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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月08日
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カテゴリ:甲斐の山資料室

甲斐の山旅・甲州百山 大菩薩嶺

 

(だいぼさつれい 二〇五六・九メートル)

 

 著者(敬称略)

蜂谷 緑(はちや・みどり)

本名、近藤緑。一九三二年、岡山生まれ。文化学院卒。戦中戦後を安曇野に過し、短歌・演劇に興味をもつ。都立小松川高校時代、「祭」により高校演劇コンクール創作劇賞を受賞。以後「悲劇喜劇」誌に戯曲を発表。のちに山に親しむようになり、雑誌「アルプ」に紀行文を書く。日本山岳会会員。最近は山梨県勝沼町に仕事場をもつ夫と共に甲州の山々を歩いている。著書に『常念の見える町』(実業之日本社)、『尾瀬ハイキング』(岩波書店)、『ミズバショウの花いつまでも』(佼成出版社)ほか。

 

小俣光雄(おまた・みつお)

一九三二年、山梨県北都留郡大鶴村鶴川生まれ。明大仏文科卒。一九五七年、東斐山岳会を創立し、一九七〇年代前半まで、県内でもっともユニークと言われた会の運営に当たった。一九七七年、上野原町内に執筆者を限定した雑誌「雑木林」を発行。同年、写真研究・五入会を創立し、主として町内西原地区の撮影に没頭、一九八七年、個展『西原の人々』をNHK甲府放送局ギャラリーで開催した。上野原町文化財審議会委員。住所・上野原町鶴川一八七~一

 

山村正光(やまむら・まさみつ)

一九二七年山梨県生まれ。一九四〇年、甲府中学(現甲府一高)入学、山岳部に入る。爾来、主に南アルプス全域に足跡を印す。一九四五年、国鉄に入社。一九八五年退職。その間、一度の転勤もなく、四十年間、甲府車掌区在勤の車掌として、中央線、新宿-松本間を約四千回往復。同年、『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)を上梓。現在、朝日カルチャーセンター立川で山登り教室講師、日本山岳公会員。

 

《編集協力》コギト杜《地図編集》中川博樹《地図製作》GEO

初版第一刷発行 一九八九年十月三十日

第三刷発行 一九九〇年四月二十日

発行者 増田義和 発行所 実業之日本杜

 

旧青梅街道が通っていた大菩薩峠。中里介山が描いた修羅をよそに頂稜からの展望は天下の絶景。

 俗に“あまんじやく”といわれる性格なのだろうか、私は、あまり人の行く山は敬遠していた。だからお膝下の勝沼に足場をもちながら、峠にまします菩薩様には久しく礼を欠いていたのである。

 ある秋の朝、時雨もようではあったけれど、せっかく仲間も揃ったことだし、晴れ間を待って出かけることにした。

 もちろん私は、この峠が中里介山の小説にゆかりのあることは知っていた。案内書を開けば必ずといってよいほど、「大菩薩は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く敢も険しきところ……」と冒頭の一節が引用されているからだ。

 この峠に立つからには、「まず小説を読もう」と思った。文学好きの友人が、すぐに文庫本を数冊、送ってくれた。添えられた手紙には「これくらい読めば充分」と書いてあった。全二十巻、それでなお末完と聞いて、映画や芝居で想像していたのとは大違いな大作であることを知った。

 小説「大菩薩峠」は、読むほどに私を捕虜にした。ところが話はどんどん大菩薩峠からそれて行く。机竜之介というニヒルな剣十を軸にして、舞台は幕末の江戸・京都をはじめ各地にとび、登場人物の種類も殿様、侍、百姓、町人から最下層といわれた人々にまで及んでいる。介山はこの小説で、人間界の曼陀羅を描こうとしたらしいから、どこまで書いても果てしないのは当然かもしれない。

 その日、長兵衛山荘まで車で入り、ハンノキ坂からカラマツ尾根を登っていった。(もや)がたれこめてはまた晴れるということの繰り返しで、ハイカーと出会うこともなく、あたりは秋の花の真っさかりだった。しっとりと露をふくんだマツムシソウ・ヤマトリカブト・ヤナギランといった花々が咲き競い、波のように揺れていた。

 雷岩で昼食をとったあと、大菩薩嶺を往復してから、峠へ向かう。下界は五里霧中、まるで展望のないまま妙見の頭を通りぬける。昼のワインの一杯がきいて、ひどく眠くなってきた。ちょうど宴の河原にさしかかる頃の私の様子は、さだめし盲目となった机竜之介よりもおぼつかない足取りであったろう。

 やむなく休憩所でまどろむこと二〇分、ようやく峠に立ったときには、かたわらの介山荘は、もう今日のお客はないものとして早々と戸を閉めようとしていた。

 下山した私たちが姫ノ湯沢で一息入れているとき、ジープから降りたった小屋の人達と、ふたたび顔を合わせることができたのは幸いだった。そこでの立ち話で聞き出したところによると、目の前にある藁葺き屋根の家屋が、先代の益田勝俊が建てた「勝縁荘」で、その裏手には介山が滞在して執筆した離れがあるという。

 私たちがすぐさま「三界庵」と名づけられた別棟を訪ねたことはいうまでもない。雨戸をたてきったままのその建物は、ひどく傷んで見えた。玉屋と同じく、「三界庵」の屋根も、藁の間から雑草がのびていて、放ってはおけない状態のようだ。車道が延びて、大菩薩峠が日帰りの山になったいま、こうした建物を維持・管理していくのは、後継者にとって、さぞ頭の痛いことだろう。

 帰りがけ、やはり雲峰寺に寄っていこうということになり、私たちは自動車をおりて、寺に続く見上げるような坂道を登って行った。

 天平十七年(七四五)六月十七日、にわかに大地が振動して石の裂けるのを見た憎行基が、石の間から出現した萩の大木をもって仏像を刻み、そこに寺を開いたという。裂石山雲峰寺の由来である。たそがれどき、無理を言って拝観させてもらったこの寺の造りは面白かった。奥座敷からは盆地に続く街道が見え、ここが武田館の鬼門として大事にされてきた理由がわかるような気がした。武者隠しという揚げ梯子の隠し部屋があるのもうなずける。

 また、この寺には武田の旗印が収蔵されている。例の「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」を記し

た孫子の旗、さらに甲斐源氏の嫡流を表す日本最古の日章旗などもある。いずれも大きな旗で、落武者が持て余したのも無理はない。

 天正十年三月、武田勝頼が岩殿城へ向かったことを聞いた真田昌幸が、急濾、信州上田から救援に駈けつけるが、ここ雲峰寺の近くで武田方の兵に会って主家の滅亡を知らされる。そこで彼らが山中に捨ててきた旗印を拾い、せめて供養にとこの寺に納めたといわれている。

 それなら武者隠しに匿われたのも、武田の残党ではなかったろうか。織田方の追手が追ると見て、二階から廂(ひさし)づたいに庭にとび、裏山にかけこむ男たちの姿が、ほのぐらい木立の蔭に動くような気がした。

 

* シーズン中は上日川峠までタクシーで入れるから、所要時間はかなり短縮できる。首都圏からの日帰り山の山として、もっとも人気のある山の一つ。

〈参与タイム〉塩山駅(バス二五分)大菩薩登山口(二時間)上日川峠(一時間三〇分)雷岩(大菩薩嶺往復二〇分)大菩薩峠(四〇分)上日川峠(一時間二〇分)大菩薩入口(バス二十五分)塩山駅

 






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最終更新日  2020年06月08日 18時17分15秒
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