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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月08日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

甲州鳳凰山と地蔵岳

 

辻本洒丸氏著 一部加筆

 

 快晴の日、甲府の平原より西方を望めば、陵嶺高峰、恰も雲のごとく重畳せる中に、当面最も近く一大山岳が天半を閉降すること屏風を立てたるごときを看る。これ鳳凰、地蔵の達観にして、その雄停なる山勢は、白峰、駒ガ岳の二大傑間に介立して、ほとんど遜色あるを認めざるべし。

 本山はこのごとく高邁にして、著明なる位置にあるにかかわらず、あまり世人の知るところとならざるは、想うにこの地の交通不便なりしと、付近に諸大名山の群立するとにより、多少閑却されたることその主なる原因ならんか。もしそれその登山者にいたっては、未だはなはだ少数なるもののごとし。もちろん山下の住民が山頂なる地蔵仏礼拝のため登るもの無きにあらざれども、これを除き真に登山を目的とせるものは家々たること明なり。

近年外人中には好んでこれに登山する人あり、小島氏によればウェストン氏もこれを窮めたるもののごとく、また余が現に去る七月、御岳(甲州)において遼遠せる英人某氏も、二国電山を行ないたることありと語れり。従来この好個霊山を放置して多く顧るところなかりしは、本邦登山家のために遺憾なきあたわず。

 今や本会の設立により、登山の趣味漸次普及せられんとし、本山のごときもまさに多数の登山者を見るに至るならん。余は本年八月駒ガ岳、八ガ岳二山に登れる序をもって鳳凰登山を試み、同十三日青木湯(青木鉱泉)より地蔵岳を経てこれに達することを得たり、不幸にして不良の天候に遭遇し、はなはだ疎漏なる観察を行なえるに過ぎざりしが、のち遊人士の参考までに鈍筆を呵してここにその概況を記すもまったく無用にあらざるべし。

 

 余はまず鳳凰山賀山口を研究せんとし、『日本風景論』、『日本山岳志』などを検して

·                     中巨摩都蘆倉より大室を経、地蔵岳を越えて達するもの、

·                     北巨摩郡柳沢よりただちに鳳凰山頂に登るもの、

·                     同郡小武川上流なる青木湯(鉱泉)より地蔵岳を経て至るもの

の三路ある事を知れり。

 

❖ 『風景論』鳳凰山の条下に小武川の渓谷に下り、西南に登り、御坐石を経、円野村より五里、山の東麓に達するとあるは、結局石の柳沢口と合するものならん。余は台ガ原より発程する予定なりしゆえ、蘆倉口は全然これを断念せり。

 

❖ 駒ガ岳登山を終われるのち、余は鳳凰堂山口を前記(二)(三)のいずれにか決定せんと欲し、台ガ原にてこれをたずねたるに、柳沢口は知るもの更になく、この付近の諸山を股にかけたる老猟夫もこれを詳にせず、もし以前その路ありしとするも今は棘にうもれて到底行きがたかるべしという。青木湯より登るは里程やや遠けれどもその利便なるには何人の言も一致せり。

余は小武川沿岸と青木湯とに少なからざる好奇心を有せしをもって、すなわちこの路を取ることに定めぬ。

ただし柳沢口は実際同村に至りて取調べたるにあらざるゆえ、果たして台ケ原にて聞きしごとく、通行に適せざるやいなやは、確言することあたわず。

 余はここに予め鳳凰山と地蔵岳の名称および位置につき、一言する必要を覚ゆ。

 

鳳凰山と地蔵岳(山名論争)

 

大抵の地図には明瞭に記載せられ、なんらの疑問を存せざるごとくなれども、甲州にいたって二山の所在をたずねればその答弁のすこぶる曖昧なるを認むべし。しかして鳳凰山の名が広く吾人に知らるるに反し、甲州にてはこの方面の山岳代表者として地蔵岳なる名称通用せられ、鳳凰山はかえってその一部なるごとき観あるは意外なり。

余はかつて御岳(甲州)附近に於いて鳳凰山の名を知らざる甲州人あるを見て奇とせしことありしが、今にして思えば怪しむにたらず。本国経歴地において、余はしばしば鳳凰山と地蔵岳との区別を問いたずねたるに両者同一なりというものあり、あるいは鳳凰山は地蔵岳の南にあるもの、これなりといい、諸説紛々甚だ一致せざるに苦しめり。しかれども余が鳳凰山なるべしと思える一峰を指示すれば皆地蔵岳、むしろ地蔵仏なりと答える。

この地蔵仏というは山そのものよりも、山頂なる大岩に重きを置ける謂にして、じつに余の指せる山の頂上にはきわめて著明なる岩石あり、汽車笹子の隧道を過れば、甲府盆地をへだて、造に西天に尖立するのを見るべく、遠望すればあたかも人の直立するごとくに思わる。

甲州人はこれを霊化して地蔵仏と崇めるものなり。余はこれにおいて『甲斐国志』の鳳凰山記事中の一節

「絶頂に高数丈の岩あり、遠く望めば人物の状のごとく、洲人多くは誤認めてこれを地蔵岳なりというは非なり」(『日本山岳志』15ページ)

とあるが、良く上記の事実に適合する事を認め、甲州人の地蔵岳うんぬんはいわゆる誤認と見倣せり。すなわち余自身はこの岩石ある山を鳳凰山とし、その左方(甲府方面より望みて)に連なりて、やや三角状を成せる峰(この頂には三角標あり)を地蔵岳と定め、普通地図の順序にしたがえり。もっとも余が二山につき、確固たる観念を得たるは登山後、快晴の山を望み、自ら踏査せるところと総合したるときにして、その以前は山厳つねに曇りて視察するによしなく、登山のさいにおいても両者の位置につきてはなお疑惑の裡にありき。帰京してのち、余は甲府図幅地質説明書に於ける二山の見取図を検したるに、まったく右と符合せるを見たり。

 この連嶺には薬師、観音、地蔵などの仏名を冠せる山多きは注目に値す。聴くところによれば、礼拝登山者は地蔵岳の頂より鳳凰山なる岩石(所謂地蔵仏)を遥拝して帰るもの多く、さらに足弱の者にいたっては、薬師岳より踵を返すという。これらの習慣によれば鳳凰山は他の諸山に例多き奥の院の感あり。その仏教的名称より推想するに、鳳凰はもと法王の意なりしやも知るべからず。法王大日也とあるは良くこれに適えり

(『日本山岳志』15ページ参照)。

このあいだただ余の不審にたえざるは通常鳳凰山二、九一二メートル、地蔵岳二、七九七メートル(『日本風景諭』に拠る)にして前者遥かに高きにかかわらず、余の実見せるところにては、地蔵岳の方かえって高きことこれなり。この点につき余は同好諸君の示教を待つ。

 

台ケ原(旅籠竹屋)より登山

 

 八月一二日午前七時、余は一名の人夫に二、三の必需品を負わしめ、台ガ原を発して小武川上流なる青木湯に向かえり。鳳凰登山を終われば再びこの地に戻り、八ガ岳にいたる予定なるゆ故、不用物は総てこれを前日来、投宿せる旅店竹屋に託せり。

 

小武川=石空(いしうとろ)川

 

(参謀本部二十万分の一地図に、小武川を以て大武川の一上流となせるは、はなはだしき誤謬なり。該図に小武川とせるはイシウトロ川と称するものにして、真の小武川は御坐石一帯の山嶺にて、西方大武川と隔たり、宮脇、円井二村間にて、釜無川に入る別流これなり、なお同図には青木湯なし。この辺の地形は地質調査所二十万分の一図をもってほぼ正しとする)

 

新奥(武川町)

 

 台ガ原より小武川渓谷の入口なる新興に達するには、甲信街道を南下し、牧ノ原より右折するものと、下三吹より山高、黒沢を経ていたる二路あり、前者は遠けれども道路概して平坦なる利あり。余は往路これを取り、帰途後者によれり。台ガ原の人家を離るれば、左に釜無川と七里岩の哨壁をながめ、中山(台ガ原と駒城、柳沢間にある小山)を右にし、たんたんたる大路を歩みて尾白、大武の二川を渡る。大武川は橋落ち、多数の工夫まさに架橋に従事せり。一旦余にして堺橋を渡り、牧ノ原に出でここより街道にわかれて右に切れこみ、武里小学校を右方に見て、桑畑ある小丘を越え去れば、小武川の渓谷前面に展開し来る。両岸の山脈畳々起伏せる奥の奥は、わが鳳凰地蔵の連山にして、この日天晴れたれども、白雲厚く山頂を包て、どこにあるやを知るによしなし。ここより青木湯まで里程おおよそ四里、そのあいだ茅屋二、二あるのみという。

 

午前八時三〇分、はじめて河岸に達せり。岸に沿い危橋を渡ること四回にして、山少しく開き、河畔に堤防を築けるところあり。予てこの道路は、河を横ぎることはなはだ多しと聞き、橋の有無をあやぶみしが、一〇時一〇分断崖の下を曲折するところにいたり、果たして橋無きに会したり。水ある幅はおおよそ三間ばかりに過ぎざれども、傾斜大なる山間の急流なるゆえ、岩に激する水は瀑状を成して、飛沫を散し、深きところは若緑色を呈して見るからに気味悪し。急湍徒渉に多く経験無き余は、すこぶる躊躇せしも、勢止むべからざれば、人夫と手を組み合わせ、相助けて渡れるに、中央に至りしときは水深ほとんど腰部に達したり。夫より続けざまになお三回徒渉し、少時川に遠かりて右方の山下を巡る。

ここはやや広き原野状をなし、技ぶり面白き松の点在せる下には、種々の草花今を盛りと咲きみだれ、その実しさに河捗りの苦も忘れたり。草を敷きて三〇分ばかり横たわり、一一時三五分御坐石湯との険路に達す、湯はこれより一里なりという。左を取り七また河岸に出で、第五回の徒渉を行ない、右岸に出でたり。この辺より雑草はなはだしく茂生し、ときとして全身を没することあり。草の中を這うごとくにして進む。行々注視すれば野イチゴ(ナワシロイチゴ、エビガライチゴ)の紅果族々として正に成熟せり。余は雀躍して、片端より取り集め、帽子を脱してこれに投げ込み、山盛りと成し、歩みかつ食うに、足元自ら疎かとなり、石に蹟きて転倒せんとせしこと幾回なりしを知らず、進むに従いイチゴはますます多く、さすがの珍味も後には食いあきて、見返りもせず、行き過るにいたりぬ。

 

青木湯まで四〇町

 

 零時三〇分、路は祖母石より青木を経て青木湯にいたるものと合し、旅人三名に行き違えり。小武川はここにて一大迂曲を成し、北方開けてはるかに八ヶ岳の峰頂を雲上に仰望す。これより以南、道路は手入れ届きて橋落、草深の災難なく、一橋を渡りてまた左岸に出れば、道路の右側に一軒の農家あり、余はこの家にて湯を篤い受け、休息せんと欲せしが、近づくに従い、その穢きを見て辟易し、なお少しく歩める路傍において、携え来れる昼餉を喫せり。ときに午後一時なりき。側に建てる木標を見れば青木湯まで四〇町と記せり。これより両岸の山ようやく灰宜し、道路の傾斜もしだいに増加し、樹梢にサルヲガセの長く垂れたるは、すでに深山の光景あり。小武川の水量は著しく減少し、岩石のみ増加す。

 

青木湯(青木鉱泉

 

女夫石というを路に眺め、橋を渡ること四回にして、午後三時二〇分青木湯に到着せり。

 余が本日の行路は概して平易なるものなりしが、ただ橋無かりしには頗る閉口せり(今日、川を横ぎりしこと総計一四回なり)。しかし初め徒渉せる四カ所は、西方山上なる間道、俗に八町横手と称するを越れば、まったくこれを避け得たるものにて、余は人夫の不案内により余儀なくこれを横ぎれるものなりき。もっとも落橋は去七月の出水後そのまま放置せるためにして、平常はかくのごときこと無く、今回のごときは典例なりという。

 青木鉱泉は鳳凰山の東麓にあたれる小武川の左岸にあり、海抜一、六〇二メートルの高距に位し、三方は急傾せる山に囲まれ、小武川流域なる東北面のみやや開けて、はるかに若神子、浅尾の方面の原野を下隠す。浴舎はただ一軒あり、四月中旬開始し、一〇月下旬にいたって閉ず。建築は粗造なれども、盛時は百人以上を容るるにたるという。鉱泉は山上数町より導き、薪火をもって温む。褐色不透明にして、山梨県病院の分析によれば、主として酸化鉄および炭酸鉄を含有するもののごとし。効能諸病としては貧血、胃病、脚気、その他雑多の病名一六七を列記せるを見たり。

 湯治客は大抵甲府若くは近郷より来り、いずれも永く滞在し、多くは自炊を行なうこと山間僻地の他鉱泉におけるごとし。余が到着せる当時は客数未だ少なく、粗悪なれども八畳敷の一室を与えられたり。見るに壁なく、天井なく、三面板張りのありさまは山中の小屋のごとく、板は隙間もなく落書にてよごされたり。その禁止と見え禿筆にて「ここに楽を止」と記せる紙を貼り付しは滑稽なりき。湯は前記のごとく濁れども、入りて見れば案外心地よし。この夕気温一五度に降下し、フランネルの襯衣をまとってもなお肌寒きを覚えた。

 

案内人不遇

 

台ケ原より余を駒ガ岳に案内せし男にて、通称多重と呼ぶものあり。駒ガ岳は掌を指すごとく精通せるを誇言すれども、未だ鳳凰山に登れることなく、今回はぜひとも同行せんことを乞い、余もこれを許しぬ。しかるに前日東京よりある講社の連中来り、同人は都合により、これが案内人となりて本日御坐石湯まで来ることとなりしかば、今夕余の人夫と交代するの約を結べり。余はこれを履行するため、本日同行し来れる人夫を解雇して御坐石湯にむかわしめ、夫より明日登山の案内者を得んと欲し、これを鉱泉の亭主に謀れり。亭主は二十六、七の男にて妹と称する女と二人ここに住み、今日は浴客数名の依頼により案内して地蔵岳まで登山せる由なり。だんだん様子を聴くにこの地にあるもの彼と殊の外は、みな入浴客のみなれば、もとより導者と成るべきものなく、

彼は帳場の事務停滞する事と、本日登山の疲労もあり、御免蒙りたしと断わる。余ははなはだ困却したりしが、折角本登山を目的として来りしに、案内なくては不便この上なく、迷惑なるべけれど、ぜひ行きくれよと強て依頼し数回押問答の末彼もついにしぶしぶ承諾せり。最初青木湯までいたらば案内者は多々あるべしと思いしに、この考全く齟齬し、すこぶる面白からず、のちここより登山する人は注意して、余と同一困難に陥らざらんことを望む。

 夜に入りて雨さえ降り出し、多重も来らず、余は不愉快のうちに寝につきしが、疲労のためいつしか夢境に入れり。

 

出発に際して

 

一三日午前四時、起き出れば天晴れたり。今日は早朝出発するはずなりしが、昨夜の降雨に気をはばまれ、明らかに時間を亭主に約せざりしゆえ、未だ起き出し様子なし。余はまず自身の仕度を成し居るうちに、彼もようやく起き来りしかば準備出来しだい至急出発せんことを命じ、朝食など成すに、ときは五時を過ぎ、折から出立せんとする客の勘定にてまた手間取れ、六時近くと成れり。余は心中はなはだ焦ってなお愚図つける亭主を促し、将に出発せんとするとき、下手より猟犬を先立て登り来るものあり。能く見れば多重なり。

余は病癖の起れるさいとて、近づくあいだも遅しと違約を叱り付しに、彼しきりに陳謝し、前夜御座石湯に着せしは、前夜御坐石湯に着せしはなはだ遅れ、かつ雨降り出して、夜行かなわず、天明を待ち、手にせる提燈をしめす。余は今さら怒りてもせんなければ、即時出発すべきを告げ、いよ登山に着けるは午前六時三五分となれり。

 まず揚場の後より直に小武川に下りてこれを捗り、西南を指し、前面に聳え立せる山を目がけて、一文字に登る。ツガ(栂)の森林天を覆い、傾斜極めて急なり。初めしばしのほどは右手の谷底に小武川の水声を耳にせしが、十町ばかりも登りしと覚しき頃より、また聴えずなりぬ。路は不完全ながら、その形を存したれば、案内者無くとも誤るにいたらず。樹下にはセリバシホガマ、ゴゼンタチバナの花あり、その光景駒ガ岳なる掘立八丁をへてより黒戸山にいたる問に似たり。一時間程登れば傾斜はやや緩となり、右方に向って少しく下るところあり、やがて谷を右にし、山腹を繞(めぐ)り登り行く、倒木路を

塞ぎて自然の障害物を造り、これを潜り、あるいは跳り越すに、少なからざる労力を費やせり。途中全く水を得ず。山腹に添い、絶えず左方に曲り行きしが、終に草深の峡間を登りきり、八時四五分、御室(オムヱに達せり。連嶺の一凹処にして狭き平地を成し、左方蘆倉より来る道と合す、日本山岳誌「摘訳」に、大室と記せるものはこれなるべし、

 

御室

 

余は青木湯より直接、地蔵岳に攀じ登るものと思い御室に出ることは予期せざりき。小屋はもと二、三棟ありて繁盛せしもののごとく、最大なるは幅三間位に長さ十間以上もありしなるべし。今は全部荒廃し、用材の累々として地に委したる遺跡を見るのみ。若しここに一泊せんとせば、一通り野宿する準備を要す(小屋の西北隅に尾根の少しく残れるところあり、その下に潜まばかろうじて雨露をしのぎ得べしと覚えたり。本号の第二図阪に見えたる御室は、もちろん破壊以前の旧形と知るべし)。側に筧(かけい)にて導ける水あり、一飲するに清冷にして能く渇きを医するに足る。これ実に本山唯一の飲水なり。

 

付近の植物

 

 ここは左右の山と樹木とによって遠望を遮られたれども、海面上少なくも二千二、三百メートルあるべし。登山者稀なれば、付近にはトウヤクリンドウ、オヤリンドウ、ヤマオダマキ、コバノイチヤクソウ、トリカブト、スカシタゴボウ、アキノキリンソウなどの諸花、その蹂躪と掠奪とをのがれて爛漫開発し、花畠のごとき美しき景を呈せり。またイワガリヤス繁茂せるところには、蝿のごとき黒色の小虫無数群集し、その中を追い立て横切るに、甘き奇兵を感ず。多重(案内人)によれば駒ガ岳にもこの虫を見るといえり。

 御室は鳳凰登山道の最要所にして、殊に蘆倉より登山するには、ここに一泊するをもっとも便とす。将来小屋を再興することは、きわめて必要なるべし。

 多重の犬は、ここにてなにを認めしか、今来りし方を見返りして、二三声吠るや、恐るるごとき唸りを発しつつ、主の傍に寄添えり。人か獣か、何者かござんなれと、一同彼方を打守り、余は手早く双眼鏡にて草叢、木立の間を仔細に点検し、しばらく待ちしが、目に触るる怪しきものも無し、その内犬も唸りを止めたれば、この原因ついに不明に終れり。もし獣にて岩鹿などならば犬の方より進むべきに、恐れたるは多少手剛きものなりしやも知るべからず。

 

御室出発

 

 休憩三〇分にして、九時一五分、御室を発し、西北にむかい、針葉樹間を穿ちて、山背を登る。展望は樹林にさまたげられ、充分ならざれども、傾斜はむしろ緩にして困難ならず。余は此間にて、リンネソウを得、また蝦蟇(がま)の路に蹲居(そんきょ)せるを見たり。斯る高距に生存することは珍らしと思わる。ようやく登れば喬木演じて、偃松、石南多く現れ、午前一〇時におよんで開斡なる山厳に出でたり。

 

薬師岳

 

 側に岩石の先立せる凸所あり、案内の亭主は薬師岳なりといえり。

(この薬師岳ほ余程疑問なれども仮にこれに従う)。

これより山背は稜々たる岩山より成り、連嶺の壮観はここをもって起点とす。余らは時なお早かりしも、弁当を開きてまた三〇分足を止めたり。今朝の晴天は御室辺よりしだいに曇りて、今はまったく遠望なく、前面野呂川の深谷は雲漲(みなぎ)り、群り起る雲霧は濠々身辺をかすめて飛ぶ。白峰見えず、仙丈ガ岳見えず、失望すること甚だし。

 山稜の左面に添い少しく行けば大岩の窪みに雨水を湛えたるあり。岩にふして一掬し、偃松の中を押しわけ行く。近く前方に尖立せる峰あり。これを右にしてその左方に出ず。案内者は観音岳なるものを知らざりしが、若し先のものを薬師とせば、これは観音にあらざるか。路傍に、オオビランジ、ヤマウイキョウ、キバナノシオガマ、タカネウスユキソウ、グンナイフウロなどを採集せり。

 観音岳と思いし峰の下にて、側射せる一山稜を横ぎれば行行喧々たる花崗岩の白砂を踏む。これより地蔵岳にいたるあいだは、峻岩稜々たる山背に沿うものにして、ほとんど一定の路なきも、山背より少しく左下の側面をたどるを便とす。

晴天に山稜の頂を上下せば、左右の眺望を同時に看取して、壮観なるべきも、本日のごとき曇天には、不必要なるをもって、余は易路を取れり。山背の右側は偃松透間もなく繁茂し、左側は等壊せる花崗岩砂よりなり、奇石これに交る。偃松白砂相映ぜるは、駒ヶ岳頂下のハゲに似て、さらに美なるものあり。惜哉白雲眼界を遮り、絶大の光景を擅にするをえず。

 薬師岳より一時間を資し、地蔵岳に着せるのは、一一時三〇分なり、花崗岩塊の集まれる隆起にして、山頂狭く方二間に足らず。参謀本部陸地測量部の二等三角標を建てたり。祭祀せる神仏は見当らず、案内者はこれを鳳凰山なりといいしがその誤謬なるべきは既に述べたるごとし。濠雲ますます多くして、近き鳳凰山頂の巨岩さえまったく見えず、案内者はこれより先には、来りしこと稀なりとて、天候を望み難色あり。余は鳳凰山に達せずんばもちろん止まざる決心ゆえ、うながして前進を続けしめ、頂上より少しく東北に下るに、一凸所に石造の小さき地蔵仏を多く安置せり。これ鳳凰山遥拝者の持ち来りしものと覚ゆ。鳳凰山にいたる路はその手前より左方の岩を伝うて下り行くなりしに、雲のため知らずして行き過ぎ、ここにいたって、路の消失せるに困却せり。ようやく誤りを悟って引き返し、北方を指して甚だしく下る。下り切りたるところに、岩石の露出せる個所あり、案内者はこれを賽の河原なりといえり。ここにてまた路を失いしが、右方の澤木林中に路の形あるをたずね出し、その入口に石を積み重ね、のちに来らんひとびとの道標となし、これを進む。

 

鳳凰山頂なる大岩下に達したり

 

樹下にはトリカブト、モミジショウマ花あり、またホタルブクロを見、ヒメシヤジンの一種を採る。山背の右側に添い、少しずつ登り行き、午後一時鳳凰山頂なる大岩下に達したり。

 ときに西南の強風、雲を撰し来り、雨をまじえて風物転じた妖宕を極む。白雲断続の間より仰望するに所謂地蔵仏は重畳せる岩壁の上に指を立てたるごとく共立し、下は太く、中頃より細くなり、頂の中央凹みて二共にわかれ見えたり。高さ十間あまりもあるなるべし、その状金峰山嶽なる五丈石に似て、ややおもむきをことにし、一層高くかつ鋭きものなり。

案内者はここにて終点なりとて行を止む。余はいかにもして岩下にいたらんと欲し、花崗岩砂の壊れ落たる斜面を登り、左方より迂回して岩壁を登攀せしが、嵐雨と雲霧に妨げられて方向明かならず、目的を達せずして引き返すの余儀なきにいたりぬ。

 登山前、余は書物により、鳳凰山はこの連山中の最高最壮なるものと深く記銘したるに、今親しくこの地蔵仏に来り見れば、いかにも岩石の壮観はあれども、その位置は地蔵岳よりも低くして、あたかもその支峰のごとく、予想とはよほど相違せしかば、あるいは案内者が労をおしみて鳳凰山まで導かざるにあらずやの疑も生じ、当時余の脳裏は「真の鳳凰山は、なおこれより先にあるに非るか」、「それとも、書物に鳳凰山を最高峰と記せるは誤謬なるか」などの疑惑に混乱され、目前の巨岩に対する崇敬と観察の熱度を減殺したるはぜひなかりき。

 万一雲霽(は)れなばこれらの疑問を解決し得べしと思いしも、不良の天候は容易に回復すべくも見えず、かつ時間も切迫せるゆえ、久しくここに止まるをえず、遺憾を偲びてついに帰途に着けり。

 前路を引き返して、二時一〇分地蔵岳にもどる。雲やや晴れ、初めて本山脈と野呂川沃谷の一部および白峰(北岳)を看望せり。白峰には残雪少々あり、地蔵仏はやや低く、北微西に位し、付近にこれ以上の奇抜なる峰も見えざるゆえ、やはり鳳凰山はこの岩なるべしと思いぬ。その左方には規模において地蔵仏を圧倒する岩壁の連山あり、駒ヶ岳に連なるものなれどもその名を知らず。かえりみれば砂白の山背は脚下より畝り、薬師岳は正しく東南に当りてこれが先鋒を成せり。ゆえに薬師より鳳凰にいたる山嶺は地蔵、鳳凰間にて著しく低下すれども、ほぼ鈍き「く」の字形を造り、地蔵岳は中部にありて恰もその屈曲点に聳え、じつにその主峰を成すものと思われたり。

 薬師岳に着きしは三時、御室にいたりしは同五五分なり。天候また悪くついに大雨となる。急坂を全速力にて下り、午後五時二〇分、青木湯に着せり。この日台ケ原に戻るかもしくは御坐石湯にいたるか考なりしも、登山に手間取りしと、降雨のためこれを故実し、またこの地に一泊せり。

一四日雨止まず、午前九時四五分強雨を冒し、ふたたび小武川に沿うて台ケ原に帰る。多重ほこのあたりの道路を詳知せるものゆゝえ、前日第五回の徒渉を行いし場所はその少し下流に橋あるを知り、難なくこれを横切り、八町横手を登りて橋無きところを避け、下黒沢を下りて河畔の堤防あるところに出で、橋四つを渡り、午後一時半、新奥に達して河を離れたり。小武川の水量は雨のため甚だしく増加し、徒渉は非常なる危険を免れざりしに、幸にしてその難を逃れたり。

 牧ノ原に出でず、山高に至り、実相寺域内なる神代桜を見物せり。幹の周囲おおよそ七尋半なりという。この付近にて有名なるをもって、一顧するに足るべし。大武川を渡り、下三吹に出で、午後三時三〇分台ガ原竹屋方に帰着せり。

 この登山において、むしろ意外とするは、山路の比較的容易なりしことにして、青木湯より以上、御室までの間には、少しく急峻のところありしも、概して危険なる個所は一も無く、ことに薬師、地蔵間のごときは、山背に沿うものにして最も楽なり。本山は一帯の連嶺を成すをもって、奥行長きは悦ぶべし。薬師岳より鳳凰山頂にいたる約二里のあいだは、あたかも天外に激立せる大波濤當踏んで、上下するに異ならず、もし快晴の日、ここに登臨せばその斡大なる光景は想像以上なるべし。

 東京より直接鳳凰登山を行わんには、韮崎にて汽車を下り、祖母石、青木を経て山越しを行い、青木湯にいたるべし。東京を早発せば即日、湯に達するを得ん。ただ好案内者を得る問わざるは、この地の大なる欠点なり。余の伴える鉱泉の亭主のごときは、素より案内者の資格なきものなりし。ゆえに余は蘆倉口のこれに優るべきを憶う。同地には猟夫多しと聞くを以て、山路に精通せるものを得ること容易なるべく、御室に一泊する準備をもって、出発せば充分なる観察をなし得べし。余は他日この方面より必ず再度の登山を試みんと欲す。

 本山の植物については、余のごとき初心者の容喙すべきかぎりにあらざれども、豊富ならざるはうたがいなし。しかれども従来採集を行える専門家無きゆえ精査せば珍種を発見し得る見込無しというべからず。余の採集植物に就き、教示せられし武田久吉君の言によれば、リンネソウ、タカネウスエキソウのごときは、未だ甲州の他山に産せざるものなりという。同君は余の行に遮るることわずかに旬余にして、特に鳳凰山植物研究のため出発せられたれば、本山植物は君により、初めて世上に紹介さるるにいたるべし。

 

 (付記)武田君帰来、余に語られたるところによれば、君は余とまったく同街路を探り、青木湯より登山せられたり、当日は快晴にて鳳凰山頂なる巨岩にも登攀することを得たる由、余は風雨のため功を一簣に欠きたる感なき能わず、その他砂私、薬師、観音、賽ノ河原などの位置につき所見を語られたり。またそののち御室の小虫につき、同君より報告あり、右は於村博士の検定によれば、メスアカケバエなるものなりという。

余は君が詳細なる観察を発表せられて、本山に関する余の誤謬と脱漏とを指摘せられんことを切望す。

 

辻本満丸氏は、日本山岳会の初期会員で山岳界発展のためにつくした功績は大きい。本稿は、『山岳啓一年三号』より転載した。

 

御室、南御室、御座石などの名は、その当時の名残だと伝えられている。

地蔵仏は高さ約十八米、極めて印象的なオベリスクで、甲府盆地からでもよく注意すると認めることができる。それは、鳳凰山のシンボルのように立っている。その巨石に初めて攣じ登ったのはウォルター・ウェストンで、明治三十七年(一九〇四年)の夏であった。ウェストンの 『日本アルプスの登山と探検』は有名だが、その後に出た

ThePgrOundOftheFarEast。は割合知られていない。その本の中に地蔵仏のクライミングが委しく書かれている。

 二つの巨岩の接合部に、高いチムニーが入っている。ルートを観察して、彼はまず低い方の岩の凸角の上に出ればいいと見当をつける。彼は小さな棚の上に立って、人夫に命じてピッケルで足許を安定させながら、接合点の頂上のクラックに向って、八十フィートのザイルの端に結びつけた。

 

鳳凰山(二八四一米)

 

 鳳凰山とは、現在では、地蔵岳、観音岳、薬師岳の三峰の総称になっている。この三峰がそれぞれどの峰を指すかについては異論もあるが、ここでは五万分の一「韮崎」図幅の示す所に従おう。

同図幅では、観音、薬師を鳳凰山とし、地蔵岳は別にしてあるが、やはりこの三峰を含めて鳳凰山と呼んだ方が妥当と思われる。

 地蔵岳の絶頂に、二個の巨石が相抱くように突っ立っている。古人はこれを大日如来に擬して尊崇したところから、法皇山の名が生じたと言われている。その後徳川時代の中期から地蔵仏の信仰が盛んになって、この巨石も形が似ているので地蔵仏と呼ばれるようになった。私が登った頃には、地蔵岳の下の賓の河原と称する所に、昔の信仰登山者のおいて行った小さな石の地蔵が、壊れた形で散らばっていた。

 

 またこんな伝説を読んだこともある。天平宝字二年(七五八年)五月、剃髪して法皇となられた孝謙天皇が、夢のお告げによって、遥か東国の早川の上流奈良田に遷居された。天平宝字八年、南都に還幸して重昨されたが、それまで七年間奈良田に滞在され、その地を山城国奈良に因んで山代郡奈良田と名づけられたという。法皇及びその従者は奈良田滞留中に芦安から北の山に登られた。即ち現在の鳳凰山であって、それは法皇山から来たものである。 

 

石を投げかける。幾度も失敗してやっと石がクラックにはさまった。彼はザイルを左手につかんで、一歩々々苦しい登りを続ける。突き出た岩のブロックのため、ザイルに頼ることができなくなり、それから指先で身体を保ちながら、ようやく、低い方の岩の上に出る。そこから最高点までは殆んど垂直であったが、比較的易しく、手や足のホールドもしっかりしていた。そして遂にクライミングを完成して頂に立った。

 おそらくこれがわが国でアルピニズムの最初であり、そしてまた岩登りの記事の最初だろう。

 

「四、五フィート平方の小さな台の上に立った。それがホーオーザンの最高点であった。私は大満足をおぼえた。私の生涯で初めて、いまだ人間の足の印せられたことのない頂上を踏んだからである。」

 ウェストンの地蔵岳の初登攣は、彼に伴なった猟師たちの間にセンセーションをおこした。彼等はウェストンに向って、あなたはあの神聖なむずかしい岩の上へ初めて立ったのだから、山麓にお社を建てて神主になれと勧めた。牧師ウェストンにとって、こんな珍妙真義的申し出は初めてだった。

 地蔵仏の第二登は、それから十三年経て完一七年の十月、神戸のドーントの率いる三名のパーティによって成された。このパーティは芦安の三人の熟練した強力に導かれて、北側から登り、ウェストン・ルートを下った。

 私が最初に登ったのは、昭和七年(一九三二年)の秋だったから古い話である。小林秀雄と今日出海の二君が一緒だった。いま手許に残っている当時の古い写真を見ると、二人ともワラジに脚絆という、甲斐々々しい恰好をしている。

 その時私たちは韮崎でガイドを雇って、青木湯からドンドコ沢を登った。手を使って攣じ上るようなこの急坂は、山に初見参の今君には少し残酷すぎるようであった。「初っぱなからひでえ所へ連れて行きやがった」と彼特その後よく述懐したものである。ドンドコとはどん意味か知らないが、何となくこの急峻な沢の感じが出ている。その夜は北御室小屋で明かし、翌日地蔵仏の下まで行ったが、巨岩へは登らなかった。小林君はそれが山の病みつきとなって、その後屡々私と山行を共にするようになった。

 






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最終更新日  2020年06月08日 18時07分24秒
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