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柳沢吉保年譜
Ø 万治元年(一六五八)一歳 ❖柳沢吉保、江戸市ガ谷に生まれる。 Ø 寛文元年(一六六一)四歳 ◇綱吉、館林二十五万石を賜わる。 ◇徳川綱重、甲府に封ぜられる。 Ø 寛文十二年(一六七二)十五歳 ❖吉保元服 ◇武田信玄歿百回忌に安忠、弥太郎連名で恵林寺へ寄進、信玄の墓この時再建。この年吉保元服。 Ø 延宝三年(一六七五)十八歳 ❖七月十二日安忠致仕、吉保家督を継ぎ保明と名乗る。家禄五百三十石。 ❖十二月一八日曽雌定子と婚約。保明、館林侯(綱吉)小姓組番衆となる。 Ø 延宝四年(一六七六)十九歳 ❖二月十八日定子と結婚。定子十六歳。 ❖曽雌氏の菩提寺竜興寺・竺道祖梵に初めて禅を学び公案を授かる。 ❖六月十六日嫡母青木氏(安忠正室)歿、月桂寺に葬る。 Ø 延宝八年(一六八〇)二十三歳 ◇五月八日四代将軍家綱死去。 ◇八月二十三日綱吉、五代将軍を宣下。 ❖十一月三日吉保、小納戸役に昇進する。 Ø 天和元年(一六八一)二十四歳 ❖四月二十五日吉保、三百石加増(計八三十石)。 ❖従六位下布衣を許される。綱吉の学問上の弟子となる。 ◇綱吉、高田松平藩の紛争(越後騒動)を親裁。 Ø 天和二年(一六八二)二十五歳 ❖一月一日読書始めに、吉保『大学』を講ずる、以後毎年の例となる。 ◇綱吉の文治主義政策活発化す。 Ø 天和三年(一六八三)二十六歳 ❖一月十一日二百石加増される(計千三十石)。 ◇綱吉の子徳松死亡。幕府、武家諸法度を改正する。 Ø 貞享元年(一六八四)二十七歳 ❖八月吉保、西久保の邸より西の丸下の旧品川氏用の邸を賜わる。 ❖勤務精励により黄金五枚、時服三領を賜わる。 Ø 貞享二年(一六八五)二十八歳 ❖十二月十日吉保、小納戸上席に昇進、従五位下出羽守に任ぜられる。 Ø 貞享三年(一六八六)二十九歳 ❖一月十一目吉保、一千石の加増(計二千三十石)。 Ø 貞享四年(一六八六)三十歳 ❖九月一二日吉里、西の丸の下の邸で生まれる。 ❖十月十七日、父安忠(露休)死去、八七歳。 ◇生類憐みの令が出される。以後この令頻発。 Ø 元禄元年(一六八八)三十一歳 ❖六月三日吉保、綱吉より自筆の訓誠の書「過則勿怪改」を賜わる。 ❖この年十一月、吉保、側用人に登録され、同月十 二日一万石の加増を受け(計一万二千三十石)初めて諸侯(大名)に列する。 Ø 元禄二年(一六八九)三十二歳 ❖正月、吉保諸侯として初登城。新年拝賀式。 ❖使者を知足院に遺し綱吉の息災安泰祈願をさせる。 Ø 元禄三年(一六九〇)三十三歳 ❖三月二十六日吉保、二万石の加増を受ける(計三万二千三十石)。 Ø 元禄四年(一六九一)三十四歳 ❖◇三月二十二日綱吉、初めて吉保邸に臨む以後五十八回に及ぶ。 Ø 元禄五年(一六九二)三十五歳 ❖黄葉・万福寺五世高泉と交を結ぶ。 ❖三万石の加増を受ける(計六万二千三十石)。 Ø 元禄六年(一六九三)三十六歳 ❖三月二日吉保、嫡男吉里を伴い初めて登城する。 Ø 元禄七年(一六九四)三十七歳 ❖一月七日吉保川越藩主となる。領内三富地方の開拓事業に着手する。 ❖九月風雨のため川越城破損修理。 ❖十一月二十五日側室町子、経隆を生む。 ❖吉保、初めて評定所に出席。 ❖一万石の加増を受け、合計七万二千三十石となる。 ❖十二月九日侍従に任ぜられ、席次は老中格となる。 Ø 元禄八年(一六九五)三十八歳 ❖四月駒込の旧松平加賀守邸を拝領。 面積四万八千坪で、これがのちの「六義園」となる、六義園としての完成は七年後の元禄十五年。 ❖九月二十六日嫡男吉里、細井知慎(広沢)を師として初めて書を学ぶ。 Ø 元禄九年(一六九六)三十九歳 ❖六月二十日黄葉六世千呆性情を招請、黄葉門派の幣風を論ず。 ❖六月十二目側室町子、時睦を生む。六月川越・三富山多福寺の多聞院ならびに毘沙門堂成る。 ◇荻生徂徠、柳沢家に仕える。 Ø 元禄十年(一六九七)四十歳 ❖四十の賀に将軍から脇指、鳩の杖、大屏風等賜わる。 Ø 元禄十一年(一六九八)四十一歳 ❖七月東叡山板本中萱造営の総奉行をつとめる。その功によって近衛少将に任ぜられ、席次は老中の上、事実上、大老格となる。 Ø 元禄十二年(一六九九)四十二歳 ❖三月二日一昨年二万石加増の内命があり朱印書、領地目録を賜わる。 ❖十二月三日吉里、四位越前守に任ぜられる。 Ø 元禄十四年(一七〇一)四十四歳 ❖十一月十五日吉里元服。 ❖十一月二十六日吉保父子に松平姓を許され、諱の一字を賜い、美濃守吉保と名乗る。 ❖安貞は伊勢守吉里と改める。 Ø 元禄十五年(一七〇二)四十五歳 ❖一月二十六日家臣曽祢権大夫父子に柳沢の姓と諱の一字を与える。即ち柳沢保格、同保誠とする。 ❖三月、桂昌院昇任の功によって加禄二万石(計十一万二千三十石)の内命を受ける。朱印書は閏八月二十八日に受領。 ❖十一月二十八日十六歳に達した吉里に自筆の庭訓書を与える。 ❖三月六日伯父安吉の十七回忌を月桂寺で修する。 Ø 元禄十六年(一七〇三)四十六歳 ❖八月二十六日狩野常信に昨秋描かせた肖像三幅に夫々吉保自筆で讃を書き捺印一幅は自邸、他の二幅は甲州一蓮寺と常光寺に納める。 ❖七月十八日柳里恭、江戸で生まれる。 Ø 宝永元年(一七〇四)四十七歳 ❖一月二十八日吉里婚姻。 ❖三月仙洞御所から歌書を賜わる。 ❖十二月二十一日将軍の御嗣決定と長年の忠勤により加禄三万九千石、甲斐・駿河で計十五万一千二百余石を賜わる。 ◇甲府綱豊、後嗣に決定。十二月五日に公表、家宣と改名。 Ø 宝永二年(一七〇五)四十八歳 ◇二月十九日川越城から先発の家臣府中に出発、甲府城を受取る。 ❖二月二十八日恵林寺に柳沢保格代参。 ❖三月十二日駿河を返上、改めて甲斐三郡の地を賜わる。実高二十二万八千余石あり。朱印状領地目録の日付は四月二十九日。 ❖「参禅録」を編集、 ❖八月霊元上皇から書名を護法常応録と賜わる。 ❖四月八日甲斐青木村常光寺に柳沢保格を代参させ、祖先の霊前に当国拝領のことを報告。 ❖五月十日吉里の生母染子死去。この頃、甲州各古刹に夫々寄進のことあり。 Ø 宝永三年(一七〇六)四十九歳 ❖四月から七月に亘り常応録三十三冊に染子の「胡紙録」二冊を添えて竜興寺・月桂寺・黄葉悦山・恵林寺など関係各名利に贈る。 ❖七月十一日都留郡一円を吉保に預えられる。 ◇七月二十九日幕府、封内通用の甲府金貨鋳造を許可。 ◇九月二十八日甲府城で土木工事の上棟儀式あり。 ❖十一月十二日江戸の私邸で同日祝賀の能楽会あり、家宣、吉保の邸へ臨む。吉保「素書国字解」を家宣に献上。 Ø 宝永四年(一七〇七)五十歳 ❖一月十八日吉保五〇歳の賀歌会。 ◇三月悦峰万福寺八世となる。 ❖七月十二日柳沢藩の軍令・兵法を編集。 ❖九月二十四日参府の悦蜂を自邸に招く。 Ø 宝永五年(一七〇八)五十一歳 ❖閏一月宝永通宝の大鏡(十文銭)発行。 ◇三月悦峰、駒込六義園に滞在。 ◇三月二十四日悦蜂登城拝謁、唐寺で問答あり。 ◇四月十二日山梨岩窪の霊台寺を龍華山永慶寺と改めることにきまる。 ❖京郎荒神ロに邸地六、六〇〇坪を拝領。甲府からの「時の献上物」を定める。 Ø 宝永六年(一七〇九)五十二歳 ◆一月十日綱吉死去、六十四歳、出棺二十二日。葬儀二十八日。 ◆二月九日同じ病にて将軍御台所死去。 ❖三月一日国許の重臣に藩政について訓示と調査を命じる。 ❖四月十三日夫人らと六義園に移る。 ◇五月一日家宣将軍宣下の儀式。 ❖六月三日吉保隠退。吉里が家督相続以後は保山と名乗る。 ❖楽只堂年録終る、以後は福寿堂年録につづく。 ❖閏八月廿二日永慶寺境内に染子の石塔を建てる。 ❖九月悦峰を師として授戒の法定を開く。悦峰代替の祝に参府駒込に滞在。 ❖柳里恭、この頃吉保にその才能を認められる。 Ø 宝永七年(一七一〇)五十三歳 ❖八月十四日永慶寺開堂式。名代を十六日に参詣させる。 ❖この年浄慶に彫刻せしめる等身大の寿像を翌年恵林寺へ納める。 ❖八月己が墓所を定めることを悦峰に諮り、その意見を採る。 Ø 正徳元年(一七一一)五十四歳 ❖一月一日吉里在国中のため拝賀式に松平九郎右衝門貞清登城。 ❖定子、永慶寺中に裏光院を建て、悦峰を第一祖とする。 Ø 正徳三年(一七一三)五十六歳 ◆一月二十七日狩野常信死去。七十八歳。 ◇三月幕府、新銭改鋳を命じる。 ◇四月二日家継七代将軍宣下。 ❖九月五日夫人定子、六義園で死去。五十三歳。 永慶寺に葬る。将軍家より安否のお見舞いあり、葡萄一寵を賜い、他に香尊として白銀五枚を霊前に供えられる。 Ø 正徳四年(一七一四)五十七歳 ❖十月二十四日かねて低板されていた「常憲院贈大相国公実紀」三十冊を輪王寺公弁法親王の本坊に納める。 ❖十一月二日吉保死去。 ❖十一月十三、十四日甲州永慶寺で葬儀。 ❖十一月十五日悦蜂、宇治から甲府に着く。永慶寺で法要。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月11日 22時05分16秒
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