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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月12日
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貞享期の素堂と芭蕉

 「素堂との交友」 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

     (『芭蕉翁の肖像百影』乾憲雄氏著)★二人の隠者

 

 貞享の素堂の発句が、その気品の高遇さにおいて、当時の芭蕉をしのいでいるという評価は、次の諸句に照らして、決して過褒ではない。

 市に入りてしばし心の師走かな

 雨の蛙声高になるも哀れなり

 春もはや山吹白し苣苦し

 

 この時期にこうした作品を残した最大の理由は、いうまでもなく芭蕉との交友が最も緊密に保たれたからである。両者の交友は、延宝三年の出会い以来終生のものであったはずであるが、貞享期の親密さは、思想的に一体であったという意味に於いて、きわだった時期である。両者を結びつけた思想は、いうまでもなく隠逸への志向である。「甲子吟行」跋文をめぐる両者の態度に、思想的に一体であった二人を認めることができる。

 「甲子吟行」跋には長短二種のものが伝えられており、私は、長文は素堂の文章そのままであり、短文は芭蕉が手を加えたものではなかったかと考えている。この両者を比較してみると、素堂が「わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける、此の両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。しかれども、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ」といっていることがまず注目される。一見素堂は、世評に抗してあえて隠逸の句を賞していないかのごとくであるが、素堂のこの一文は、「洛陽に至り三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし」という文章を書くための行文でしかなった。

 素堂は世評以上に隠逸的世界を喜んでいたのである。(中略)結局芭蕉は、「甲子吟行」の句を隠士の句だという素堂の言を認めており、また素堂と自分の間柄を、伯牙・鐘子期のそれにくらべることをよしとしていたのである。

 

大淀三千風、甲斐入り         

寛永十六年(1639)生、~宝永四年(1707)歿。                            

年六十九才。伊勢国射和(いざわ)の商家に生まれる。

三十才頃まで家業に 従事するが、寛文九年(1669)三十一才の時俳諧師となるために陸奥国松島に赴き、仙台に十五年滞在する。延宝七年(1679)二千八百句独吟  の矢数俳諧に挑戦して成就する。天和三年(1683)『日本行脚文集』の旅の出る。元禄二年(1689)までの七年間全国津々浦々を歩き、元禄三年(1690)に『日本行脚文集』を刊行する。

 

富士詣(抜粋)

 三千風はこの間貞享三年(1686)に富士から大宮を通過して、身延山久遠寺に立ち寄り、七面山に登り、当住持日脱上人と歓談し、肉團のかをり颪は身延かな

その峰の鷲の尾につくみのぶ山うへみぬ法の古集成りけり

その後四日間逗留して、甲府柳町伴野氏を訪問し、八日間留まる。善光寺で興行、天神畫像に、

梅神の毛虫秡や下枝風

 是にて満座せし。

 当所酒折天神は連歌の濫膓なり。往古日本武尊東夷征伐の時の行宮なり。甲府の連宿一萬句奉納その発句を金板に冩し、巻頭の句をして小序をつけて書と所望せられ、ぜひなくかき侍りし、其発句、序は略。

かをりけりおほふて外なき翅梅         三千風

凉風に常冬見するしら根哉               仝

暑を譲る幾曙か松がねか                安貞

雲水の客人は暑の なし       森氏    一峰

そなれ波の松島衣夏もなし     内田氏  吉堅

みち風の秡しまゝに水無月              一任

俳風かをれは端山に蝉のを聲もなし 禰津 松聲

夏桃や三千てふ人の鄙裏       高橋    安信

晝顔翁夜は咄その月咲り       奥野    昌信

凉風や月を求食て三千ほ       牧野    宗山

花あり實あり眞夏の園の桃翁   加賀美  三盆

譽り蝉心なり無我翁           伴ノ    長行

白根の夏の芭蕉衣を除てふけ   高橋    安春

名ぞ茂る宗祇二代の宮城萩     金沢    好元

夏富士や手につけまはす放下僧 奥野    好興

 

 いざや信玄公舊城を見めと人々誘引て行。昔の形まさしくのこり、築地礎花園の畔、塘の獨梁、かしこは櫓、富士見の御殿、かばかりあせはてにし事の悲しさに、さすがに名将の餘波いまだ靈威のとゞまればや、野飼の牛馬も石垣のうちへ有ゆるさずとなむ。

夏葉や有し富士見の玉の床

かくて甲府を立、さし出の磯、鹽の山、鵜飼寺を見て、かの信玄公菩提所、乾徳山恵林寺に案内して、荊山老和尚の謁し、旅行のはふれをはらす。云々

 

《註》

三千風は恵林寺を後にして、大月猿橋を過ぎ八王子に入る。連衆の中に見える石氏三寂、一任は医師で、素堂が元禄八年に甲斐に入り、府中の外舅野田氏宅に寄宿する。その折に素堂を招き興行した人である。

 

  素堂の俳諧論






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最終更新日  2020年06月12日 22時20分55秒
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