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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月01日
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旅人 芭蕉

 

編者 松尾芭蕉記念館

    平成元年三月刊

     一部加筆 山口素堂資料室

 

旅人と我名よばれん初しぐれ

 

 芭蕉は、俳諧の完成と普及を旅にもとめました。

芭蕉は西行と同じように、簡素な僧形で、ただひとり、一笠一蓑を携え、四季とりどりに彩る自然のなかを、辺鄙な土地に素朴な人情を訪ね歩きました。

 西行の詩心を慕い、禅によって開かれた芭蕉の心眼は、俳諧の花聞くところを、遠い旅のかなだの空に感じていたにちがいありません。

 

芭蕉 野ざらしの旅 甲子吟行

 

 

貞享元年(一六八四)八月、芭蕉は門人千里をともなって、深川の草庵を出て、近畿地方の旅に立ちました。昨年故郷で没した母の墓参を兼ねての旅です。

門出にあたって芭蕉は、

   野ざらしを心に風のしむ身かな  芭蕉

 

と吟じた、いわゆる「野ざらしの旅」のことです。

 四十一歳の初老を迎えた芭蕉の旅は、さながら風や雲の流れるのと同様、孤狛な旅の追続でありました。旅には精神的な期待と歓びが秘められていましたが、肉体的には困苦そのものであり、修験者の深山回峰にも似た難行でもあったのです。芭蕉が五十一歳という短命であったのは、晩年になっても、そのような無理な旅を続けた結果だといわれています。

 しかし、この苦難の旅を通じて、芭蕉の俳諧はしだいに、さわやかな響きをもった芸術性を高めてゆきました。同時に、旅先での交歓によって、その芸術が広く支持居を得る契桟ともなったのです。

 

 芭蕉の評判を風聞していた旧派の俳人たちは、はじめて蕉風の真実さにふれ、すっかり心酔し、弟子入りする者も少なくなかったのでした。とくに、毒なるものに染まっていない、素朴な田舎の人びとのあいだに、敬愛され理解されてゆきました。

 自然に、芭蕉の旅した跡には、新しい蕉風俳諧の愛好者が無数に生まれました。芭蕉の最初の旅となった『野汀ざらし』の旅で、芭蕉は、従来の紀行文のあり方についても、新たな試みを示しました。つまり、この紀行文は俳諧を優位に立てて、前文を判者とする、句集的性格を示しているのです。

 

九月八日伊賀上野に到着し、兄半左衛門の家に入った芭蕉は、去年の六月二十日、死期に会わぬまま亡くなった母の遺髪を握りしめると、いまさらのように母の慈愛が胸をふさぎました。

  

子にとらば消ん涙ぞあつき秋の霜  芭蕉

 

思えば、自分もはや初老(四十歳)を迎えたという実感から、人間の絆の温もり、世の移りかわりのはげしさを噛みしめるのでした。

 母の一周忌をすませた芭蕉は、大和に赴き、しばらく千里の故郷である大和国葛城郡竹内村に滞在して、

  

わた弓や琵琶になぐさむ竹の奥  芭蕉

 

と詠みました。さらに二上山当麻(たいま)寺に詣でて、

  

僧朝顔幾死かへる法の松  芭蕉

 

の句をのこしています。それよりさらに、独り吉野の奥にたどり着き、西行法師ゆかりの草庵にも立ち寄りました。

    露とくとく心みに浮世すゝがばや

   砧打て我にきかせよや坊が妻

   御廟年経て忍は何をしのぶ草

 

の句はその時の吟です。

 それより山城を経て近江路に入り、美濃に向かった芭蕉は、昔、常盤御前が山賊に殺されたという伝説がある不破の関を越えるとき、

  

秋風や薮も畑も不破の関  芭蕉

 

と詠み、大垣の谷木因の家に泊まりました。そして、江戸を出るときに、に秘して旅を続けてきた今、

無事にここまで辿り着いたことを喜びにあらわし

  

しにもせぬ旅寝の果よ秋の募暮れ  芭蕉

 の句をもって挨拶したのでした。

 

二年前から木因と面接を約束していた芭蕉は、ようやくその実現を見て、木因の年あついもてなしをうけて、数日滞在しました。

 この旅の途中、芭蕉は、本国とともに桑名から熱田を経て、名古屋に入りました。

 

桑名では本統寺を訪れて、

冬ぼたん千嶋よ雪の郭公    芭蕉

釜たぎる夜半や折々浦千鳥   木因

  明ぼのや白魚しろきこと一寸  芭蕉

 

の句をのこしています。

 

 名古屋では、土地の俳人の荷兮(かけい)・野水・重五・杜國(とこく)らと『冬の日』五歌仙を巻くわけですが、はじめから意図していなかっただけに、初対面という物珍しさも手伝って、この俳席(句会)は、きわめて新鮮味あふれる興行となりました。

  

狂句本枯の身は竹斎に似たるかな  芭蕉

 

の発句によって巻かれた『冬の日』の歌仙は、芭蕉の機智によって、狂歌の才士竹斎の滑稽を借りた、きわめて作意に富む作品となったわけです。

 この年の暮れには雪が多く、抱月亭での、抱月・杜國との三吟で芭蕉は、

  

市人にいで是うらん笠の雪  芭蕉

 

と詠んでいます。この句はのちに

 

市人よこの笠うろふ雪の傘

 

と改作しています。

 

ところで芭蕉は、十二月には、熱田から美濃に赴く予定でした。この思惑も、

  

としくれぬ笠きて草鞋はきながら  芭蕉

 

の句のとおり、結局、美濃行きは実現できませんでした。

 

貞享二年丑歳の正月を伊賀で迎えた芭蕉は、

  

旅烏古巣は梅になりにけり  芭蕉

  誰が婿ぞ歯朶に餅負ぶ丑の年 芭蕉

 

の句を詠みました。

 

二月には、二月堂のお水取りで知られる十一面観世音菩薩の悔過(けか)供養(修二会)を拝観するため、奈良に向かいました。途中の奈良街道では、

   

奈良に出る道のほど

春なれや名もなき山の薄霞  芭蕉

 

の句を詠み、二月堂に参龍のとき、

  

水とりや氷の僧の沓の音  芭蕉

 

の句をのこしました。

 その後、奈良から京都の嗚滝に、三井秋風をたずねた芭蕉は、山家の梅林において、

 

梅白しきのふや鶴を盗れし   芭蕉

  樫の本の花にかまはぬ姿かな  芭蕉

 

と詠みました。伏見の西岸寺任口上人に会ったのも、この京都滞在中のことでした。

 

     伏見西岸寺任口上人に逢て

 

  我がきぬにふしみの桃の雫せよ  芭蕉

 

 の句は、折からの祉の花盛りにあわせて詠んだもので任口上人の高徳にあやかりたいと思う心をあらわしました。

 

  我頓而かへらむと云を

  人をあだにやらふと待や江戸桜 伏見任口

 とある任口の句はそのときの吟と思われます。

 

ついで芭蕉は、山路越えに大津に向かいます。『野ざらし』の本文には、

 

山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

 

という句が掲げられていますが、実はこの句は、同じ春の三月二十七日、尾張の白鳥山での、

何とはなしになにやら床し菫草  芭蕉

 

の句を作意的に改めたものとして有名です。

 

ところが、この句は北村湖春(季吟の息)から

「菫を山に詠むというのは万葉以来の歌学にはない。

芭蕉は俳諧にいかに高名といえども歌学の故実を心得ぬのも甚しい」

ときびしく非難されました。

 でも芭蕉は歌の作法や故実を承知のうえで敢て野の花としてよまれてきた董を山に見い出したのでした。

 

さて芭蕉は、大津の連衆と交歓し尚伯の邸で、『湖水の眺望』と前詞して、

 

辛崎の松は花より朧にて  芭蕉

 

と詠みました。

 その後、東海道を下り江戸に帰る芭蕉は途中、水口の宿で伊賀上野の旧友服部土芳(当時籚馬と号した)と、劇的な対面をしたのでした。「二十年を経て古人に逢う」というのは少々誇張でしょうが、いずれにしても、予期せぬ二人の出会いは、語る言葉もないほどの感涙でいっぱいでした。

  

今二ツの中に生たる桜哉  芭蕉

 

の句はそのときの吟です。

 この再会を契桟に、土芳の人生は大きく転換したのでした。仕官を辞退して、生涯を俳諧一筋に生きることを決意させたのでした。

 土芳と別れた芭蕉は、熱田~嗚海、そして甲斐の山中を経て、四月下旬、江戸に帰庵したのでした。

 

翌貞享三年(一六八六)三月、芭蕉庵では、門人らをあつめての俳席(句会)がもたした。この日は桂の句四十句を二十番の句合とし、衆議判をもって優劣を競わせました。その後ほどなくして、『蛙合』集が刊行されました。

  

古池や蛙とびこむ水の音  芭蕉

 

が生まれたのはそのときのことです。

 

わが国の詩歌史の伝統では、蛙は嗚くものという常識によって詠まれてきました。ところが芭蕉は、この‟鳴く蛙”を承知の上で、で“飛び込む蛙”に仕立て、伝統という古池のなかへ、新しい試みとして小さな躍動する生命を飛び込ませたのでした。結果ははたせるかな喧々囂々(けんけんごうごう)、非難めいた批判が飛びかいましたが、実はこれが、蕉風開眼の第一歩だったのです。

 






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最終更新日  2020年06月01日 17時20分19秒
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