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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月10日
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山口素堂(内田魯庵『芭蕉庵桃青伝』より抜粋 一部加筆)

 

山口素堂が、束叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦天和年中なり。素堂は季吟門にして芭蕉が親友なり。名は信章、字は子晋、通称官兵衛といふ。甲斐巨摩部教来石村宇山口の人なり。代々山口に住むに依って山口氏と称す。山口市右衛門の長男にして寛永十九年五月五日に生る。幼名を重五郎と云い、長じて父が家を継ぎ家名布石衛門と改める。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富み、郷人尊称して山口殿と呼んだ。幼時より四方に志あり、屡々江戸に遊び林春斎の門に入って経学を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌を清水谷家に学び、連歌は北村季吟を師として宗房即ち桃青、信徳及び宗因を友とし俳諧に遊び、来雪又信章斎と号し、茶道を今日庵宗丹の門に学んで終に嗣号して今日庵三世となる。このように異材多能の士なれば、早くより家を弟に譲って市右衛門と称せしめ、自ら官兵衛に改めて仕を辞し、江戸に来て東叡山下に住み、素堂と号して儒学を諸藩に講じ以て業となし、傍ら人見竹洞、松尾桃青等諸同人と往来して詩歌聯俳を應酬唱和し、点茶香道を弾しみ、琵琶を調べ、又宝生流の謡曲を能くしければ、素仙堂の名は風流を璮にしたりき。(以上『葛飾正統系図』に依る。)

桃青はもと同門の友で、東下以来『江戸二百韻』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に素堂が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の仮寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往来し愈々親しく語らいける。素堂の号は此頃より名乗りしものにて、庭前に一淵の池を穿ちて白蓮を植え、自ら蓮池の翁と称し、晋の恵遠が蓮社(*彗遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉巻葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隠然一方の俳宗たり。

一説に芭蕉は儒学を素堂に学びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど昔時の俳人を案ずるに、季吟の古典筆者たるを除くの外は連歌に精しき者の随一流の識者として、素堂程の学識ある者は殆ど其比を見ず。芭蕉は稀世の天才にして且つ季吟が国典に於ける衣鉢を継ぎたれ共、素堂如き才芸博通の士に対しては勢い席を親らざるを得ざるべし。且つ縦令師事せざるも文辞の友を結んで益を得たるは、恐らく朱当の推測にあらざるぺし。芭蕉の遺文を案ずるに、其角丈と云ひ杉風様と呼ぶ中に、独り素堂先生と尊称するを見るも亦尋常同輩視せざりしを知るに足る。

されば枯枝の吟に於ける口伝茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『三日月日記』に漢和の格を定めたる如き、若くは某日庵に伝ふる芭蕉・素堂二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『績猿蓑』の「川上とこの川しもや月の友」を以て素堂を寄壊せるものとなす如き、皆素堂と芭蕉との浅からぬ関係を証するものにして、芭蕉が俳想の発展は蓋し素堂の力に待たるもの多かりしなるべし。素堂伝に芭蕉と隣壁すとあれども、素堂は阿武に住し芭蕉は六間堀に萬したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。当時深川は猶葛飾と称し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草食の相列びしものならん乎。

因に云ふ。元緑八年、素堂五十四歳の時帰郷して父母の墓を拝せし序、前年眷顧を受けたる頭吏櫻井孫兵衛政能を訪ひたりしに政能大に喜びて云へらく、笛吹川の瀬年々高く砂石河尻に堆積して濁水常に汎濫し、沿岸の十ケ村水患を蒙むる幸甚しく殊に蓬澤及び西高橋の二村は地卑くして-面の湖沼と準じ釜を釣りて炊き床を重ねて座するの惨状を極め禾(イネ)穀腐敗して収穫十分の二三に及ばざるに到れば百姓次第に没落して板垣村善光寺の山下に移住するもの千戸に達し、残れる者も其辛楚に堪えざらんとす。数里の肥田は流沙と変じ、将に野に充ちんとする酸鼻の状は苦痛に耐えざれども独力経過の難き歎ずる折から、足下の来れるのは幸ひなり。願くは姑く風月の境を離れて我に一骨の力を貸して民人の為に此患を除くの画策をなさゞらんやと。

素堂慨然として答へて云ふ、「善を見て進むは本より人の道なり。況してや父母の国の患を聞いて起たざるは不義の業にして我が不才も之を耻づ。友人桃青も曾て小石川水道工事の功を修めたれば一旦世事を棄てたる我も君の知遇を受けて爭でか奮顱せざらんや」と。終に承諾しければ、政能大に喜び公聴の許を得んとて江戸に出立しける。

 出づるに臨みて涕泣して沿道に送れる十村の民に向ひ、「今度の素願萬一被許相成らざる時は今日限り再び汝等の顔を見ざるべし。今よりは萬端官兵衛が指導を仰ぎて必ず其命に背達する勿れ」と云ひて訣別しぬ。禿顱の素堂再び山口官兵衛と名乗りて腰に両刀を帯び日夜拮据(奔走)勉勵して治水の設計を畫策しぬ。斯くて其翌年孫兵衛政能公許を持って帰郷しければ素堂、孫兵衛は協議して大設計を立て、夙夜営々として事に従い、西高橋村より南方笛吹川の堤後に沿て増坪、上村、西油川、落合、小曲に到るまで、新に溝渠を通じ土壌を築く事二千間余、疏水の功全く落成せしかば、悪水忽ち通じて再び汎濫せず、民人患を免がれて一度他地に移住せしものも郷土に従帰して祖先の墓を祀る幸福を得るに到りしかば、民人崇敬して猶生ける時より祠を蓬澤村の南庄塚に建て、政能を桜井明神と称し素堂を山口霊神と敬して年々の祭範久しく絶えざりしといふ。

素堂は其後再び江戸に来りて俳諧に遊び、亡友芭蕉の為に定林寺の域内に桃青堂を建立して西行及び芭蕉の像を安んじ、『松の奥』及び『梅の奥』の秘書に永く某日庵の俳風を残し、享保元年八月十五日七十五の壽を以て終りぬ。

芭蕉が水道遺事は広く人口に膾炙すれども然も精しく其蹟を尋ぬれば漠として捕捉しがたし。素堂が笛吹川の工事は多く知られずして却て赫々たる功は今に顕著たり。既に有志の多くは永く其功績を後世に薄さんが為、数年前素堂疏水紀功碑を建設したりと云ふ。素堂は決して尋常俳諧師にあらざるなり。

 

(『葛飾正統系図』及び幸田露伴の『消夏漫筆』五十四に拠る。)






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最終更新日  2020年06月10日 21時08分56秒
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