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2020年06月20日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
美豆御牧(山城の牧)甲斐の歌ではない

○ みつのみまき(美豆の御牧) 
   まこもかるみつの御牧の駒の足 早く楽しき世をもみる哉
『兼盛集』類従群集。巻第二百五十  兼盛-平氏。生、未詳~没、正暦元年(990)

○ 隔河戀
   山城の美豆の里に妹を置ていく たひ淀の船よはふらむ 
『頼政卿集』戀 類従群集。巻第二百四十六
   頼政-生、長治元年(1104)~没、治承四年(1180)

○ 美豆御牧よみ人しらす
 小笠原みつのみまきにあるゝ駒 もとれはそ馴るこらが袖かも
 『夫木集』

○ 美豆御牧
   五月雨に里にもみつの河近みほす かりこもや庭の浮草
 『和歌名所詞花合』 類従群集。巻第四百二十

○ 美豆の江のまこもゝ今は生ぬれはたなれの駒を放ちてそみる
『堀川院御時百首和歌』春類集群従。巻第

○  かりてほす美豆の御牧の夏草は しけりにけりな駒もすさめす
『内裏名所百首』 夏

○  かりこもの五月の雲に成にけり 美豆の御牧の夕暮の空

○  渡する遠方人の袖かとよ 美豆のにしるき夕かほのはな

○  まこも草末こすまてに日数ふる みつの御牧のさみたれのころ
 
○ よみ人不知
   徒に美豆の御牧のまこも草からて浪こす五月雨の比 『菊葉和歌集』類集群従。巻第三百七十二
 【成立-応永七年(1400)頃?】

○ 美豆御牧 
   刈とほすみつのみまきの夏草は 茂りにけり駒もすさめす
 『順徳院御集』類集群従。巻第四百二十四
  順徳天皇-生、建久八年(1197)~没、仁治三年(1242) 

○ 名所百首  前右大臣   
   五月雨に駒もすさめすまこも草美豆の御牧の浪にくちぬる 『菊葉和歌集』類集群従。巻第三百七十二
 【成立-応永七年(1400)頃?】
 
○ 春駒  満祐 
   のとかなるよとの川波春見えて みつのみまきに駒そいはゆる 

○ 西の国の方へ修業にまかりけるに、美豆野と云ふ所にて
伴ひなれたる同行の侍りけるが、したしきものゝ例ならぬ事
侍るとてとゞまりければよめる
   山城のみづのみくさに繋がれて 駒物憂げに見ゆる旅かな
『頓證寺法楽百首』応永二十一年(1414)
 
○ 大和守輔尹
   比ぶべき駒も菖蒲の草も皆 みつの御牧にひけるなりけり
 『栄花物語』
 
○ 順徳院位の御時、名所の百首の歌召されけるに、
  美豆御牧 皇太后宮大夫俊成女
   船とむるみづのみ牧のまこも草 からで假寝の枕にぞしく
『玉葉和歌集』巻八 旅歌 【成立-為兼撰。正和元年(1312)】

○ 基俊
   なつくともいかゝとるへき草わかみ みつのみ牧にあるゝ春駒
 『堀河百首』
 
○ 名所百首歌奉ける時  従二位家隆
   春ぞ見しみつの御牧にあれしこま 有もやすらん草かくれつゝ
『新後拾遺和歌集』 【成立-嘉元二年(1304)奉覧】撰-二条為遠・
 
○ 橘能元
   日をへつゝみつの野沢のまこも草 あをめは春の駒そいはゆる
『天仁二年十月顕季卿家歌合』

○ 屏風の繪に霧たちわたりたるところに
馬はなれたるかたかけるところを  
   とりつなけみつのゝ原の放駒 よとの川霧秋はゝれせし
藤原長能  『金葉和歌集』第三
 【成立-天治元年(1124)奉覧】
 
○ 美豆御牧  藤原定歌
   わたりする遠方びとの袖かとや みづ野にしろき夕がほのはな
『拾遺愚草』「詠百首和歌」
  定家-生、応保二年(1162)~没、仁治二年(1241)
○ 五月雨  相模
   五月雨は美豆の御牧の真菰草 刈りほす暇もあらじとぞ思ふ
『賀陽院水閣歌合』【左大臣頼通、長元八年(1035)】
  参考
 
○ 堀河院の百首の歌に、同じ心を大納言師頼
   蛙なく美豆の小川の水清み そこにぞうつるきしの山ぶき
『続後拾遺和歌集』巻二 春歌下 【成立-正中二年(1325)奉覧】
二条為藤・為定撰
 
○ 題志らす  後鳥羽院御製
   春雨に濡れつゝ折らむ蛙鳴く みづの小川のやまぶきの花
 『続後拾遺和歌集』巻二 春歌下
  
 注…《美豆(みつ)の御牧》は山城の牧)
《甲斐国志以来、甲斐の歌として取り上げている書が多く、あるが美豆の御牧は山城の牧》
 注…『甲斐国志』は小笠原牧を、「美豆ノ牧とは穂坂、小笠原、逸見三所を指して云なるべし」としている。
 注…『甲斐国志』には「按ずるに穂坂の庄に三ツ澤村あり。
又小笠原(現明野村)の方へ通づる路を三ツ沢通りと呼ぶ斥之か」とある。
『甲斐国志』巻四十七 古蹟部第十





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最終更新日  2020年06月20日 20時20分55秒
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