カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
貞享期の素堂と芭蕉 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
「素堂との交友」 (『芭蕉翁の肖像百影』乾憲雄氏著)★二人の隠者(一部加筆)
貞享の素堂の発句が、その気品の高遇さにおいて、当時の芭蕉をしのいでいるという評価は、次の諸句に照らして、決して過褒ではない。
市に入りてしばし心の師走かな 雨の蛙声高になるも哀れなり 春もはや山吹白し苣苦し
この時期にこうした作品を残した最大の理由は、いうまでもなく芭蕉との交友が最も緊密に保たれたからである。両者の交友は、延宝三年の出会い以来終生のものであったはずであるが、貞享期の親密さは、思想的に一体であったという意味に於いて、きわだった時期である。両者を結びつけた思想は、いうまでもなく隠逸への志向である。「甲子吟行」跋文をめぐる両者の態度に、思想的に一体であった二人を認めることができる。 「甲子吟行」跋には長短二種のものが伝えられており、私は、長文は素堂の文章そのままであり、短文は芭蕉が手を加えたものではなかったかと考えている。この両者を比較してみると、素堂が 「わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける、此の両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。しかれども、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ」 といっていることがまず注目される。一見素堂は、世評に抗してあえて隠逸の句を賞していないかのごとくであるが、素堂のこの一文は、 「洛陽に至り三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし」 という文章を書くための行文でしかなった。 素堂は世評以上に隠逸的世界を喜んでいたのである。(中略)結局芭蕉は、「甲子吟行」の句を隠士の句だという素堂の言を認めており、また素堂と自分の間柄を、伯牙・鐘子期のそれにくらべることをよしとしていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月16日 13時47分02秒
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