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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月12日
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Ø        白須蔵人(白須村 現白州町白須)『甲斐国志』

一蓮寺過去帳ニ、法名老阿。長禄元年(一四五七)十二月廿八日小河原合戦ノ討死ノ内二見エタリ、余ハ名ヲ全ク記セサレハ挙ケス、『太平記』観応三年(一三五二)ノ条ニ甲斐諸将ノ中、白州上野守アリ、『甲陽軍鑑』長篠ノ役ニ典威信豊モ馬乗ハ只三騎、慕フ敵ヲ追払ヒ々々退キ玉フ卜、「伝解」ニ白須又市、青木主計、横手源七三騎アリ、姶メノ返シニ主計ハ討死ストアリ、白須平次ハ即チ又市男竹王信勝ノ小姓也、「武家盛衰記」ニ壬午(天正十年 一五八二)ノ後幕府ニ召出サレシガ、小姓衆ト口論シテ御旗本ヲ立退キ稲葉蔵人道ニ倚頼シ、名ヲ又兵衛卜更メ後ニ家老トナル、関原ノ時、勢州岩手ニ於テ九鬼方堤荘蔵卜戦フテ功アリ、同藩種田喜左衛門ノ二男金三郎ヲ智養子ニシテ、白州十郎兵衛ト云者アリ、食禄五百石ヲ譲レリ、慶安中(一六四八~五一)稲葉紀通ノ家断絶シテ白州ノ子孫ハ豊州臼杵藩ニアリ云々、後ニ白須十兵衛ト云ウ者アリ、中郡筋七沢氏ノ条ニ附記セリ、又本村四郎右衛円ト云者ノ家蔵ニ寛永元年(一六二四)子八月廿一日室賀長左衛門田書、寛永十年(一六三三)酉十月六日、平岡七兵衛印書二通アリ、皆当時ノ御代官ナリ、荒地起シ榑木川流シ等ノ事四郎右衛門ニ進退ヲ令スル趣ナリ。

※ 参考資料

関連記事 増山氏(『甲斐国志』巻の百十三 士庶部第一)

増山氏 古府中

増山町と云うあり。増山某の居する所と云い伝ふれども、今その人の名にて、二ノ宮の山宮杵築の神所に座するに続き、また神座山と称するも東のほうにあり。増山の下を尾山村と云う山の尾前なり。

山梨岡に御室山と唱えるあり、古歌に神の座する御室の榊葉と詠じる類にて、増山は神の座す山より起こる氏族ならんかと云う旧説なり。

文禄(一五九二~九五)慶長のころ(一五九六~一六一四)の間増山某と云う者の妻、娘二人を産し、一人は青木惣兵衛(武川筋)の妻となる。惣兵衛始め朝倉才三郎に仕え氏を賜い朝倉と称し、浪人として下総(茨城)古河の辺りに蟄居し貧困にして禁を犯することあり刑を蒙る。

その妻並びに二女一男は領主永井信濃守尚政へ下され召し仕はる。妻を場「紫」と名付け長女は「於楽」と呼ぶ。  

その頃七沢作右衛門清宗も仕えて永井家にあり。ともに本州の人にて旧識なり。遂に夫婦となり、浪人せしが不慮に娘の「於楽」大猷廟(徳川家光)の御代大奥に仕え寛永十八年(一六四一)八月三日。(「割注側室・お楽の方(お蘭の方とも呼ばれた)(古河藩領の百姓青木利長娘・宝樹院」)厳有君御誕生〔四代将軍徳川家綱生没年 一六四一(寛永十八)年〜一六八〇(延宝八)〕あり。

承応元年(一六五二)十二月二日、於楽の方逝去、謚(おくりな)〔宝樹院殿従三位華城天栄大姉〕と云う。

次は品川式部大輔高如(品川高如 )の室、男子は青木弁之助、後に増山弾正少弼利澄と称し、参州西尾二万石を賜る。

七沢に三男二女あり、皆同腹(母が同じ)にして各々他に配偶せり。七沢のことは中郡士庶の部に詳かにする。

紫は貞享四年(一六八七)六月二十日逝し、謚(おくりな)仙光院殿妙澄日行大姉、妹一人あって古河に在りし時、農夫某の妻となり、二女を産む。皆仙行院に育てられる。次の女に紫と云う。己が名を譲り黒桑衆小谷権兵衛に嫁ぐ。後号、高覚院殿月峰円知大姉、一男三女を産す。一女は於伝の方、憲廟に仕え鶴姫君(後に紀州に入輿)、鶴姫君(御早世)誕生あり後に、瑞春院殿と謚(おくりな)す。

一女は白須才兵衛の妻、後に光照院殿と謚(おくりな)す。

高覚院の姉は白須十兵衛と云う者の妻、後に崇心院殿繁岳智栄大姉と謚(おくりな)す。

白須も本州(甲州)武川筋の郷士なり。父は与左衛門(法名道元)と云う。

白須十兵衛は寛文十二年(一六七二)正月十七日逝去する。法名は道政円林居士、三男一女あり。

一、  は白須十兵衛(増山弾正の家老)

二、  は白須浅右衛門(平野丹波守家老)〔平野丹波守は長政(寛文九~元禄十三年)

三、 白須才兵衛(即ち小谷氏の婿)召出され、賜る三百俵また二百石を増す。

 

Ø        参考資料 白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

白須しらす白洲・白数とも書く。
巨摩郡郡白須之郷(北杜市白州町)発祥の族は清和源氏義光流武田氏族という. 

『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信―貞信(白須次郎)とみえる。
『太平記』によれば観応三年(一三五二)三月足利尊氏が武蔵府中で新田義貞と戦

ったときに、武田信武以下甲斐の諸将が信武に従って尊氏方として参陣したが、そのうちの一人に白洲上野守がみえる。

『一蓮寺過去帳』に白洲蔵人がみえ、長禄元年(一四五七)十二月武田一門と跡部氏が戦った小河原合戦で討死したとある。
『甲斐国志』には、岩殿の円通寺(大月市)棟札に白洲信重、巨摩郡宮原村

(甲府市)の鎌田八幡宮の天文五年(一五三二)の棟札に柁那中島(河東中島昭和町)の住人白須神左衛門の名がみえる。
また、天正三年の長篠の戦では、武田信豊の配下に白須又市がおり、子供の平次は武田信勝の小姓であった。
平次は『甲斐国志』所収の『武家盛衰記』によれば、武田氏滅亡後徳川家康の小姓として仕えたが、ほかの小姓衆と口論して家康のもとを離れて稲葉道通に仕えた。白須又兵衛となのり、のち豊後臼杵(うすき)藩稲葉家の家臣とし

て続いた。
『寛政譜系譜』には幕臣として白須十兵衛道政を祖とする、二家があり、白須貞信の後喬という。道政系は千五十石取りの旗本であった。天正起請文に廿人衆のうちに白須伝兵衛がみえる。また、甲斐にはもう一つ別系の白須氏がある。

「下吉田村落史」所収の、「白須家系図」によれば清和源氏満仲流を称し、武田信玄の重臣馬場信房の子政信が都留郡下吉田村(富士吉田市)の新屋敷に居住して白須平太郎と名乗り大正一七年に死去、子には政豊(小太郎)・政春(小治郎)がおり、母は小林和泉守の娘であった。政春の子弥左衛門は下吉田村の名主を勤め、弟の白須小兵衛の子は渡辺家の祖となった。
 『峡中家歴鑑』に載る南都留郡瑞穂村吉田(冨士合田市)白須孝一家の先祖は白須刑部少輔政義であるが、遠祖については、多田満仲五代の子孫という兵庫頭仲政が馬場を称し、孫の中宮少左衛門尉兼綱が白須郷に来住したのがはじめで、政義はその孫で白須に在住した馬場信房の次男で、分家しで、瑞穂村吉田に移り白須をなのったといい、武田晴信・勝頼に仕えたのち、徳川氏に従い小田原合戦で戦死したと伝える。県内、百六十戸、富十吉田市に多い。

※【割菱・丸に違い鷹の羽・亀甲の内輪遠い】






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最終更新日  2020年06月12日 09時41分42秒
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