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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月14日
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源氏物語 げんじものがたり

 『日本古典名著』総解説 1993

  

発行者 長谷川秀紀氏

  発行所 自由国民社

   
 一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

わが国の代表的文学作品で、世界最大最古の長編小説。

作者紫式部。

 

・第一部(桐壷 藤裏葉)

 

 「いづれの御時にか。女御・更衣あまた さぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。」

 

家柄も身分もそれほど高くはなかった一人の更衣が、帝にことのほか愛され、玉のように美しい皇子を生んだが、周囲の女性たちから憎まれて、亡くなった。

美貌と才能には恵まれていたが、後見人のない皇子は、父の帝のはからいで臣籍に降下され、人びとから「光る源氏」と呼ばれるようになる。            

 

帝は、更衣のおもかげを求めて、先帝の皇女(藤豆)を入内(じゅだい)させ、源氏は、母に似ているという藤豆を慕い、やがて恋の対象として考えるようになっていく。

 元服すると同時に、時の左大臣の姫君(葵の上)と結婚し、義兄弟となった頭中将たちの女性論に触発されて、中の品(中流貴族階級)の女性に関心を寄せ、人妻(空蝉)とかかわり、種姓の分からぬ女性(夕顔。実は頭中将の恋人)とかかわって急死されたりする。

 しかし、夢のようにして契った藤豆のことが忘れられないでいる源氏は、ふとしたことから、藤豆の姪にあたる少女(後の紫の上)を見いだし、賂奪にひとしい強引さで、自邸に引きとる。

 藤豆は、皇子を生み、中宮となるが、生まれた皇子は、実は、源氏との間にできた秘密の子(後の冷泉院)であった。皇子に寄せる帝の愛を知るにつけても、源氏と藤豆は、ともに、畏怖し、僕悩する。

 故常陸宮の姫君(末摘花)と通じて、その醜貌に失望し、老女(源典侍)とたわむれて、頭中将に見つけられるなど、狂おしい青春の日々を過ごす源氏は、二〇歳の春、南殿で花の宴が行なわれた夜、はからずも、時の右大臣の姫君(朧月夜・弘徽殿の女御の妹)と契りを結んでしまう。

 帝が譲位し、弘徽殿女御腹の新帝(後の朱雀院)が即位して、右大臣がわ優勢の政治的季節を迎えた。

 斎院の御膜の日、源氏の愛人となっていた故前坊(亡き前東宮)の未亡人(六条御息所)は、やはり源氏の晴姿を見にやってきた妊娠中の葵の上の供人から、恥ずかしめを受け、生霊となって葵の上を苦しめる。葵の上は、男子(夕霧)を出産するとともに絶命した。女の愛執の念のはげしさに疲れた源氏は、紫の上と新枕を交し、新しい愛を見いだしていく。

 御息所もまた、男との変に疲れ、斎宮となった娘とともに、伊勢に下る。その年の冬、父の院が崩御し、翌年、朧月夜の君は、尚侍となって新帝のもとに入内し、藤豆は、なおも胸中を訴える源氏を避けて、出家してしまう。右大臣がわの権勢に圧されて、左大臣は致仕(辞任)し、源氏がたの昇進もとまる。翌年夏、尚侍と密会した源氏は、右大臣に見あらわされてしまい、弘徽殿の女御は、さまざまな策謀をめぐらせはじめる。

 頼みとする拠りどころをすべて失った源氏は、みずから退いて、須磨の浦に流離の日々を過ごす。やがて、明石の地に住む没落貴族の娘(明石の君)と結ばれ、右大臣の死、弘徽殿の病臥による召還の宣旨に従って、中央政界に帰り咲いた源氏は、権大納言に任ぜられ、逆境を脱して、栄華の道をつきすすむ。

 朱雀院が退位し、冷泉帝が即位して、源氏は内大臣となる。御息所は、娘の斎宮とともに帰京し、娘の後事を源氏に託して、死ぬ。源氏は、さらなる栄華への布石として、藤壷とはかり、前斎宮を冷泉帝のもとに入内させる。複音の女御、後の秋好む中宮である。

 女子を出産した明石の君は、上京したものの、わが身のほどを知って、ひっそりと大坂の山荘に住む。そして源氏の言葉に従って姫君を紫の上の養女とすることに同意する。

藤豆、太政大臣(かつての左大臣)が、相次いで亡くなり、冷泉帝は、出生の秘密を知って驚愕し、源氏に譲位しようとさえするが、源氏は固辞して受けない。太政大臣となった源氏は、六条院の邸宅に、かかわりのあった多くの女性たちを集え、豪奢な趣味生活に生きている。

 子息の夕霧が元服して、大学寮に入り、幼な恋の相手(雲井雁)とは、しばらく父の内大臣(かつての頭中将)の政治的な思惑のために、結ばれえないでいる。やがて、夕顔の遺児・玉鬘が、数奇な青春の日々を送った筑紫の地から上京し、六斎院に住まう。養父となった源氏は、夕顔のおもかげを求めて、あやしく心動かされるのだが、多くの求婚者たちを集えて、さまざまな風流に遊ぶ。

 

四季がめぐり、源氏は、すでに三九歳。玉鬘は、実父(内大臣)と再会し、無風流で一徹な髭黒の大将と結ばれ、夕霧は、雲井雁との恋を成就する。明石の姫君が東宮のもとに入内し、内大臣は太政大臣、源氏は准太上天皇となって栄華を極める。ひとまず、大団円(めでたしめでたし)である。

 

 

第二部 若菜・上―幻(まぼろし)

 

 源氏、四〇歳の春。病がちな朱雀院は、出家を志し、後見人のない女三の宮の将来を思って迷う。正月、源氏の四〇歳の賀宴が、多方面から準備される。二月、出家した朱雀院は、源氏に後事を託し、女三の宮

が六斎院に降嫁してくる。

 幼い性格の宮は、だが、その重い身分のゆえに、葵の上なきあとの今、源氏の正妻である。紫の上は、一歩退いて嫉妬の情を抑えようとするが、源氏に対する不信の念は募るばかりであった。翌年、明石の女御は皇子(後の東宮)を生み、源氏の栄華はさらに堅固さを加えるのだが、調和を誇っていた六条院は、すでに内部崩壊の危機に瀕していたのである。

 女三の宮に思いを寄せつづけていた柏木は、六斎院で行なわれた蹴鞠の最中に、宮を垣間見て、さらにはげしい情念にとらわれる。

 年月が流れ、冷泉院が譲位し、今上の治世となる。太政大臣(柏木の父)が辞任し、髭黒の右大臣が関白となる。

 柏木は、女三の宮の異母姉(落葉の宮)と結婚したが、恋慕の情は少しも鎮まらず、紫の上が病み臥し、源氏がその看護に心を配っているすきに、夜、女三の宮と契りを結ぶに至る。宮は柏木の子を宿し、源氏

は事の真相を知って、藤壹との密事を回想し、罪の応報に戦慄する。

 宮は、男子(後の薫の中将)を出産して出家し、柏木は、源氏を畏れ、みずから滅びを求めるようにして死んでいく。はなやかであった六条院も、次第に寂寥にとざされていく。

 未亡人となった落葉の宮を弔問する夕霧は、いつしか、宮への一途な思慕へとのめりこんでいき、強引に結婚して、自邸に引きとる。実直びとの恋のまどいであった。

 源氏はすでに五一歳。春、紫の上は再び病み、出家を願うが許されず、法華経千部の供養に来世への思いをこめ、秋八月、この世を去る。とりのこされた源氏は、めぐる季節とともに、傷心を深め、出家の準備をすすめる。

 

(こうして、正編、光る源氏の生涯の物語は、終わる。巻名のみが伝えられて、もとより本文のない「雲隠」の巻で、その死が暗示されている)。

 

源氏物語・第三部(匂宮-夢浮橋)

 

(源氏没後の後日談が、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖で描かれ、物語の流れは、しばらく停滞をきわめるが、やがて「橋姫」以下、宇治十帖の物語へと展開していく)。

 

宮廷を中心とする都の物語は、ここから、その舞台を、宇治川のほとりへと転換させる。そこには、源氏の異母弟・八の宮が在俗のまま仏道に精進する「俗聖」として、二人の姫君とともに、ひっそりと生きていた。

自己の出生にまつわる暗い翳(かげ)を漠然と感じとっている薫る中将(後に中納言・大将)は、宮廷での身分と昇進を約束されているにもかかわらず、心を仏道に傾け、八の宮の生きかたに惹かれて、宇治を訪れるようになったのだが、いつしか、姉の姫宮を思慕の対象として考えるようになる。

 八の宮は、かねての志どおり、後事を中納言に託して山寺にこもり、往生をとげた。早くに母を失った姫宮は、すでに若くはない自分をかえりみて、むしろ妹の中の宮を中納言と結びつけようと願うのだが、

そのことを知った中納言)を宇治に誘ない、中の宮との間をとりもって、結婚させてしまう。

 落胆した姫宮は、さらに匂う宮と右大臣(夕霧)の姫君との結婚話を耳にして、男性への不信、結婚の不幸への確信を深め、心痛が肉体をむしばんで、中納言に看取られながら、死んでいく。

 匂う宮は、中の宮を都に迎えるが、必ずしも幸福ではない中の宮に、中納言の心が動いていく。このような中納言の心にとまどう中の宮は、そのころ常陸から上京してきた異母妹(浮舟)を中納言に紹介する。中納言は、心ならずも今上の女二の宮と結婚していたのだが、姫宮に生き写しの浮舟を見て、はげしく心惹かれる。

中の宮のもとに身を寄せていた浮舟は、匂う宮に見いだされて言い寄られ、三条に隠れ住んでいるところを、中納言につきとめられ、やがて宇治へと移り住む。匂う宮もまた、宇治の浮舟をたずねあてて、契りを結んだ。

 中納言の誠実と宮の情熱との間で、身を処していくすべを見いだしえぬ浮舟は、思いあまって、宇治川に入水しようと決意して失踪する。亡骸は発見されなかったが、浮舟の葬儀がいとなまれ、匂う宮は狂乱し、中納言は深い悔恨にさいなまれた。

 宇治川のほとりで意識を失っていた浮舟は、横川の僧都に救われ、僧都の母や妹とともに、小野の山里に住まうようになっていた。そこには、都での、宇治での、男女の愛執の劇をひたすらに忘れはてようとして、仏に仕え、読経にいそしむ浮舟の姿があった。

 だが、浮舟の消息は、はからずも、僧都から明石中宮へ、中宮から中納言へ、と伝えられ、僧都から事情を聞き知った中納言は、浮舟の異父弟・小君を使者として、手紙を届けようとするが、浮舟は、とりあおうともしない。

(物語は、読者の想像力にすべてをゆだねて、ここで終わっている)。

 

【註】源氏物語

●全五四帖からなり、前半は、当時の理想的男性である光る源氏を中心として、彼をとりまくさまざまな女性たちとの多様な愛と栄耀栄華への到達を描き、宇治十帖と呼ばれる後半は、源氏の子薫る中将の宿命的な悲劇を描いている。

●源氏の君の母は後宮の「桐壹(淑景舎)」にいた。ところが「桐壹」は天皇の御座所の「清涼殿」からは最も遠く、ほかの女御・更衣の部屋の前を通って行かねばならぬので、ますます一同の嫉妬をかきたてることになった。

 

 作者は、紫式部(「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖について、また、宇治十帖について、作者を別人かとする説もあるが、その論拠は、必ずしも明確ではない。

特に宇治十帖別筆説の多くは、独断的・印象批評的なきらいがある。しばらく、紫式部説に従う)。

 紫式部は、藤原為時(良門流。並幅の孫)の女。母は為信(長良流。課輔の子)の女。本名は未詳。生没年もまた未詳であるが、およそ天禄元年(九七〇)から天延元年(九七三)の間に誕生し、長和三年(一〇一四)頃に没した、と推定されている。四〇代の前半であった。

 長徳二年(九九六)夏、父の任地下向に伴って越前に赴き、同四年あるいは五年(長保元年)に、藤原官孝(良門流。為輔の子)と結婚した。

三〇歳に近く、当時としては晩婚であった。宣孝は、五〇歳に近く、もとより初婚ではない。

 二人の間には、一女・賢子が生まれたが、宣孝は、長保三年(一〇〇一)四月に没した。三年ほどの結婚生活であった。

『源氏物語』は、おそらく、この寡居生活のつれづれのなかから、書きすすめられていった、と思われる。

 寛弘二年(一〇〇五)頃から、中宮彰子(道長の女)のもとに女房として仕えるようになった。

同七年頃には、『紫式部日記』をまとめた。『源氏物語』は、すでに完成していたであろう。また、晩年に近く、家集『紫式部集』を自撰したようである。

 学者・文人であった父のもとで、当時男性のものとされていた漢詩文の知識を身につけ、また、受領(地方長官)でもあった父を通じて、中下級貴族の生態とその不安を知り、さらに、ひそかに仏教に心を傾けていた紫式部は、いかにも物語作者にふさわしい、広い視野と識見をもっていた、と言えるであろう。

学者の女であり、受領の女であった物語作者は、時代の子、その申し子であった。

 

『源氏物語』は、全五四巻、四〇〇字詰原稿用紙で二六〇〇枚になる大長編物語。光る源氏を中心とする正編と、匂う宮・薫る中将を中心とする続編とに、大きく二分しうるが、現在、正編をさらに、源氏の栄華への上昇期、凋落への下降期、と二分して、全体を三部と見なす考えかたが、普通に行なわれている。第一部から第二部へ、さらに第三部へと、物語は展開し、主題は深化していき、未曾有の世界を開示するに至るのだ。

 






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最終更新日  2020年06月14日 18時45分57秒
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