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小栗栖(オグルス)の謎と明智一族
『歴史研究』545号・2006・10 特集/明智一族の謎 鈴木毅一郎氏著(東京都会員) 一部加筆 白州ふるさと文庫
明智一族の謎を語るに当たり避けて通れないのが光秀生存説だと思います。光秀の死には極めて不可解な部分が多いのです。 まず光秀は、羽柴秀吉との山崎の合戦に敗れ、近江坂本城を目指して落ちる途中、京都郊外の小栗栖の竹薮で落武者狩りに遭って絶命したと言います。 ですが光秀は合戦に敗れすぐに落ちた訳ではないのです。一旦、天王山から程近い勝竜寺城に逃げ込み、夜を待って城より脱出しているのです。 光秀の脱出は城を包囲する羽柴方も気付きませんでした。とすれば農民らが光秀を殺す事など果たして出来るのでしょうか? 農民らは光秀がいつ城を脱出し、何処を通って逃げるかなど予想もつかないと思います。まして当日は雨。更に竹薮の中は漆黒の闇だった筈で、そのような状況で農民らが光刄を判別出来るか疑問です。 また、家臣の溝尾茂朝が討たれた光秀の首を山中に埋めたと言うのも不可解です。普通なら主君の首を持ち帰りこそすれ埋めると言う事はしません。 そして光秀と行動を供にしたとされる家臣は悉く比叡山付近まで逃げ延びています。斉藤利三が捕らえられたのは近江堅田ですし、溝尾茂明は坂本城に入っています。また光秀と共に死んだとされる比田則家・進士貞連の二人に至ってはのちに細川家の家臣となっています。主君が死んだのに家臣だけ生き延びたと言うのは信じられません。 従ってここは光秀も比叡山までは逃げ延びたのではないでしょうか。となれば溝尾茂朝が光秀の首を持ち帰らなかった事も合点がいきます。光秀が生き延びていたならその首を持ち帰る事など出来る筈もないのですから。 とすると有名な光秀=天海説が浮上してきます。天海とは、徳川家康の晩年に仕えた僧、南光坊天海の事で家康の信任厚く[黒衣の宰相]と呼ばれた人物です。彼の前半生は光秀同様謎に包まれています。光秀と年齢もほぼ同じであり、日光東照宮の陽明門の梵鐘に明智家の家紋である桔梗紋を施したり、いろは坂の高みを明智平と名付けたりと、まるで自分が光秀だと言わんばかりの行動をしています。このあたりが光秀=天海の所以のようです。 もし光秀が天海だとしたら家康が優遇したのも頷けます。 家康としたら自分の妻子を殺害するよう命じた信長を憎んでいた筈で、その信長を倒してくれたのが光秀なのですから。 では、光秀以外に生き延びた明智一族はいなかったのでしょうか? 実は勧修寺晴豊と言う人物が『晴豊記』の中で非常に興味深い記述を残しています。何と、そこには晴豊か明智弥平次の妻子を匿ったと言う事が綴られているのです。
弥平次とは光秀の女婿の明智秀満の事で、更に光秀が死んだとされる小来栖は、勧修寺晴豊の領地であったと言います。弥平次の妻子を匿った件と言い、光秀の小来栖での死亡説と言い、晴豊は何か本能寺に関する重大な秘密を知っていたのではないのでしょうか。
そしてこの匿われた弥平次の子ですが、名を三宅藤兵衛重則と言い、後に寺沢氏に仕え、富岡城代として天草地方を統括していた事が確認されています。 次に光秀の嫡男、光慶ですが、ルイス・フロイスの書状には 「光秀の二人の子供は非常に上品でョーロツパの王子のようだった。彼らは坂本落城の際死んだと言われているが、逃げたとも言われる」 と曖昧な表現をしています。
実は千葉県市原市にはこの光慶の墓が存在するのです。しかも房総の地は光秀の妻の実家である妻木氏が家康より所領を与えられており、逃げ延びた光慶が妻木氏に庇護されていた可能性もあると言えます。現在も市原市には明智家末裔の方が暮らしているそうです。 最後に、光秀の側室の子孫の家系があります。その家系は世を憚り、代々明田姓を名乗っていたそうです。明治時代に入り当時の当主明田潔公により、ようやく政府に旧姓への復姓を願い出、許可を得たそうです。潔公には子がなく能楽者の山階家から養子をもらい家名を存続させました。その方が後に『光秀行状記』を出版された明智瀧朗氏です。 現在は瀧朗氏のお孫さんに当たる洸一郎氏がご活躍されています。同家には多数の史料が残されていたそうですが、関東大震災で家屋もろとも焼失してしまったとは残念な限りです。
【参考文献】 『明智光秀』別冊歴史読本一九八九年十一月号(新人物往来社) 『桔梗』第十六号(明智光秀公顕彰会)他 ◆筆者紹介=すずき・きいちろう 35歳。明智光秀公顕彰会会員。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月31日 23時14分14秒
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