高柳光寿著/『信長と伊勢伊賀』横山高治著/他

◆筆者紹介=こんどう のりお

 74歳。昭和六年サハリン生まれ、元王子製紙㈱勤務、大阪府高槻市在住。

 






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最終更新日  2020年05月31日 23時11分31秒
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