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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月19日
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馬場美濃守信房公の生涯

享禄四年(一五三一)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎市)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政(信房公)は、十七歳にして殊勲の功をなした。それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。

景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操作を仕込んだという。

<馬場伊豆守虎貞>

大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。その勇に誇り悪行つのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清などが諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。

天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職とたる。教来石民部景政も武川衆の一隊長としてその幕下に加わった。(筆者註―これは間違いで、信房公は武川衆の一員ではない<別記>)

天文十一年瀬沢(長野県富士見町)の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原域攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。

天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、

天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将とたる。

天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、天文十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、

天文十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。

天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶臼山に陣する(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動たりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)

天文二十三年八月、甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春目弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。

永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信房と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴牧伊勢守、平林藤右衛門、ねごろ鶏大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。

永禄三年十月、信春は牧島域の城代とたる。


川中島大合戦


永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てる」と進言した。

信房公は、「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべき味方の犠牲を少なくするために慎重な作戦をたてるべきである」と進言した。

そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍勢、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。そこで本隊は、八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いたしと存じます」と進言した。いわゆる「きつつき戦法」である。信玄はこれを採用した。

筆註―これは後世の創作歴史で「きつつき戦法」は信房公が仲間と戦い方について討議している中で「けらつつき」と題して『甲陽軍艦』書かれている。>

妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山縣昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。馬場信房ら妻女山攻撃隊は深夜に出発。

翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。

しかし甲軍(武田)の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全城を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦とたった。

妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。卯の刻(午前六時)から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。

甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむった。

午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信房であったと『甲越川中島戦史』などで伝えている。

このとき信房公は四十七歳であった。その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、

永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、退撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃守信房公などの奮戦によってこれを破る。

信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏真の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めに際し、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画.骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかげては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。

そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。

城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は

「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いの種になる。構わぬ焼やしてしまえ」

と、曲輪内に大挙して踏み込み、片端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し

「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」

とつぶやいたという。


田中城は馬場信房公の縄張りによったものである。


信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房公に縄張り

致さすべしといったという(「武田三代軍記」)

馬場美濃守は築城の名手でもあった。

元亀三年(一五七二)十月、馬場、山県隊の武田軍は徳川方の中根平左衛門正

照、青木又四郎広次らが籠る二俣域(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。

馬場信房公は、普通の手段では城は落とせない、城飲用水に使っている天竜

川の取り入れ口を破壊し、城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣域は忽ち混乱が起きた。

それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、域将中根正照は城門

開けて武田軍に降伏した。

この時、浜松城にいた徳川家康は二俣域を援けようとして自ら数千の兵を率

いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。

武田勝頼、馬場信房公、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚げる手初めなれば、信玄の大事是にすぐべからず」(「武田三代軍記」)と三方ケ原において徳川軍と戦う。

家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が問近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡Lたが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきった。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(「武田三代軍記」)

翌元亀四年(天正元年)(一五七三)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信房にも老いが迫っていた。信房は部下の若老たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。

一つ敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆とかして見える目は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。

二つ場数を踏んだ味方の士を頼りにする。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。

三つ敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指Lもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返L仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。

四つ敵の穂先が上っている時は弱漱と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。

五つ敵悔心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。

信房が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかたっている。「信房が二国太守の器量人」、といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。

天正二年一月、勝頼岩村城付城を陥れ、明知城にも迫り、

二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を「武田三代記」は、

「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申さん」、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚麟に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、真一文字に突懸れば、信長取る物も取敢ず捨鞭を打って引返さる」、と記している。

天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもつて固める長篠域を包囲して攻めたが容場に城内に侵入することができたかつた。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。

武田勢は長篠城を挾み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林を後ろ楯に六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、」(これに向かうことは不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再機を図るようしと進言した。このとき跡部勝資は「一戦も」交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに同意して、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意する。「(武田三代軍記)

この戦いで馬場美濃守信房公は敵に命を与え、輝かしい戦歴の幕を閉じる。

長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。






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最終更新日  2020年06月19日 16時11分18秒
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