カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
芭蕉は火災の後、甲斐には来ていない 親族 次郎兵衛が語る
その年改元にて天和元年になる。江戸の惣連にて、その元芭蕉庵の留守居として、參居候頼に付、半左衛門殿より御上(藤堂佐渡守)に達しに成り、天和元酉十二月二目に、伊賀を立ち、同く十二目に深川に着、同二年同月迄滞り居候處、母壽貞病気のよし申琴、四月十五日に伊賀に帰りけれは、母長病にて養生叶はず、七月十二日に相果候。それより玄番町の御屋敷も無人に候故、諸事御不自由にて迦(はつ)しも成がたく、深川行も成かね、其年は小坊甲斐々々しく取烈し廻し過ぎ候。 その年十一月下女下男置き揃え、諸事仕付置、十二月十八日に伊賀を立ち、廿九日に深川に着き、年の仕廻り事終り、二年三月まで居候處、半左衛門様御所労と申參、四月朔日に深川を立、同十日伊賀に帰る。御病気も御疝績にて五月御快気、母が一周忌ちかく候故、此追善を仕廻いて打ち立んと存たる所に、七月四日よりやつがれ■疾相煩い、よふよふ■中に母が追善仕廻り、盆後より日■と相成、九月の五日に■落、■後力なく,それ込にも小坊ひとりにては、深川心もとなくに、御不自由なるべき間、十一月打立んざ存候えども、旦那御夫婦甚心遣いひし給い、病後故冬中は見合、春の暖気に参る様頻りにとどめ給う故、江戸にも右之通り申し遣わし候處に、
その十二月廿八日江戸大火の由伊勢津の御本家に早飛脚参り、伊勢より上野に申参候。しかも深川辺一宇も残らず焼失したる由、甚心遣いに存,取あえず天和三年正月六日に上野を出立いたし、十一日の暮れ頃江戸に入込み、見る所深川辺一帯も残らず焼失したりと見えたり。最も板囲いになりたる屋敷もみゆれば、渡によりては川向うなどは煙臭き所もありと見えたり。 芭瑞庵は何処ならんと段々人に聞きけれど、知りたる人なし。そこよ、爰かと尋ねる中に医者らしき人に行逢いたり。尋ね候えば、芭燕翁の事なれは、二本榎の上行寺といえるに引のき給えりと。 その夜の御物語に、芭蕉翁にも漸危ない事に御遭いなされたり.小坊か事心にかゝりけれども,我に気遣ひし給ふなど一散に駆け出たり、四方より焼きかゝり候故迯(にげ)先は無し、幸い小川近き故、川に飛び込みしに、川の中まで姻は本より,火か吹切り吹切り波の上に襲い来る。幸い古き蓑の一つ流れかゝりし故、その蓑をもちて打ち払い打ち払いしたれども、蓑に火燃つきし故投げやり、ずぶりと川に浸り、頭ばかりを出し居けれども寒気は甚しく、貎に炎吹きかけ絶え難く、既につまり焦れ落べき苦しさを時々水中に浸りてはあけあけ、もはや水に流れ行くべきかと思う中,風が吹かわり火も煙りも吹なびきけり。それより焼死べき難は逃れけれども、今迄は水の寒さも覚え去りしが、また水中の寒さ氷りの地獄もかくやあらんと、既に凍り死なんて覚悟しける。 やゝあって火もそろそろ湿り加減になりけるにぞ、何分にも這い上がらんと思い、浅みに寄らんとそろそろさ歩みよれども、足のふみ所たまらず、石に取つかんとしては打ち倒れ倒れ、その中跡先を見廻わせば、上より流れ来たる諸道具限りなく、また人の流れ来る事幾人と云事数知れず。危難の中にも無常を観て、我も流るゝ人数なるべきに、不思議に免れたるは、いかなる佛神の御加護やらんと、水に浸り居る中に、先我氏神一の宮南宮の社を拝し奉り、次に首にかけ奉りし出山佛を念じ、観音経を誦し、父母の尊靈を一心に逍拜し、もう少し浅みによらばやと思い居たるに、大きなる櫃様の物二つ三ツ流れかゝりたるを捉え、手に纏いかゝり、曳はなされて、二三間なかれければ、此時こそ玉の尾の限りならんと、思の外の浅みにて、命かぎりに這上りけれは、この時こそ玉の緒限りならんと、思いの外の浅みにて命限りに這い上がりければ、誰とも知らず引揚げたり。それより人々の介抱に預かり、命を助かりたり。世に人も多けれども、かかる危きを逃れたるは、この芭蕉一人なるべし、落涙して物語給いけり。小坊めが行衛いかがと案じ居ければ、根本寺に駆け入けりとや。(此下欠文)
天和三年に朝鮮人来朝の事あるによって、失火類焼の御殿、佛閣、武家、町家、造営造作さし急ぎ候様にご申渡しに相成、深川邊は五六十日には、大半作事成就になる。 芭蕉庵も受門人より四十四五日には移徒ありけり。しかれども翁は中橋の沾徳、茅場町其角、本所の素堂、堀江町不ト、呉辰野調和、浜町の嵐雪、其外所々に招かれ給い、庵に帰り給う事は稀也。我も庵の留守居を相勤め、四月伊賀に帰り、また六月に江戸に行、また十一月伊賀に帰り、翌正月十八日伊賀を立、廿九日深川に着せり、その年天和三年也。丸二年の内に大火の跡一軒残らず、家々成就しにけり、江戸の大揚なる事驚かれけり。此数年大阪の宗因と云人あって俳諧の宗匠たりしが、其前年三月十八日とかに相果申されけるとぞ。其門人残らず、はせを(芭蕉)門人となられける。 深川には、日夜百人斗出入にて幸しく、小坊も十八九故、余程御為になり(此の文不案也)大切に御勧申され、この年は翁も故郷に一先御帰りの心にて居ましけれど、余りそふそふしければ留まり給い、来年と究め給いて諸国に其事申遣給いけり。 京の去来、凡兆。近江の千那、李由、其外賀々、奥州、出羽、伊勢、長崎、美濃、尾張、伊勢夥しく日々市をなす。 諸事の事を、ちゑ小坊功ンに教え置き、我は深川に五月迄滞り居候へども、森川許六と申、近江彦根の御士ヒ帰国政、御供の黨勢に加わり、木曾路にて帰国仕候。 五月六日立、十八日に伊賀に着。翁は全体虚弱なる御性質故、去年の水難以後、積気猶又起こり一しと存じ候得共、左程にも無之、国元よりも其遣いありけれ、還って壮健にましましければ、江戸より申ても参らず、御一類よりも安心なりけり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月10日 19時44分24秒
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