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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月16日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

志村滝蔵氏 韮崎市 坂井遺跡の発掘者

鳥居博士を迎える その頃の日記から

『中央線』爽涼号 1968 一部加筆
 
昭和七年三月四日、北巨摩郡教育会郷土部に於いて、先史遺物遺跡について発表会を催すにあたり、斯学の権威鳥居先生の御来峡を乞い、遺跡地を実地踏査の上御教導を御願いする事になった。
 この日韮崎駅午後零時四十分の列車で先生がお着きになることになっていた。気遣われていた二月末日の大雪も消えて、その日は朝から晴れた無風快晴。先生を御迎えする郷土部長柳本駒治氏と甲府駅まで行き、暫く待つと列車はホームに入った。
 私はその車中で先生の御顔を見た時、ただ懐かしく、感謝の気持ちでいっぱいだった。先生は十分問の停車時間を、慌しく人々の応接に過ごされた。お迎えの師範学校の桂川先生が専攻科の生徒を引率して同車した。
 発車と共にその慌しさが過ぎると静かに先生を囲んで種々の話が取り交わされた。韮崎駅頭には北巨摩教育会長矢田一法氏、同郡郷土部副部長浅川耕三氏を始め部員等約三十名が出迎えて下車、一行は坂井遺跡へと向かう。途中鳥居先生は韮崎市の福地八幡神社の仁王門の破風にある鬼面に眼を注がれ、何処の地方にも見られぬ類例のない珍しいものであると言われた。これは当地方の建築様式であったのか、あらゆる神社に使用されている。同神社境内の道祖神の石岡の傍にある石棒を見て戴く。この石棒の発見地は不明であるが、思うには藤井平の南部、同神社の前方に於いて発見され、ある時代の人達が道祖神に祭祀したものであろう(当地方には比のような類例は多くある)。
 建徳寺坂を登りつめて、眺望の良い所で休息する。茅ケ岳高地穂坂方面の遺跡地の各所、七里岩と穂坂の台地に挟まれて塩川沿岸の幅約一千米位、両方の台地より約八十米も低い帯状の藤井平の遺跡地、北下条の宇田中、坂井の後田、中田町の小学校附近遺物散乱地を展望して一行は、臼窪へと向う。
 枯草に覆われた狭い野道を行く。臼窪近付近で始めて先生は土器の破片を拾われた。南に向かって緩傾斜の松と櫟(くぬぎ)の二反歩位の雑木林であり、一抱え半もある櫟の大木の根本に、地上三五センチ、たて七五センチ、横五二センチの大形自然石の頂上に径二一センチ、深さ一四センチの臼が穿かれている。先生はこの日を使用した当時の民族の原始的な生活状態を、現在に於いても踏襲している遺風にと、周囲の情況からも考えられて、この様な遺跡は極めて少なく、貴いものであると言われた。この様な臼は、附近に於いても三個もあったが、うちの二個は破壊して、石垣になっている惜しいものだと先生も云われた。
 それから一行は私の家で番茶に咽喉を潤し乍ら休憩し雑談に花が咲いたが、たまたま先生が牡丹を好まれるという話になり、記念のため一本を差し上げる事にした。所持している遺物を御覧願って説明して戴くことにし遺跡地を一巡すべく出掛けた。
 土器石器の出土に比して石鍬が少ない。従って黒曜石の破片も少なく、諏訪の和田峠に近い場所としては不思議であり、研究も要すると先生は言われた。
 遺跡地の西端には約七〇センチの高さの土手がある。これは無川沿岸より登り得られる縁にあって、当時彼等が外敵を防衛するために築き上げたものではないかとも言われた。
河床より約八〇米を抜く峻崖の上に立ち、釜無川を隔てた川筋を展望された時は、先生も要害の地だと質せられた。
 坂井の遺跡は七里岩の南部に位する故に東西の幅は約八百米、塩川、釜無川より八十米の高きにあり、東西から言えばこの道跡地はチヤシ的である。又新府城跡も彼等のチャシで一朝事の際は附近の彼等が集り防衛線を張ったものと思われる。この附近一帯は現在の如く展望も良くなく、当時は大木も茂り昼尚暗い有様で、変通も容易ではなかつた事であろう生活状態は獣類を得るには容易で、従って余裕があったろう事が考えられる。只樹種は不明で針葉樹か落葉樹か研究を要するが、とに角海岸地帯の平地のみ研究している学者に見せたく思う。
 当時歩行は困難をきわめたため、多く川辺を利用し、交易については、たとえば黒曜石の石鍬にしても、信州の和田峠の甲地から、乙地へと転々と物々交換によって交易され、遠隔の地になればなる程貴重なものになったであろう(産地には所有権もあったであろう)このような有益な御話を種々御伺いして解散する。先生は拙宅へ御一泊。夕食後も先生の御教導を受けて午後十一時頃臥床する。

三月五日 晴天

 先生は早く起床されて散歩、牡丹など鑑賞される。時事新報社に送る原稿を書かれた後に朝食。集まった数名と共に今日の集合地たる韮崎市穴山町に向かう。韮崎市天神町、中田町中原の遺跡地を一寸探査する。穴山町の中央線の随道の南口より同町石水において、弥生式土器が並列して出土した個所を調査した。案内人の堤盛房氏の談話によれば弥生式の土器が五個から並んで出土したとのことであった。
 先生は幾個も並んで発見された点について「当時祭などに使用したものが其のまま埋れたものではなかろうか」、など説明された。穴山小学校前の、北にチャシを有する遺跡地の竪穴住居跡の断面を見て、「竪穴住居は冬期、寒さを凌ぐために住み、夏期は風の吹き通しのよい草家を平地に造り住居したものであろう。夏では如何にしても竪穴では暑くて住み難く、それに反して冬期はこんな暖かいよい住家はなかったであろう」と言われる。
 この先生の話から考えると、当地方に於いては石器時代の風習に従ったであろうか。大正五、六年頃は冬期農閑期に藁仕事をするのに、六~七〇センチ地を掘り下げ細木を組み合わせて円錐形のわら書き足根で天地権現造り、南側に面して障子一本を立て、光線をとり、掘った土はその裾にかけ竪穴式のその中でわら仕事をしたものが一村に一~二ケ所は見受けられた。
又夜警小屋もこの様式で造られたのであった。中央には炉をつくり焚火によって暖もとったのである。この頃はまだ農村家庭にて床張りせずに土間の生活をしていたのも見受けられたが、現今は全くその影を失ってしまつた。
 遺跡地附近は一帯に桑園になったために、発掘して詳細にわたり調査する事が出来なかたのは残念であった。

小笠原小学校(旧櫛形町 現南アルプス市)

 七里岩を西におりて信州往還に出た一行は自動車に乗って一路小笠原小学校へ向かう。
 同校職員と女子青年団の接待を受けて中食をすませて後に、遺物の説明を願い、遺跡地を一巡したが、新しい耕作地であるのを、郷土部調査のため発掘した跡であったため遺物の採集は出来なかった。

長坂町 清春小学校

 それから七里岩の中部の清春小学校に向かうべく、一行は釜無川を渡り、同村片颪(現白州町花水)の随分長い坂を登った。比処の西側の雑木林にはまだ残雪があった。汗をふいて一行雪を口に入れて咽喉を潤す。先生はこの時こんなことを語られた。
「明治二十八年に台湾の新高山に冒険的な登山をして頂上を極めたことがあったが、露営するのに水がなく、案内の蛮人に遥か向こうの白く見えるものが雪ではないかと探らせた処,図らずもそれが雪であったために助かったと、それまで
は新高山の白く見えるのは石灰岩と称していたが、この踏査の結果雪と判明したので早速東京大学の地学部に報告したところ、大変に喜ばれた」。
 こんな話を聞き乍ら清春村小学校の校庭についた。高燥地の小学校なので、周囲の雑木林越しに富士や南アルブス、茅ケ岳がよく見え、雄大な展望をもった山岳地帯遺跡地であたりは八岳山麓なので、現在も雉子、山鳥、狐等が繁殖している。猟師などは家を出掛けて二時間の内に雉子を四羽獲って帰るというレコードもある。そんな訳で学校にも、この附近で獲った狐が郷土室に標本となっている。同校所蔵の遺物を見てもほとんど縄文式の中期の遺物である。
 清春から長坂に行く途中には深沢がある。この深沢は峠とも言えるような、長い坂で、すぐ隣まで行くにも大きな迂回路となっている。山岳地帯に住居した当時の人々の交通が容易なものでなかったことが偲ばれる。容易に交通の便がはかれる文明の現在と、当時とを比較すると面白いと先生は話された。その時桂川先生は、「愛知県のある地方では、最近まで跳木を使用したことを一言語られた。俗称(跳木)は、雑木の丸太を長さ二五糎くらいにたま切り、薄くへぎつくったものを便所の片角にたてて置き、用便後の後始末にはねて置き、両端を使ってから捨てるとのこと」、このほかに地方の大家族制とか親分子分等についての話を交しながら何時しか長坂駅についた。汽車で日野春に行き日松館で旅装を解き、
夕食後も種々の点についても先生の御話を伺って十一時に床についた。

三月六日 晴天

 払暁六時に博士の夫人が御来峡下さった。 博士の助手として御令息竜次郎氏が御同伴下さる事になっていたが都合悪く、夫人が御同伴下さる予定であったが、またいろいろの御都合が出来、又私の発表書の印刷がおくれたため、それをお待ちの意もあって遅れたわけである。
 発表書といえば、今度の私の発表については一方ならぬ御配慮を頂き、かつ(武蔵野第一八巻第三号)の別刷印刷全の御寄贈にあずかり感謝に耐えない。
 本日の郷土部発表の間にあうよう御奔走下されてわざわざ御持参下された夫人の温情もありがたく頭がさがる。
 この日研究部員一同は早朝より遺物陳列に忙しく時を過ごす。私は小学校各研究者に拙書を一部宛配布した。
 午前十時半より午後二時まで先生の御講演があった。聴講者は全県下に亘り、会場は立錐の余地もない盛況であつた。
 先生の御講演は初学者にも甚大な参考になり熱誠溢れるもので心から感謝した。先史学については未だ処女地の当地郷土部の催しには御期待下され、御賛成をたまわった。
 御多忙にも拘らず万障繰り合わせて御来峡下され、二日間にわたって遺跡遺物について実地に御教導下され、私共に多くの指示を与えて下さったことを感謝する。御講演後帰京されたので、桂川先生は甲府まで、柳本先生と私は韮崎まで同車。博士の好まれる牡丹の一樹を、車窓で差しあげて感謝しながら別れを惜しんだ。(昭和七・三・七記)





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最終更新日  2020年06月16日 17時57分36秒
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