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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月19日
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明治期の内田不知庵氏が、当時引用出来得る限りの吉文献を駆使して、興味深い芭蕉論を「芭蕉後伝」
(素堂鬼貫全集)として展開しているので、抜き出しながら紹介するが、不知庵氏の骨子は是々非々の立場を保とうとしているものの、概ね芭蕉門葉の伝書などを用い、元禄期の花見箪、化政期から幕末期の「芭蕉論」書を交えて綴っておられる。編年体論でないところから、芭蕉賛美論に終っているところが少々煩わしい。
 
「芭蕉後伝」の(二)芭蕉の学識修養の項の中で
 
『芭蕉は実に此門(季吟)に出づ。洛に住する数年、季吟に教を受けて古しへの俳匠の為るが如く、万葉.古今.源氏.狭衣等の諸典を研鑽しぬ。芭蕉が見地の時流より一等上りしは、一つには此学問あり為めなるべし。勿論学者とし見れば、盛名今に残れる同学者若しくは儒者よりも、造詣深からざりしなるべけれども、無学者も亦一躍して点者たるを得べき俳壇にありては、通常以上の学識ありしが如し』
更に
『且つ当時の古今を崇拝し、源氏を随喜する中に、特に「山家集」と「金塊集」との気韻高きを推し、「土佐日記」を俳諧なりと喝破したる如き眼識の、決して尋常ならざりしを知るべし。殊に季吟が芭蕉の説を聞いて、万葉の一疑を釈きたりといふ逸事の如き、益々芭蕉が超風の読書眼を具せしを証するに足る』
 
 土佐日記で思い出したが、寛文元年の初冬頃、季吟が江戸の知らせで、林春斎が誰とかの注釈「土佐日記」が版本され、その序文を春斎が書いたと知り、季吟が「春斎に何が分かるか」と立腹した事が「季吟日記」にあった。また『季吟が芭蕉の説云々』の処は、「芭蕉一葉集」(湖中他共編文政十年刊)の「遺語之部」に
 
  季吟云、・・或時桃青・・として載せ、末尾に「季吟物がたり素堂より伝ふ。」
とある。
 なおも不知庵氏は、芭蕉が儒学を伊藤担庵に学んだとし
 
『山口素堂に益を享けたり、漢詩の文芸、殊に経学に精通したる事跡伝らざる上に、林門の一書生にして不熟の悪詩を残せし素堂をすら、詩に精しと称したるほどなれば、造詣の度は患像すべしといへども、白氏を渉猟したるの痕跡は、明かに俳句の上に見えたり。且つ平生
杜律を誦受して--中略--唐詩は恐らく精読せし処なるべく云々』
 
続けて
 
『然れども、芭蕉の俳骨を渾成せしは国典にあらず、儒学にあらずして禅の修養なり。芭蕉は仏頂と往来せし日短く---中略---仏頂との往来が正風開創の一導火となりしが如し。
  門人浪化曰く、仏頂禅師と茶話の詞あり、翁いはく、道心を求めんとするもの、着し市中の愴忙に飽けば幽谷に隠れん、其初めに飽くものは其終りは寂莫に飽かん。左れば、今日の是非に交りながら、其是非つかはれずして自在に道を得んこと、此俳諧に遊びて名利を圧はんには如かずどなり』---中略---「然れども芭蕉は生涯禅を説かず、常に門人に道義の重んずべきを諭したれども、参禅工風の甚深なる妙趣を説法する事とて勿りき。後人が濫りに「古池の句」に附会して「特別の禅機」を這句裡に示したりと云ひ---中略---終には禅を学ばざれば、芭蕉の句を解する能はずと云ふ如きは、云々』
 
 この個所は、本小論の冒頭の命題と同じである。不知庵氏は支考ら説や錦江の説も読んでいた。ただ芭蕉が参禅したのは禅機を得るためでは無い、己の性癖修養のためである。
 
  「芭蕉の学識は大凡斯の如く、惣ての詩人が概ね爾る如く深奥掩博なるものにあらざりき。勿論、学才と眼識とは明かに時流に超えたれども、修養の深浅広狭を以て比ぶれば、季吟の篤学なる、素堂の博聞なる由的の精通なる、其他猶ほ芭蕉に勝る者多かりしなるべし云々」。
 
 前にも述べたが、不知庵氏はこの書で芭蕉の性癖及び行状の項に逸しているのだが、持って生まれた性格を分析していなかった点にある。多くの芭蕉論に.洩れているのと機を一にしているのである。
 芭蕉は天才肌であり、軽重浮薄なところがあって、見識が高く、物事に対する自己顕示欲が強く、しかも朝令暮改的要素を含み、我が儘な点が多い。しかし、物事に対する執心は強いのだが好き嫌いが激しく、学識は浅く広くと、云った点で、為に上水道改修水吏を途中で投げ出して深川に隠遁し、己の修養に目覚めて参禅した訳で、諸伝が云うような参禅では無かったのである。確かに人品備わり人を別け隔てなく接し、情が濃やかで人当たりが柔らかくといった良い点は多くある。これが無ければ多くの門弟たちを厳しく指導しても従わなかったはずである。人柄の温かさがあったのである。(芭蕉の門人と称する人々も追善興行に参加しなかった俳人も多く見える。芭蕉の心でなく名声だけ利用していた者も多かった)
 芭蕉の才能を愛した素堂は、出会いからその性格を見抜き、その欠点をそれとなく悟らせようとした。それが「蓑虫応答」(芭蕉と素堂の一連の遣り取り)である。結果は分からないが素堂の意に反していたようである。芭蕉は芭蕉で俳文を綴れば素堂に見せて意見を聞くと云った(幻住庵の記まで)事が続いている。
 
不知庵氏は
 
「蕉が平生愛謂して幻住庵に落柿舎に、或は行脚に折々に携へしとて、明かに知れたるは「白氏文集」「杜子美詩集」「世継物語」「源氏物語」「土佐日記」「百人一首」「吉今集」「吉今集序註」「山家集」「応安新式」等なり。其他の国朝諸典は季吟の門に在りしなれば、勿論ひとわたり渉猟せしならん。「徒然草」「方丈記」宗祇・長嘯の家集及び謡曲・小唄の如きは、好んで沈読せしか止思はる。
 
更に(三)芭蕉の俳風で、
 
「芭蕉が俳諧の壇上に建し新旗幟は不易流行の説なり。此不易論は、芭蕉が多年の修練工風より捉来りし見地にして、単り俳諧の上のみにあらず、自家の安心立命も亦此中に宿せしなるべし。之を俳諧の上に於てせば、不易とは時代の変化に移らず、千古に通じたる風情を咏びしをいふ。曰く「万台不易あり、一時の変化あり、この二つに究まる。其一といふは風雅の誠なり、不易を知らざれば実に知るにあらず。不易といふは、新古によらず変化流行にもかかはらず、まことによく立ちたる姿なり。代々の歌人の歌を見るに、代々其変化あり。又新古にもわたらず今見るところ、昔し見しにかはらずあはれる歌多し。是れ本と不易心得べし。又千変万化するものは自然の理なり。云々(赤草子)
 
 この説を芭蕉が唱えるのは元禄二年(1689)の奥州北陸吟行の時であるが、(呂丸の「聞書七日草」)ここでは「天地固有の俳諧説」ではあったが、素堂は貞享四年(1687)十一月に、其角の「続虚栗集」に序文を与え、『不易流行説』とは銘打っていないが
 
「風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず、たれかいふ、風とるべく影ひろふべくば道に入べしと、此詞いたり週て心わきがたし。ある人来て今ようの狂句をかたり出しに、風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすに似たり。あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、ただけしきをのみいひなして、情なきをや。古人いへることあり、景のうちにて情をふくむと、から歌にていはば「穿花挟蝶深深見 点水蜻蛉款々飛」これこてふとかげろふは処を得たれども、老杜は他の国にありてやすからぬ心とや、まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるベき云々」
 
 続虚栗の序文は後項の「素堂と芭蕉の俳諧論」で、芭蕉の「虚栗の序」(天和三年)と併せて紹介するが、素堂の俳論で重要なのは次の点で、
 
「はなに時の花有り、ついの花あり。時の花は二度妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむの心ならし。人みな時の花にうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人の師たるもの此心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さる翁のかたりける事あり。鳩の浮巣の時にうき、時にしずみて風波にもまれざるごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。余わらひて之をうけがふ。いひつゞくればものさだめに似たれど、屈源楚国をわすれずとかや。これ若かりし頃狂旬をこのみて、いまなほ祈にふれてわすれぬものゆゑ、そゞろに弁をついやす。君みずや漆園の書いふものはしらずと。我しらざるによりいふならく。」
 
 清水茂夫氏(故)は論文「素堂の俳潜・天和貞享時代」の中で
 
 「時の花とは一時に興を求めるものであり、その時だけの目新しさ新奇さをもった句である。終の花とは永遠にその生命の変わらないも
の、つまり芭蕉の言う鳳雅の誠を責めて作られた句である。後年蕉門において盛んに論ぜられた不易流行論は、既に素堂を通じてこういう形で、最初に提出されたのである。」
 
 いま少し追加すれば、素堂・芭蕉蔓焦とも貞門俳諧に出て談林調に浸り、天和調(漢詩文調)流行の中に在っては漢学者の素堂にとり、得意の分野ではあるがのめり込むことはなく、ただ遊んだだけの事で、続虚栗序にある通りである。これとは反対に芭蕉は談林漢詩文調にどっぷりと浸ってしまった為、その行き詰まりを感じて脱出に苦心していた。天和の初めの頃芭蕉は新式興隆をうたったものの、なお模索をしていた処へ江戸大火事に会い類焼し、誘われて甲斐谷村に流寓して江戸に戻った。しかし門弟の其角の『虚栗集』の序文を書いた時は、まだ方向が定まっていなかったのである。
 今日定説の如く云はれる「旅を家とす」と云う気持ちを持つのは、もっと後のことであろう。芭蕉は現状を脱するには、座して考るより旅に出てとしたのである。
 素堂の「続虚栗序」は其角に対して物であるが芭蕉に向けた文が主で、其角には
 
「お前さんの師匠は芭蕉であるから、序を私に求めるのは筋違いであろう」
 
と、諭している。其角は初め素堂のもとにいたが、芭蕉に付かされたのであろう、その後も其角は素堂に序文をねだっている。
 素堂と芭蕉の句作の傾向は前述の通りで、年代順に追えば判ることだが、初句を発表してから推敲し直し成句にしている数は芭蕉が圧倒的に多い。共に自ら刊行することをせず、色紙等でも作年が記入して有るものも少ない、芭蕉は門入等による選集が多く、これに載集されているから良いが、素堂の場合、門弟は取らなかった事もあるが、興に乗った時の作や頼まれての物が圧倒的に多く、残されている作も他の人の句集に取られたものが主であるから大変に少ない。死後に刊行された「とくとくの句合」『素堂家集』によって見ても少ない。従って芭蕉の研究が多く成されて、素堂は後年まで俳壇のバックボーンとして別格の位置に据えられ、研究の対象外に置かれてしまい、時々篤学の人によって掘り起される始末となったのである。
 例えば与謝蕪村・小林一茶・夏月随斎らがそれである。
素堂の甥の山口黒露、親族と云う越智百庵(寺町氏)は近いのであるから、能弁で有っても良いはずであるが寡黙に近い。三世来雪庵素堂(佐々木氏)も同様、素堂の門流を称する馬場錦江は「白蓮集解」の研究書を著しているが、何れも芭蕉の研究には熱心であった。それだけ素堂が隠士の名に隠れて、芭蕉を後援していたと云うことであろう。
 
 素堂を「林門の一書生」と痛罵した不知庵氏も
 
『蕉門の元勲といふべきは「二十歌仙」(延宝八年)の作者、殊に杉風・ト尺・嵐蘭・螺舎(其角)・治助(嵐雪)の五人と素堂なり』
 
と、無視することは出来なかった。また芭蕉没後の蕉門について
 
『嵐雪と其角は芭蕉の徳量を欠くを以て、同門諸子及び諸国の俳匠を馴伏するを得ず、蕉門は条忽ち統一失ひて、滅後数年ならずして崩壊し「二十五条」を説き「十七条」を論じ「茶話禅」唱え、「山中問答」を称し、「貞享式」を銅破し「旅寝論」を絶叫し、宇陀法師に諤々し、「続五論」饒舌す。--中略----杉風は耄(おいぼれ)し、丈草は隠れ、其角は嘯(うそぶ)き嵐雪は黙し、惟然は狂し、去来は歎じ、素堂は知らざる倣して、伊賀の三十一人衆は聾の如く唖の如し』
 
と、手きびしい。今日の明かされた資料からすると、不知庵氏の記述は一方的であるが、それはそれとして、蕉門の軋轢は芭蕉の生前から有り、芭蕉もかなり持て余していた。それを素堂は一分始終を知っていたらしい。丁度芭蕉の死と機を一にするように、素堂の身辺にも不幸が襲い(妻の死など)、蕉門間の取り纏めをする暇も無いほどで有った。
 選集の出来を巡って其角・嵐雪に攻められた杉風は、深川に退隠して表に出たがらずに、それではと、西の去来に「蕉門建て直し」の期待を託し、素堂はしばしば京都を訪れては口説いていた。去来抄の巻末には「人伝(づて)」の如く記してあるがそうでは無かろう。
 
「今年素堂子、洛の人に伝へて曰く、蕉翁の遺風天下に満て、漸又変ずべき時。いたれり。吾子こころざしを同じうして、我と吟会して一ツの新風を興行せんとなり。去来云、先生の言かたじけなく悦び侍る匂予も兼て此思なきもあらず、幸に先生をうしろだてとし、一つの新風起さば、おそらくは一度天下の俳人驚ろかせん。しかれども、世波老の波日々にうちかさなり、今は風雅に遊ぷべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍のみと申。云々」
 
 『去来抄』は偽書との説もあるが、元禄十五年頃までには成稿されたものと考えられており、また十二・三年ころの著とする説もある。素堂は元禄十一年・十三年・十四年から十五年にかけて上洛している。
 
素覧の「東武太平鑑」(荻野清氏紹介)には、
  「江戸風の鑑とて今世さまざまに品つくり、変りたる風をよろこびて、目にあまる事おびただしければとて、葛飾の素堂大人此由、丈草・去来がもと、そのほか伊貫の衆にはかり、俳諧正風のおもてを興さむとありけれども、去来は手届かず、又丈草は此ほど身すぐれずとて取わず、ただ伊賀の衆中には志をのべてこしたるもありけれど、力なくてやみき云々」(「俳諧二百年史」紹介)
 
荻野氏は
「隠逸にして、人を訪ぬるさへ煩しいとした人物である。かかる彼が、俗に趨いた其角一派の句風に飽き足らず思つてゐた事は背かれるとするも、それ以上、新風興行等の煩瑣なる企画をなさうとは思はれ無い。彼の俳諧観及び其角との関係より見ても此事は疑はしい。云々」(山口素堂の研究上)
 
と、記すが如何であろうか。
 
 元禄十五年は、不知庵氏が主に取り上げている、京の轍士の編集による「花見車」が刊行されている。素堂は宝永元年四月に上洛の旅に登ったが、前年の十二月の元禄大地震のあとの大火で類焼したのであろうか、町奉行所に深川六問堀続きの地に家作願いを出し、七月に許可が出ている。その九月には去来は病死し、素堂は京都で越年して翌二年四月に江戸へ向い、尾張鳴海の知足亭に寄り、江戸に帰った。その九月の去来追善集『誰身の秋』(元察編)に追悼句を寄せている。
「随斎諧話」に去来の死後、支考が向井家を訪れ、秘蔵の「伝書」を買い取ったとの記事があるが、如何であろうか。「去来抄」は安永四年に暁台の編集で刊行されている。尚、去来の父元升は儒医として禁裏に仕えたが、元長崎において「聖堂祭酒」(儒学の校主)を務めていた。恐らく素堂と桐山知幾とを結び付けたのは元升であろう。素堂と芭蕉は親友で在りながら、ある点までは素堂は先輩として芭蕉をリードし、芭蕉は素堂を目標として指導を仰いだ。ある点から芭蕉は素堂をライバルと意識しはじめたが、旅行中にも門弟に手紙で
 
「素堂文章此近き頃のは御座無く候哉、なつかしく候」(元禄三年九月、曾良宛書簡)
 
と、素堂の序文等を求め、句作の方向を探っている。
 兎に角、素堂の資料は数が少ない。これも素堂の生き方であるから致し方ないが、ただその資料は芭蕉の資料の中に埋没しており、つぶさに検証すればその掘り起こしも可能である。芭蕉が元禄四年の「嵯峨日記」中で
 
「長痛隠士の日、客半日の閑を得れば、あるじ半日の閑をうしなふと、素堂この言葉を常にあはれぶ。予も又 うき我をさびしだらせよかんこどり とは、ある寺に独居して言いし句なり云々」
 
と記す。隠士とは名ばかりの素堂にとっては、多忙の日々の閑日を持った時は大事にしたいから、芭蕉であっても事前に手紙で訪問の打ち合わせをしないと会えなかったのである。荻野氏の解くように「折にふれて所懐を述ぶる程度に云々」とするには無理がある。
素堂は自由詩人であり即興詩人である。興が沸かないと作品は作らない。誘われないと俳席にも一座しない。色紙を依頼しても興がないと出来上がりが遅いなどがある。元々寡作で有った素堂は、芭蕉の死後は余計瓢々と過ごすのはもっと後の事であったのである。





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最終更新日  2020年06月19日 15時56分12秒
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