カテゴリ:山口素堂資料室
目には青葉 山ほとゝとぎず 初鰹 幸田露伴評
素堂は山口氏、葛飾風の祖なり。 芭蕉これを兄事せるが如し。 故を以てこゝは芭蕉が師事した 季吟の次に置けるなるべし。 句は眼、耳、舌の三根に對して 同季の三物を挙げて列し、 以て初夏の心よきところを言へり。 一句中に同季のもの挙げて 其主題の明らかならぬは忌むところなれど、 それらの些事を超越して 豪放に言放てるが中に微妙の作用ありて 人おのづからにほとゝぎすの句なることを 感ずるは、霊妙といふべし。 青葉と云ひて、 ほとゝぎすと云ひたる両者の間の山の語、 青葉にもかゝりて、 絲は見えねど確と縫ひ綴められあり、 ほとゝぎすといひて、堅魚といひたる間の初の語、 堅魚には無論にかゝりて、 又郭公は何時もこれを待つこと他の鳥ならば 其初音に焦るゝ如き情けあり。 既に、郭公はつ聲、と云ひかけたる 素性法師の歌も古今集巻三にあり。 かゝる故に暗に郭公にもかゝりて、 是亦両者を結びつけて隙間無く、 しかして郭公青葉と堅魚の其中心に在りて おのづから主位たるの實を現わし、 一句を総べて渾然一體、 透徹一気に詠じ去れり。 是の如きを天衣無縫とは云ふなり。 素堂の気象の雄なる、 偶然にして是の如き句の成れるに 至りしにもあるげけれど、 其人治水の功を立てゝ 甲斐の國には生祠を建てられ、 又他の一面には茶道に精しくして、 宗偏の茶道の書に求められて 序を爲れるほどの隠士なれば、 雄豪一味のみにてかゝる句を 得たるにもあらじと思はる。
(『評釈曠野 上』所収 昭和十一年刊) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月18日 17時48分23秒
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