カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
延宝8年 庚申 1680 素堂39才 ▽素堂、『江戸辨慶』発句二入集。言水編。 砂糖こそ歯ぬけ親仁の氷樣 言水 元旦 鳳凰か今朝鳥が啼吾妻の春 風虎 羽子板や今朝天降る の橋 露沾 死ぬ迄は定めて生舞千々の春 一鐡 宿の春何もなきこそ何もあれ 素堂 玉子の國すかすに清し日の始 幽山 蛍 蛍稀に點置けり池の星 素堂 紅葉 内袖の羅砂やしくれて村 青雲
▽素堂、『大矢数』入集。西鶴編。 巻之四 第二十九 何女 詠入て人魂降けり雪の風 ▽来雪 杓の貌は氷る山陰 西鶴 嶺の雲寄る敵を待請け 梅吟子 さて二段目は松の村立 友吟 階にのぼりて四方を見渡せば 松吟 民の龜や食時分也 友圃 用があらば月も後ほど出られよ 葉吟 留守をばつかふ秋風の聲 宗吟 物節季鴈の心はちいさうて 執筆(以下略)
巻之五 第四十二 連何 雀の子千さへ飛の大句数 西付 筆のはやしの續くほど花 西鶴 朝朗曲射の蓬萌出て ▽信章 ならひに引針さしもしらじかな 賀山 二合半我もむかしはけかしたか 賀水 通のはしに付懸の月 西演 山おろし鹿の出見世を拵て 燕山 霧たつ岑は兄がふまえた 澗水
【註】この『大矢数』の信章の項は紹介されているが、この当時は信章・来雪・素堂の号が入り組んでいて、この来雪号も否定できない。 【井原西鶴】- Wikipedia (いはら さいかく、1642年 - 1693年))は、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。
井原西鶴
【素堂の号、来雪について】 ▼『睦百韻』宝暦二年(1755)山口黒露編。 小叙 人見竹堂(洞)子、素堂を謂ひていわく、素堂は誰ぞ、山口信章なりと、かゝる古めかしき名ハ、当世知る人もあらず。雪は前号也。ことし雅君忠久(佐々木来雪)名を改め給ふる。其の旧号心つ□□その高稲の価値をしたひ行く一歩にや。むさし野の草の心がりによると、くりなき□□山なりけり。 (中略)来雪と聞へしは長学集によれる名とぞ。
▽解説 この小集はごく身近な人で構成され、七吟百韻は、黒露・来雪・寒我・竹酔などであり、その他の多くは黒露の津知友や門人であった。因に二世来雪は佐々木一徳で字は仲祐、名は忠久と云ったようであり、後に来雪庵三世素堂となる。 二世素堂は誰なのかは、後述するが素堂の嫡孫とる山口素安が素堂没後素堂の親族である寺町百庵に譲ろうとしたが、百庵は固辞した為に空席のままであったと思われる。
▽素堂『俳枕』素堂序文を書す。幽山編。 (号、素堂)
「俳枕」序 能因が枕をかつてたはぶれの号となす。つたへ聞、其代の司馬迂は史記といふものゝあらましに、みたび五岳にわけいりしとなり。杜氏、季白にたぐひも、とをく廬山に遊び洞庭にさまよふ。その外こゝにも圓位法師のいにしへ、宗祇、肖栢の中ごろ、あさがほの庵、牡丹の園にとゞまらずして野山に暮し、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此道の情なるをや。そもく此撰、幽山のこしかたを聞ば、西は棒(坊)の津にひら包をかけ、東はつがるのはて迄、足をおもしとせず、寺とうふてら、社といふやしろ、何間ばりにどちらむき、飛騨のたくみが心をも正に見たりし翁也。あるは實方がつかの薄をまげ、十符のすがごもを尋ね、緒たえの橋の木の切をふくろにをさめ金沢のへなたり、いろの濱小貝迄、都のつとにもたれたり。されば一見の所ぐにてうけしるしたることの葉のたね、さらぬをもとりかさねて、寛文の頃桜木にあらはすべきを、さはりおほきあしまの蟹の横道にまつはれ、延る宝の八ツの年、漸こと成りぬ。さるによつて今やうの耳には、とませの杉のふるきを共おほかり。しかれども名取河の埋木花さかぬも、すつべきにあらず。 是が為に素堂書ス。
巻頭 山城のとはにあひ生や松飾 風虎 東国よりのぼりて みたらしやきのふは東の十團子 梅翁(宗因) 秋也けり山城米に宇治たはら 幽山 里富り奈良の初年壽祿神 言水 秋の暮此上いかに無人嶋 松木青雲(甲斐人) 關の清水古郷戀し生鰹 々 茶の花や利休が目には吉野山 素堂 中山にて 爰ぞ命顔淵が命夏の月 々 富士は扇汗は清見が關なれや 々 髭の雪連歌と討死なされけり 々 伊豆 峠凉し沖の小嶋の見ゆとまり 々 武蔵 花の千世の何かの春も江戸也けり 々 小僧来たり上野谷中の初櫻 々 武蔵野やそれ釋尊の胸の月 々 武蔵野や富士のね鹿のね虫も又 々 近江 戦ひけり蛍瀬田より参あひ 々 瀬田にて 夕だちや虹のから橋月は山 々 宮島にて 廻廊や紅葉の燭鹿の番 々 紀伊 根来物つよみゆづれ村紅葉 々 長崎にて 入舟やいなさそよぎて□の風 々 瀬田にて 水や空うなきの穴もほし蛍 々
▽素堂、幽山『両吟』(巻末)
水無月いつか来にけん裸島 幽山 団扇うすべり床の山陰 素堂 うつり行鏡の里に髭そりて 仝 ゆるぎの森に風けゆづれば 山 大上戸有明の雪に鴻の池 仝 鬼は丹波に冬籠る空 堂 鉄の窓やうごかぬ千とせ山(鉄=クロガ子) 仝 代は塩□の音なしの川 山 からくりにさゝやきの橋取はなし 堂 まだ日高川ふかき思ひを 堂 焼食や誰岩代にむすびけん 山 反古につゝむ山本の雲 堂 伊吹颪作り蛇腹の顕れて 山 えいとうく不破の木戸番 堂 すかぬやつ人見の松をそれと見よ 山 狐が崎も都ならねば 堂 出頭せし鎌倉山も月細し 山 又上もなき松平の□ 堂 草ぐさの花園つゞく藥苑に 山 志賀のから橋唐島の聲 仝 ふえ法師何とぞとへば何ぞこたふ 堂 是非におよばぬ白川の院 仝 花の本持に定むべしわかの松 山 那智石みだす碁笥の春風 堂
▼参考、『俳枕』に掲載の甲斐関係の発句 餞別に わするなよ白根かすまば江戸の花 小野沢幽風 かみあらひといふ、所の名物と聞て 名也けり芹の白根のかみあらひ 幽山 蝸牛角やさしでの磯栄螺 神野忠知 庭訓にのりけり甲斐の駒迎 宣休 湊や江戸の築地と差出の磯 藤井松陰 白根こそ甲斐の源氏のはたれ雲 松村正阿 ▽素堂、『俳諧向之岡』発句三入集。不卜編。 上京のころ また是より若葉一見と成にけり 素堂 蓮の實有功經て古き亀もあり 々 亦申上野の秋に水無瀬川 々 【不卜】生年不詳、~元禄四年(1691)歿。六十余才か。 本名岡村氏。 ▽素堂評、『田舎句合』八月刊。其角編、芭蕉判、嵐雪序。 第十八番 左 勝 月日の栗鼠葡萄かつらの甘露有 農夫 右 紀路行山はみかんの吉野かな 農人 鼠をりすと作意して、ぶだう葛の甘露とつゞけり。右の句は信章が句に、茶の花や利休が目にはよしの山、と作れるいさゝか佛の似かよふにや。強て心を別たん時は等類難とも云がたく侍、甘露の一滴には我も前後を忘たるなるべし。
◇《註》北村季吟合點懐紙 延宝年中作 『芭蕉一代集』勝峯晋風氏著 昭和六年刊。 中村貫一氏が所蔵する古い懐紙切れで終わりに「右季吟合點懐帋附随斎所蔵、文化甲子秋贈松窓乙二」と見える。季吟の批點に桃青の附句のあるものはこれが初見である。 長刀さすかよせいなおとり場 信徳 露にやおちん髭の黥(スミヌリ) ゝ 聟に祝ひかけにまかせて桶の水 素堂 霞む風呂下帯絣(ムスフナリ) 風 白 花 室 湊 ゝ 黒 木 都 ゝ 履 背 苦 痩 馬 素堂 丸 身 類 裸 蝗 ゝ 絶す数奇て喰いけ栗のいけるうち 桃青 縁につかしの末も亨 ゝ のりすます玉のこしもほいとけて ゝ 珍重々 色好む殿の音曲に箏 ゝ 五十點之内長七 季吟書判
▼俳諧余談 『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著。
芭蕉は宗因を崇拝してゐたようで、それには信徳や素堂の感化もあった事だろう。素堂は芭蕉同年(実際は素堂が二才上)であって、後には蕉風に化せられたが、当時は信章とも来雪とも云ひ、談林の徒と交深く、言水の句集『初心毛登柏』にも 「卯の花も白し夜半の天河、江戸八百韻と云ふ集選み侍りける時、 素堂と打ち連れ帰るさの夜いたく更けぬ。所は本所一鐵(三輪氏) が許、家まばらにして垣根卯の花咲けり」 とあるから、(素堂は)言水と親しく、江戸談林の大将株であったと思われる。此『江戸八百韻』は江戸新風の代表撰集で、言水の同書に「中比は難波道、江戸道の八百韻。云々」と言っている。其撰に素堂が関係してゐるようでは、(素堂が)芭蕉より勝れて居たに違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月10日 21時16分04秒
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