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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月10日
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芭蕉 枯れ枝に鳥のとまりたるや秋の暮れ

 

  資料 『芭蕉の一生』大正10年 小林一郎氏著

  一部加筆 白州ふるさと文庫

  【註】素堂の伝記に於いては数か所間違いが見えるが、そのまま掲載した。

 

 『次韻』といふのは、伊藤信徳の『七百五十韻』に次いで作るの意で、翁と其角・才丸・揚水と四人の連句二百五十韻を以て成るものである。

信徳は貞徳流の古風な談林の俳諧との外に、別に一機軸を出そうという意気込みで立ったので、翁(芭蕉)また之に次いで立ったものである。

しかし翁と信穏とは其の才の大小もとより比すべきでない。

されば去来が『先師の次韻起りで信徳が七百韻寂ふ』といったのは、決して自画自賛の話でなく、此よ

り翁の一門のみ盆々盛運に向ったのである。

さて此の『次韻』の句は如何ようのものであるかというに、

 

鷺のあし雉の子脛長く繼そへて   桃青

    這句以荘子可見矣       其角

潭骨の力たはしうなるまでに    才丸

   しばらく風の松にをかしき    揚水

音更て槇の板戸をこぢ放す     桃青

   枯行く宿に冬子うむ犬      其角

血を踏て風太刀を折る音ひどく   揚水

   古沓をとりて野邊に枕す     才丸

飛雨臺の跡は霞にしきぞ     桃青

   故園今とへば蘭腥(生臭)し   揚水

 

いかにもその修辞法に於いて貞徳派や談林の外に出たのは見えるが、その観察に於いては格別に深いものでは無い。殊に其角の『這句荘子を以て見るべし』と附けたのなどは唯だ衒気の満々たるを見るのみである。更に他の連句を見るに、

女の影諮ると見えてあと凄く    桃青

    若衆気にしてやつれ凋るゝ   揚水

ストント茶入落しては命とも    其角 

    取あへず狂歌つかまつる月   才丸

秋の末つかた嵯峨野を通り侍りて  揚水

    薄の院の御陵を訪ふ      桃青

夢の身は何と松魚にさめかねて   其角

    我聞く俗は口にきたなき    才丸

生つらを蹴くぢかれては念無量   揚水

    泥坊消えて雨の日青し     桃青

 

といふやうなのもある。是れは前のに比べて叉一層軽俘の気が多くて、談林と相距る幾干も無き感がある。翁の正風は『次韻』より始まるといふ説が有力であるけれども、それは讒(?)かに一二歩を進めたといふべきで、未だ正風らしい気品が具わったとは思われぬ。

 

 然るに此と同じ頃に図らずも翁の天才の発露した一名句が現はれたのである。

それは『枯枝に鳥のとまりけり秋の暮』の句である。

これは『あら野』の中に出ている。『あら野』は元緑二年に出来た集であるが、此より前に延宝九年池西言水の出した『束日記』の中に此句が見免てゐる所を見ると、延宝八年頃の作たこと疑ひなき所である。ただ此の時には『とまりたるや』とある、後に『とまりけり』と改めて『あら野』に入れたのであらう。  

それで前の時には山口素堂の脇句がある、

  枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮   桃青

     鍬かたげゆく霧の遠里     素堂

 

両句相俟ってまことに閑寂枯淡の趣を盡して居る。

時は秋も末りかたで紅葉名大かた散り盡した頃であらう。日は今しも名西に没して、あたり小暗くならうとするに、群を失うた一羽の鳥が枯木の枝に止まって、寂しげに野路を見おろして居る。その野路を一人の農夫が鍬をかたげて、疲れた足を運んで行く。今日の働きを終りて家へ帰るのであろうが、遠くは霧深く籠めて人里らしいものも見えぬ。まことに一幅の好畫図である。

 

翁の常に崇拝していた西行は好んで秋のけしきを詠じ、

『心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ澤の秋の夕ぐれ』

の歌殊に世に知られている。しかし此の歌の上の句は全く設明に堕ちて越を損する事と甚しく、遙かに翁の句の妙なるに及ばぬ。

翁のは『鳥のとまりたるや』と詠歎したる中に、あはれも佗しさも、皆含まれである。後に「ととまりけり」と改めて、詠歎の意更に深くなつたやうである。之を『次韻』及びその以前の句に比べて見ると、仝く別人の手に出たるの感がある。之については種々の説があって、或は翁と季吟と素堂と相会して俳諧の革新につき熟議し、翁に其の任に常らんことを勧めた時、『然らば斯ういふ體では如何』とで此句を作ったとの傳へもある。

或は翁が談林の連中と一座の時此の句を吐いたので、一座皆駭(おどろ)いて席を議つたとの傳へもある、いづれも信ずるに足らぬ説ではあるが、以て此の句の如何に多くの人々の注目する所となったかを推すべきである。

 叉季吟と素堂と三人で熟議したといふやうな説の生まれるのに相応な理由がある。季吟の門下に於いて師を凌駕する程の力のある人は、実際翁と素堂との二人より外に無かったのである

随って此の二人が互いに相許し、生涯美しい友情分保ち続けたことは、眞に芸園の一佳話である。

素堂は寛永十九年の生れであるから、公には二歳の兄であるが、翁よりも余程長命で享保元年七十五歳にして没した。甲州巨摩郡の人でその家頗る富み、且生まれつき多才多能であったため、柿春斎の門に入りで儒學を修め、清水谷家に就て和歌を學び、北村季吟に連歌を學び、俳諧に於ては西山宗因、伊藤信徳

及び翁等を友とした。叉茶道に於ては今日庵宗丹の高弟で、後に今日庵三世となった。その外香道にも通じ宝生流の謡いを能くし、まことに風雅達識の士であった。甲州から江戸へ出たはじめは東叡山の下に住んで素道と號し、諸藩に出入して儒學を講ずる傍ら風流の交りを諸人に結び、頗る尊敬せられていた。

その後翁が深川に居を定めた頃に彼も其の近くなる葛飾の阿武に居を移し、日毎に往来する事が出来るやうになったので、交情は愈々厚くなった。後に翁の詠んだ

  川上とこの川下や月の友

といふ句は素堂を懐うたものと傳へられてある。翁も大に之を推重していたやうである。

 素道を改めて索堂と號したのは葛飾へ移って後と思はれる、はじめの俳号は信章といったので、彼の『春二百韻』その外には信章の名で出て居る。其の葛飾の庵の庭に池を穿ち白蓮を植ゑて晋の恵遠の漣社に擬し。

  浮葉巻葉この蓮風情すぎたらん

 

と詠じたる如き、自ら許すの極めて高きを證するものである。固より常時の俳人なるものに深き素養のあるものは少、ただ句を作るの巧拙を以て互ひに品陟するのみであった中に、索堂は選を異にする人であったから、人よりも重んぜられ、又自分も大に許してゐた筈である。翁も之を素堂先生と称して、他の同人とは別のあしらひをして居た。而して素堂は叉深く翁に推服し、自ら甘んじで其の門人の列に入り、翁

の没後彼の定休院の境内に桃青堂を建て、西行と翁との像を安んじ、永く追慕の意を表した。此の一事を以ても翁の人物の非常に高かったことは想像せらるべきである。

 

殊に面白いのは赤貧洗ふが如き翁と富裕なる素堂とが斯く隔てのない交際を結んでいたことである。むかし西行は翁に追慕せらるゝ程の高潔なる人物で、歌の道に長じたことは其の当時一般認める所であったので、一寒僧の身として堂上方とも交りが深かったやうである。この點は翁も百行もよく似てゐる。而して西行は清く世離れた歌をよんで、当時の繊巧なる歌風と全く懸け隔っていることを特色としたにも拘はらず紳縉の歌合その外の催しのためには、随分其の時代の訓と一致したやうな作を試みてゐる。之を翁が自ら正風の二一派を開いて、少しも其の主張を改めなかったのと比べると、その識見に於て大なる差を見るのである。

 

翁と素堂とが季吟をかたらひで俳諧の革新なを謀ったといふ説は虚妄であるが、翁と素堂等が自ら俳諧の革新を謀るべき任を負はされたる人々であつたことは事実である。

 






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最終更新日  2020年06月10日 19時34分42秒
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