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明智光秀 桔梗塚の由来
『歴史研究』545号・2006・10 特集/明智一族の謎 清水勝一氏著(愛知県会員)
一部加筆 白州ふるさと文庫
岐阜県内には明智光秀の出生地と言われるところが長山城(可児市瀬田)、明知城(恵那郡明智町)、美濃中洞(山県市中洞)の三ヵ所がある。 それらを決定的に裏付ける資料はないようだが光秀の居城と伝えられる、長山城が出生地の通説として知られている。 その中で、出生他の一つと伝えられる美濃中洞(山県市中洞)には「光秀ゆかりの地」として数々の伝承が語り継がれている。 岐阜市街地より西北へ約二〇km、武儀川沿いに広がる山間の町、美濃中洞と明智光秀とのかかわり合いを「荒深家古文書」・「美濃土岐明智古戦史」・「明智光秀史論(ときは今)」などからその経緯を辿ってみる。 明智光秀の実父は美濃源氏土岐家八代土岐成頼の六男、四郎元頼であると言う。元頼は城田寺館(岐阜市)で中淵の豪族、中淵源左衛門馳かの娘松枝と結ばれ、二人の間に十兵衛(光秀)が生まれた。中淵家の始祖は美濃源氏土岐家二代土岐頼遠と伝えられる名門であった。 土岐頼遠は南北朝争乱期足利尊氏の片腕として京に在ったが、光厳上皇に対する不敬事件を起こし処刑を伝えられたまま美濃中淵に流刑を告げられ土着、中淵源左衛門大夫を名乗った。松枝はその末裔であるという。 十兵衛(光秀)の父土岐元頼は土岐家の内訂により自害するが一子、十兵衛を同族の長山城主明智光綱に頼ることを舅の中洞氏に託し、十兵衛は長山城で元服して明智十兵衛光秀を名乗った。その後、土岐氏の衰退により美濃国は斎藤道三に掌握されるが、斎藤家もまた内肛により道三が子の斎藤義龍に殺される騒動が起こった。 長山城主明智光綱は斎藤道三に与していた関係で斎藤義龍の攻撃を受けて落城する。光秀は明智家再興を託されて長山城から遁れ出奔、諸国に流浪し苦難の末に織田信長に仕えた。 天正十年(1582)六月十三日、本能寺の変後山崎で敗退、影武者となった荒木山城守が小栗須(宇治市)の竹藪を通通過中土民の竹槍に刺されて落命する。遁れた明智光秀は三男乙寿丸と従臣中洞又五郎を供に先ず大徳寺に入り味方の最期を見届け、誕生地美濃中洞に帰り隠棲した。 成長した乙寿丸の加冠には荒木山城守行信の忠誠に深く感銘、この事実を子孫に残すべく荒深吉兵衛光頼を名乗らせ、光秀自らも荒深小五郎と改めたと言う。 慶長五年(1600)関ケ原合戦に徳川家康に加勢すべく一族を率いて出陣するも同年九月十五目、根尾川の増水に流されて水死する。光秀七十五歳であった。その遺骸は持ち帰られ当時武芸谷と呼ばれた山峡の地、美濃中洞に葬られた。そこには明智光秀を葬ったと言う苔むした五輪塔があり「桔梗塚」と呼ばれている。傍らの碑文にも山崎で敗退後影武者を仕立てて自らは故里に隠れ住んだことが刻まれている。また、光秀の母、松枝が仏門に帰依し、月峯宗桂尼と称し土岐家由縁者の菩提を弔うため庵を建立した。 「庵の庭」の旧跡や「行徳岩」などの光秀に献わる伝承地があり、光秀の位牌も荒深一族によって護られている。美濃中洞の地続き、富永には本能寺の変で二条城攻撃の先鋒を務め討死した義弟、明智(恩田)孫十郎直経の墓碑がある。 美濃中洞の西隣、谷口(関市谷口)には、明智光秀の重臣斎藤俊三の娘お福(春日局)と夫稲葉正或の閑居地跡もある。斎藤家は代々土岐氏の守護代を務めた家柄で谷口には斉藤家ゆかりの名刹汾陽寺があり、お福もしばしば参詣したと伝えられている。 稲葉正或は小早川秀秋に仕えていたが慶長六年(I601)小早川家を辞し、弟の改田(開田)孫六清常の住む谷口にお福と供に閑居したことは知られている。 更に、武儀川を挟んだ古城山(標高四〇七m)には、美濃一円に勢力を張っていた美濃源氏土岐氏一族の居城大桑城があった。 土岐氏と明智氏の関係は遠祖を辿れば同族である。大桑城も第十三代美濃国守護土岐頼芸(よりあき)が居城し、斎藤道三に焼討ちされ廃城となるまで二百有余年間土岐一族が居城したところである。 美濃武儀谷に伝えられる明智光秀や一族の伝承は時の権力者の目を逃れ生き延びるために長い苦しみの道を歩き通した。 ここに美濃中洞に伝わる明智光秀の桔梗塚伝承も、その苦難の道に思いを馳せると、憐みを感ずるものがあるが、四百二十年余を経た今も郷土の人々の心の中に、身近に感じる即由が分かる気がする。
◆筆者紹介=しみず かついち 名古屋市西区在住。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月31日 23時12分29秒
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