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2020年06月05日
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韮崎駅鉄道界隈と鉄道唱歌

 

『中央線』1972 第8号 

 

池田光一郎氏著

 

 

特急「あずさ」が甲州の東の端から西の端まで突走る!

中央線が複線化したと思ったら、こんどは中央高速道路がつくられる……。

中央○丁目、中央公園、中央病院、中央街等々中央ばやりの昨今、本誌「中央線」も時代の波に遅れないように心掛けたい。

私どもの心のふる里、その代名詞とも云うべきなつかしい郷愁のこの愛称、前七号巻頭に野尻抱影翁が「中央線とはうまい名をつけたものだ。少し、ズルクないかと微笑したものだが:……」と、書かれてちょっぴり誉めて?くれた。

 だれが付けたのかこの名前、全く同感だが名前負けがしてはならないと思う。そこで、この愛称にもっとも縁故の深い、いや、その根源をなすであろう中央本線にまつわる。あれこれの小話を思い出すがままに綴って見ることにする。

 「トンネルをぬければ、そこは韮崎?だった…」・雪国(川端文学)の書き出しに似たような文章だが、私は次の方が好きだ。

「曲りくねった暗いトンネルからパット明るく、くり広げられた南アルプスの山やま、そして韮崎の街なみ……これは、カラーワイド版で、ガーンとスクリーン一杯に写し出された、映画″青い山脈″の最初の場面」である。

 もう、かれこれ十五年も前のことであろう。東宝映画の一節だが、主演の池部良、司葉子の好演技もさることながら今一度見たい位だ。また繰かえすと金剛寺トンネルを汽車が走り出た瞬間、鉄橋を渡るごうごうたる轟音も、音響効果をあげて、この映画を見たときに頭、目に耳に、訳もなく感動したのは、私だ

けではありますまい。

またこんなこともあった。昭和十年頃のことだった。松竹映画の高峰三枝子(現在、フジテレビ三時

のあなたに出演中)が可愛いい田舎娘に扮して出演した「白壁の家」のロケの一コマに、南アの山々をバックに、中央線列車が煙を上げて走っている場面があった。いつも見なれたこの景色を、そして郷土韮崎の景観を、これほどまでに美しく印象づけられて見たことはなかった。

 高山あり、断崖あり、川あり、町あり、この好条件の揃った大景観を、目ざとく敏感な映画監督やカメラマンが捨てておくはずがない。こうした韮崎附近の景勝治を、映画で写し出している姿は、推選絶讃しているのと同じであると思う。

 

佐田啓二の事故死

 

しかし、同じ映画関係でも、こんな困った事件もあった。昭和三十九年八月のことで、まだ記憶に残っていると思うが、人気俳優の佐田啓二が、塩川橋の橋詰に衝突した自動車事故で不幸にも亡くなったことである。これはよい景色に見とれていたのではない。抱え運転手がスピードを出しすぎた過失だった。

当の本人は乗用車のソファーの上で、うつらうつらと、夢を見ていて、そのまま天国行き?の惨事になったという。‘

 「けいじが死んだ」のニュースに大勢のファンたちは大騒ぎとなった。ある農家の婆さんは「韮崎署の刑事さんが死んだのかい、お気の毒に……」と。勘違いしたナンセンスもあったという。

 

武田信玄、本陣、勝山

 

この金剛寺トンネルのある小高い丸い丘を勝山という。昔のこと、信州の諏訪和重・小笠原長時の連合軍が押し寄せた韮崎合戦の時に、武田晴信(のちの信玄)が、これを迎え撃って大勝を博した本陣のあとである。トンネルの西口に続く断崖には、でんでい岩(伝令岩)や物見岩など古戦場の地名が今も残っている。そして戦さに勝ったからこの山を勝山と名付けたという。

 この勝山の南側には、金剛寺という名刹がある。武田陸奥守信吾の墓があり、また信玄が大僧正となった祝に、織田信長から贈られた折枝の香炉と、聖天像が信玄によって納められているという。折枝の香炉とは、唐の玄宗皇帝の重器であったと伝えられ、また聖天像も、日本三像の一つで、象面人身の男女像が立ったまま性交?を営んでいるという。霊験あらたかのもので、その伝来を知らずと古い本に書かれているが筆者もその存在を知らなかった。

 また、ここに隣接している金剛地部落には、武田軍の職員である槍や刀剣、鎧兜などを製作したと伝えられる金山神社がある。その当時から伝わっている「フイゴウ」という、カジヤ道具と、古文書が保存されている。

 

エッチな祭典

 

ところが、この金山神社の祭典が面白い。何でも小林姓を名乗る十五軒の人達が、毎年当番制で一月二十八日には祭典を行っているのだが、御神体の石の性器になぞらえて、米の粉「シンコ」で、男女の逸物をつくり蒸上げて更にこれに小豆扇をぬりたてて、見事な一対の供物?をつくり奉納する。子種のほしい人は、この供物をおし頂き焼いて食べると、子宝に恵まれるという全国でも珍しいエッチな祭典である。

 

さて、こんどはトンネルと鉄橋の話に戻るとしよう、このトンネルを最初堀り抜いたのは明治三十六年のことである。正しい名称は金副寺隧道といい、長さが千八十九呎(フイ-ト)、工費が五万八千円余りで、鉄橋の方は長さが九百四十八呎で、十一万二千円余りかかったということが、中央線鉄道建設概要という本(韮峰町滝田隆三氏所蔵)に記されている。文中には

 

「塩川橋梁ハ金副寺随遁ノ西ロヨリ直チニ塩川ヲ渡り信州往還ニ達スル間ニ架設スルモノニシテ、其半径二十鎖ノ曲線中ニアリ橋台橋脚、根堀ハ全部湧水夥シリ、石油発動機ヲ据付ケ排水ヲ為シ難工事」

 

だった、由で、直線であるべきトンネルと、鉄橋とが半キロに亘ってS宇型に曲りくねっているのは、本邦鉄道史上に類例のない珍しいケースであるという。

その原因を聞いてみると、この工事設計中塩川左岸ベリに居住していた車屋(精米屋)があった、この家のガンコ爺さんがテコでも動かないと、頑張ったので汽車の道がこんなふうに曲げて作られたのだという。この家も、今回の複線工事で、六十五年ぶりに取り払われた。新しく完成した上り線の鉄橋とトンネルを対比してみるとよく判るのである。

 また、このトンネル工事請負については、若尾新田の浅川友治郎氏(初代韮崎市長故浅川彦六氏の父)らが下請して工事にかかったが、日露戦争が始まるという戦雲の最中を突貫工事で掘り抜いたという。お気の毒にも浅川友治郎氏は、その開通祝賀の記念旅行の帰途、舟山偏が流失していたので釜無川を押し

渡ろうとして、水難事故で亡くなったのである。

 

その頃は水害が多く、明治四十二年八月には、塩川の大洪水で、十本ある鉄橋のピーヤが一本欠潰して赤い鉄橋が落ち中央線が永らく不通となったのを子供の頃、隣家の斎藤角十郎さんらに連れられて見物に行ったことを覚えている。

 また、この間のことである。拙宅の物置から「六観音額面発句清記」という明治三十七年六月に書き認めた句集が発見された。私の父一布が蔵していたものだが、父の俳名、池田稲月をはじめ、韮崎近郷近在の俳人百余名が投句した二千八百首が書き連らねてあった。選考は半古庵、なまよみの甲斐白髯信之と

記してあった。丁度中火線が開通した頃なので頁をくってみると、こんな俳句があった。

 

トンネルを出て鉄橋や風かおる

膳道のアーチや風の光りけり

世に稀な鉄橋見ませ汽車の客

膳道を出る汽車の笛五月雨

月に花に浮世は安し汽車の旅

 

そして、当時流行した鉄道唱歌と共に、「まっくろけ節」という朗らかな唄が大いに流行した、それは

 

箱根山背しゃ背で越すカゴで越す

今じゃ便利の汽車が出て

トンネルくぐればまつ黒けのけ

オヤ まっ黒けのけ

 

今でも、六十才以上の人たちなら知っている唄だが。韮崎にはこんな替唄があって、その当時五十余名の芸者がいたという花柳界を賑わせた。

 

韮崎で一番高いは鐘つき堂

親父が仙気で子がダルマ

お母あちやんのナスビは 

まっ黒けの毛

オヤ まっ黒けの毛

 

どうやらまたエッチな唄が飛び出してしまった。

 

またこんな古い話も聞いた。

 

昨年六観音の雲岸寺を中心に盛大に行われた、成田山分院九十九年祭の分身像が韮崎に奉安されたのが明治四年のことである。その頃はまだ、中央線がなかったので東海道岩淵(静岡県)から、富士川を高瀬舟で遡ぼり鰍沢についた。韮崎の信者の代表たち(小村屋、植松山二、根津久星、山寺井筒屋の各主人)が「かみしも」を付けたり、白衣を着たりして、うやうやしく出迎え雲岸寺に納めたという。

また、今太閤と出世した韮崎出身の小林一三(元商工大臣)も、中央線開通の恩人ともいわれる小野金六も上京するのに、この反対コースで鰍沢から舟で富士川を下って行ったのである。今考えると、一世紀前と現代ではこうした父通の変選があったのだ。

 

何でも、明治二十五年頃、在京の

小野金六(韮崎出身)、根津嘉一郎(山梨市出身)、雨宮啓二郎(塩山市出身)

らのいわゆる甲州財閥の人たちが、甲武鉄道会社をつくり、自分たちが住んでいた東京麹町の飯田町を起点に、郷土山梨に通ずるように私設鉄道を走らせたのが、今の中央線のはじまりであるという。

 

 その当時は韮崎から甲州街道(現代の国道二十号線)を東京へ行くのに笹子や小仏の峠を越えて三日はかかったのである。であるからこの鉄道の開通のあかつきは「座っていて東京見物ができる」と、せっかちな甲州人の期待は大きかった。その名残として大正の頃まで、武田信玄の兜を模した甲武鉄道のマー

クが四つ谷見付のレンガのガードに残されてあったという。

(これは韮崎町二丁目、小林醇一氏の話)

 

 

飯田町から新宿を経て八王子まで鉄道を敷いた。甲武鉄道は小仏峠のトンネルは難工事とみて、神奈川から郡内道志村に入り、山中・河口など富士五湖を経て市川大門町に出て、甲府や韮崎に通ずる違大な計画もあったという。

 

しかし戦雲ただならる日露の役を前にして、鉄道院に移管して現代の中央線が開通の運びとなったのである。

 そこで中央線が甲府まで開通しない前に、抜け目のないこの会社は石和を起点として甲府、小笠原を経て鰍沢まで鉄路を敷いた。富士川の舟便と、鉄路を直結したのである。これがいわゆる馬の軽便鉄道であった世に云う「馬鉄」のことである。

 

大正時代まで、この馬鉄が巾をきかせて甲府の街を走っていた、馬糞をひりながら………。子供の頃、私も甲府駅前通りのお堀端でこの馬鉄を外人さんがハデな赤い蛇腹のカメラで写していたのを覚えている。その当時、韮崎の小野豊五郎氏(二丁目宿屋小野一氏祖父)がこの会社の専務で活躍していた時代もあった。この馬鉄はのちに山梨交通の電車に替り、今は廃止になったが「ボロ電」の異名で親しまれていた。

 

これは中央線が並崎まで開通した頃の詣である、はじめ立てられた計画は甲府・竜王をすぎ(この頃、塩崎駅はなかった)金剛寺トンネルを抜けたら塩川鉄橋を渡り、まっすぐに韮崎の中心部に入り駅を小学校の先につけ、さらに藤井田圃の西方から七里岩台地に走らせるというものであった。ところが先に書

いたように塩川鉄橋下の水車屋の爺さんが反対し、その次が韮崎町会議員だった。小学校移転費二千円也をその倍の四千円に値上げしろというのだった。この際取れるだけ取れというやり方だった。怒った小川という主任技師は「よし後悔するな」とばかり勝手に計画を変更して、トンネルと鉄橋をS宇型に曲げてうまく水車屋の頭上を避けた、そして駅の位置は小学校をやめて町の北方につくり、同時に街と駅との中間にスイッチバックの大きい土手をつくった。これが「どこが街やら」といわれた、今までのまずい韮崎駅の位置であった。この工事のあと責任者である小川技師は独断専行のそしりを受け休職となったという物語もあった。

 

韮崎駅が開通し、営業を開始したのは明治三十六年十二月十五日の師走の雪の日であった。昨夜の大雪が晴れて、「岡蒸気」が煙を上げてやって来るのにふさわしい好天気であったという。

韮崎町三丁目の小林真作さん(七八才)は、その当時、小学二年生で同級生と一緒に小旗を振りながら先生に引率されて出迎えた、はじめて見る汽車にビックリしたという。その時お祝いに合唱した歌を覚えていて、その一節を唄って呉れた。

 

△汽車を迎える歌

 

金と力と時と開けゆく世の恵みと

  山はトンネル川は鉄の橋をかけて

  今こそ汽車は勇ましく

走り来る 走り来る

 

そして汽車賃は甲府まで片道三銭であったという、往復六銭ですが現代は片道六十円です。比較してみて下さい。金の貴さがわかります。

 それにしても、私たちが子供のころよく愛唱した歌に、鉄道唱歌があります。とてもなつかしい歌です。「汽笛一声新橋を早やわが汽車は離れたり……」。というのです。これは東海道線のもので、中央線の方は「汽笛一声わが汽車は早や離れたり飯田町……」です。昭和十年頃新しくつくり替えられた新鉄道唱歌も未だ飯田町が起点になっていますが、今のように新宿駅が始発になったのは、山の手循環線が完成した昭和十五年頃のことです。中央線の各駅毎に一つ一つ名勝地を歌で結ぶ、あの軽快なリズムが忘れられません。

 驚いたことにこの長文の歌詩を始発から終点まで空んじて暗記している人がありました。それは韮崎町小林醇一氏(七六才)と、清哲町小沢敏誠氏(六二才)のお二人でした。小林氏の方は明治末期から大正時代に流行した最初のもので、小沢氏の方は昭和八年頃歌詞も曲も新しくつくり替られた新鉄道唱歌です。全く偶然のことながら兼ねて全文を書いてもらうべくお願いして置きましたら、同じ日に前後して私の手もとに届きました。ここに敬意を表して掲載することに致します。どうか皆さんも一つ唄って見て下さい。

 

 △中央線鉄道唱歌   ―大和田竹起作=

 

汽笛一声わが汽車は早や離れたり飯田町

牛込市ケ谷荊の端 四谷出ずれば信濃町

 

千駄ケ谷代々木新宿 中仙道は前を行き

南品川東海道 北は赤羽根奥羽線

 

大久保つつじの花盛り柏木中野に兵営を

見るや荻窪吉祥寺境を過れば国分寺

 

立川こえて多摩川や日野に豊田に八王子

織物業で名も高く 横浜綿の起点なり

 

浅川行けば小仏ぞ境沢をば早や渡り

与瀬上野原島沢や谷間に懸けしは猿橋か

 

甲斐絹の産地で知られたる郡内地方はこの辺り

山の中なる大月に 水力電気の事業あり

 

ここは名に負う笹子嶺トンネルー万五千尺

かちで越えしはととせ前 居ながら通る気楽さよ

 

初鹿野塩山向岳寺温泉ききめいと多く

差出の磯の日下部や蛍で名高い石和町

 

次は甲府の城の跡山岳四面に重畳し

甲州一の大都会山梨県庁ここにあり

 

竜王韮崎日野春は八ケ岳をば右に見て

小淵沢より富士見台海抜三千百余尺

 

青柳茅野に上諏訪や左に諏訪湖冬ならば

吾もスケート試みん右は温泉諏訪神社

  

下諏訪岡谷は製糸業煙突繁きは国の富

  天竜川は此処に出で遠州灘に注ぎ入る

 

岡谷辰野を通りすぎ伊那谷渡りて塩尻は

渺たる平野にステーション篠の井線の分岐点

 

         (以上で中央車線終り西線は略す)

 

 

待ちに待ちたる中央の 鉄路はここに全通し

国運ますます隆盛に栄ゆる 御代こそ目出たけれ

 

と、終点名古屋でオワリ(尾張)をなごやかに結んでいます。

 

△新中央線 鉄道唱歌=与謝野鉄幹作=毎日新聞企画

 

往来織りなす輦轂(レンコク)の都大路をあとにして

今ぞいでたつ飯田町 中央線の旅ごろも

 

窓より近し九段坂 国士を杷る靖国杜

松の縁や荊の水 映ゆるは近衛の石の垣

 

いらかは続く神楽坂 春は花散る外壕や

赤坂御所のトンネルを 出ずれば神官競技場

 

かしこし明治神宮の 代々木の森は神さびつ

行けば新宿吉祥寺 みどりは深し井の頭

 

武蔵ケ原の杉木立 文化の住居ここかしこ

かけるは鳥か青空に 響くプロベラ音高し

 

桜に知られし小金井を すぎて立川飛行楊

梅の古野や大菩薩 御岳も訪えよ電車にて

 

  ここは絹織る八王子 横浜線の分岐点

大正天皇御陵は 清き流れの浅川に

 

秋の紅葉の高尾山 展望広し十二州

  小仏の峰すぎ行けば 谷は迫りて桂川

 

与瀬上野原鳥沢や くぐるトンネル四つ五つ

いずる右手に猿橋の かかれるそばや谷深し

 

山の斜面に鉄管の ならぶは水力発電所

峰こえ谷こえ鉄塔の 電路は続く都まで

 

大月駅に降りたてば 甲斐絹に名ある谷村町

富士へ登山の吉田口 電車は走る一筋に

 

富士のすそのの五潮めぐり 河口山中また西湖

青木ケ原の樹海すぎ 精進渡れば本栖湖へ

 

初狩すぎてそそり立つ 笹子の嶮や今いずこ

長きトンネルいで行けば 甲府盆地は目もはるか

 

武田亡びて四百年 天目山は雲暗く

弔うものは松の風 笛吹川の水の音

 

葡萄に知られし勝沼や 行けば酒折早や甲府

甲斐の中心商業地 名あるは水晶繭ぶどう

 

ここより北へ道三里 昇仙峡は名も高く

南へ下れば鰍沢 電車は通う駿河まで

 

武田三代栄えたる つつじケ崎の跡とえば

城とも見えぬ土濠は 深き武略のあと語る

 

竜王すぎて韮崎に残るは 古し新府城

のぼる日野春小淵沢 夏は涼しき富士見駅

 

北に峻峰八ツ岳 南アルプス駒岳

ふり返り見る天ぎわに 笑むははしだの芙蓉峰

 

茅野を下れば諏訪の湖いで腸は多し風涼し

冬はスケートー面に張りてきびしき厚氷

 

湖水の水の落日の岡谷は製糸に知られたる

流れてはやき天竜のはざまは長しいく十里

辰野をすぎてトンネルを 出ずれば塩尻停車場

篠井線の分岐点 染替え行けば松本市

 

この地は深志の旧城下 今なを残る天主闇

市の産物は繭絹糸 浅間温泉 ほど近し

 

窓より見ゆる山脈は 北アルプスの雪の峰

上ふところの上高地 夢は世界の神秘峡

 

槍や穂高の雪とけて 流るる水はあずさ川

立つは白樺岩魚住む 大正池畔日もかすか

 

明科すぎて 冠者や田毎の月に知られたる

姥捨て行けば篠井は 信越線の乗替場

 

再びかえる塩尻に 奈良井の谷を上り行く

烏居くゞれば木曽の谷 峰には雲のかげしげし

 

薮原名のもお六櫛 朝日将軍義仲の

城趾に近き宮の越 入りて福島関の跡

 

雪のみ山の御岳は 木曽の峡より見えかくれ

山の彼方に上り行く 白衣の行者数多し

 

上松すぎて池島の 伝説残る臨泉寺

寝覚の床や水石の技巧は 神のたわむれか

 

峰にかかれる小野の滝 しずもる紅葉落合の

逢えば別るる中津川 恵那峡近し舟下り

 

落つる釜土やとき川の 谷は錦の胡渓山

陶器に聞こえし多治見 すぎさぎりのかかる常光寺

 

勝川すぎて大曽根や 濃美平野にいで見れば

甍は並ぶ中京の 市街は一目窓の下

 

東海道と関西の 鉄路は白し落日の

み空に高く輝くは 金の鯱 名古屋城

 

 (最後に小林醇一、小沢敏録画氏に感謝しつつ終ります。)






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最終更新日  2020年06月05日 21時27分55秒
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