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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月10日
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▽素堂、『六百番俳諧発句合』内藤風虎主催。発句二十入集。

(俳号、信章)

諸国の俳人六十名により発句を四季別に二名毎に百五十組合せ、それを釋任口・季吟・維舟に判をさせたもの。

主催する岩城平城主風虎、息、露沾に意図的に花を持たせる結果となっている。

 

十九番 試筆   鉾ありけり大日本の筆はじめ     信章

 元旦     蓬莱や山の栢あるけふの春      千春

四七番 霞       見るやこゝろ三十三天八重桜       信章

七五番 帰鴈     ちるを見ぬ鴈やかへつて花おもひ   信章

百三番 上巳     海苔若汐干のけふそ草のはら       信章

百三一番 花     夕哉月を咲分はなの雲             信章

五九番 時鳥     返せもとせ見残す夢を郭公         信章

八七番 初鰹     初鰹またしとおもへば蓼の露       信章

二百十五番 蛍   戦けりほたる瀬田よし参合         信章

四三番 納涼     峠涼し沖の小島のみゆ泊まり       信章

水無月やいちかきにけん裸島       幽山

七一番 土用干  富士山やかのこ白むく土用干       信章

三百二九番 鬼灯 鬼火や入り日をひたす水のもの     信章

五七番 鹿       むさしのやふしのね鹿のねさて虫の聲 信章

八五番 紅葉     根来もの強みをうつせむら紅葉     信章

 

四百十三番 月   宗鑑老下の客いかに月の宿         信章

四一番 砧       正に長し手織袖につちの音        信章

六七番 冬籠     乾坤の外家もかな冬こもり         信章

九五番 茶花     茶の花や利休が目にはよしの山     信章

五百二三番 凩   凩も筆捨にけり松のいろ       信章

        鱈   釣竿や霜をつらぬく雪の上         風虎

五一番 雪       何うたがふ弁慶あれば雪女         信章

    氷       あまの息もおもふや氷る筆のうみ   言水

七九番 ふぐ     世の中や分別ものやふぐもどき

 

《註》… 勝負付け(抜粋)

内藤風虎 勝    十八    持ち 二(引分) 負 0

露沾        十六       四           0

北村正立        十一       六           三

高野幽山         九       六           五

松尾桃青         九       六           五

山口信章         四       十           六

 

    この時期の素堂

素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。

素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』『桜川』の編集に宗因を関わらせた。

風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。

素堂と内藤風虎(ないとうふうこ)

生年:元和五年(1619) 

没年:貞享二年(1685)  

年六十七才。

 風虎は寛永十三年(1636)に十八才で従五位下、左京亮に叙任。寛文十年(1670)素堂二十九才のおり、猟虎(内藤頼長・義概)は父忠興の隠居により、五十二才で陸奥国岩城平七万石の城主になる。

俳諧作品の初出は『御点取俳諧俳諧百類集』。北村季吟・西山宗因・維舟らと深い交流が見られる。又和歌や京文化へのあこがれも強かった。

 素堂は通説では致任して市中から不忍池畔の池の端に住居を移し、寛文年間初期から、風の江戸桜田部の「風虎文学サロン」の常連であったと諸研究書に記されてある。風虎の父、忠興は大阪城代を勤めた時期もあるが、文人としての活動は不明である。素堂が風虎の文人交友者を通じて文人の道に入ったことも推察できるが、寛文十年頃は素堂は未だ何れかに勤仕していたのである。素堂が生まれてから寛文七年の初出『伊勢踊』までの歩みは不詳部分が多くあり定かには出来ないが、何れにしても内藤風虎と素堂の関係解明が必要である。風虎の文人としての活動は息子露沾に引き継がれるのである。

風虎の別邸は鎌倉にあり、素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は鎌倉で詠んだものであり、年代から押しても風虎の別邸で詠んだ可能性が高い。

又水間沾徳を内藤家に紹介したと伝える書もある。延宝五年の風虎主催の『六百番俳諧発句合』に素堂も参加してその中の句「茶の花や利休の目には吉野山」は、長年にわたり書俳書に紹介されている。

 

素堂と内藤露沾(ないとう ろせん)

生年:明暦元年(1655) 

歿年:享保十八年(1733)  

年七十八才。

本名内藤義英。陸夷国岩城平の城主内藤義概の次男として江戸赤坂溜池の邸生まれる。(素堂十三才の時)家中の内紛により延宝六年(1678)蟄居を命ぜられ天和二年(1682)二十七才の折り退進、麻布六本木に住む。

 素堂歿(享保一年)後、二年(1717)の夏素堂追善興行『通天橋』では序文を書して素堂との交友の深さを知る。露沾の門人、沾徳・沾圃・沾涼なども素堂の周りの俳人である。又芭蕉とも交友深く、素堂・芭蕉・露沾の吟もあり、共通した諸俳書にその名が見える。






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最終更新日  2020年06月10日 20時55分23秒
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