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曽我物語 そがものがたり 犬井善寿氏著 一部加筆 白州ふるさと文庫
江戸時代、江戸歌舞伎の各座では、初春狂言は「曾我物」とする慣習があり、明治初期までこれが続いていた。 最初の「曾我物」の歌舞伎の上演は宝永五年(一七〇八)の「傾城嵐曾我」で、これが大当りであったことにはじまるという。 「曾我物」とは、よく知られた、曾我五郎・十郎兄弟が父の仇である工藤祐経を順難辛苦の末に討った件を題材とする戯曲であり、歌舞伎以外にも、能・幸若・浄瑠璃・長唄など、ジヤンルも種々で、種類も極めて多い。 室町時代以降、江戸時代から明治ヘと、人々は、戯曲によって曾我の話を享受していたのである。 文字を介した兄弟の話も多い。最も早く兄弟の仇討を記したのが、『吾妻鏡』である。建久四年(一一九三)五月二十八日の条に。 故伊東次郎祐親法師孫子、 曾我十郎祐成、同五郎時致 致推参于富士野神野御旅館 殺戮工藤左衛門尉祐経 と当日の仇討を記しており、それ以前の記事に工藤家の事情や仇討の前兆について記し、翌日の条に頼朝が五郎に仇討の宿意を尋問する件を記している。 『吾妻鏡』は後の編纂であるから、曾我の件も、事件後時間を経てから、種々の編集意図を以って、取り込まれたと見てよい。もっとも、記録の体裁は採っているが。 『曾我物語』は、兄弟の仇討を、主として兄弟の辛苦を題材として描いた物語である。この物語には、漢文体で記した真名本、これを読み下した大石寺本、そして仮名一二巻の流布本と、大略三種の本文が伝わっている。それぞれが作者を異にし、作者の想定した享受者も違っていたようである。 前二者は箱根権現の唱導の色彩が濃く、後者は都の浄土宗の影響が大きいのである。『曾我物語』は、原形の成立の後、享受者に応じて改作されたらしい。それに、「七十一番職人歌合」や能の「望月」によれば、この物語は、盲目の女性が口語りで語る「語り物」でもあったようである。 『曾我物語』が成立する前に、また、『吾妻鏡』に記される前に、兄弟の話は、早くから人の口に上り、人から人へ、東国から京へと、口承で伝えられた段階があったであろうと推測される。 曾我の話は、このように、最初から口承で語られ、それが文宇化され、あるいは口誦され、あるいは戯曲として演じられ、様々な形で享受されたのである。物語はその中の一形態に過ぎない。
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最終更新日
2020年08月05日 06時57分28秒
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