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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月05日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲州の財閥 篠原忠右衛門

 

  『甲州 郷土と人』

  昭和45年発行

  発行者 古川 司・編集 佐藤森三氏

飯田文弥氏著

 

 篠原忠右衛門、後にひろく甲州屋忠右衛門の名で知られた彼は、文化六年八代郡東油川村の長百姓の家に生まれた。

少年時代彼の才能はときの石和代官に認められ、江戸に伴われて金座で働くことになった。のち父の死により郷里に帰り、まもなく名主となって村政にあたり、また郡中惣代ともなって、その活躍は多方面におよんだ。彼が五十歳のとき、つまり安政六年は横浜開港の年である。

彼は外国商人相手の貿易を志し、率先横浜へ進出して甲州屋を開業、甲州物産の取引にあたった。

彼はわが国における生糸貿易の創始者であった。

そしてまた後につづく甲州の商人たちの先駆として大きな役割を果たしたが、財閥化への道をとることはできなかった、

明治初年、十数年にわたる甲州屋を閉じ、その後岩手県で鉱山業、あるいは神奈川県下で開拓に携わるなど多彩な活動をみせた。

明治二十三年郷里の富士見村の村長となり、

翌二十四年十二月八十二年聞にわたる生涯を閉じた。

 

 横浜開港

 

 今から百十年前、安政六年(一八五九)のことである。

それまで単なる一漁村にすぎなかった横浜が、貿易港として開港されることを聞いて、各地から横浜を目ざしていち早くかけつけ、

貿易を目論んだ数多くの商人たちがいたが、その中に二人の甲州人の姿がみられた。

一人は八代郡東油川村の篠原忠右衛門、

もう一人は隣接する広瀬村の川手五郎右衛門である。

その前年日本がアメリカその他の国々との間に結んだいわゆる通商条約によって、二世紀余にわたる長い鎖国政策の夢が破られ、これからいよいよ日本全体が、外から押し寄せてくる国際資本主義の大きな波に揉まれようとする、そしてまた明治になるには、まだ何年という物情騒然たる時代の最中であった。

 

はじめ幕府は盛んに貿易商人を募ろうと勧誘策をとったが、江戸の商人たちは見向きもせず、まもなく三井その他の大商人たちが横浜に店を開くようになったが、むしろ外国貿易にたいし積極的な意欲を燃やして横浜へ進出していったのは、地方出身のまさに一画千金を夢見た新興の商人たちであった。

 

忠右衛門は幕府のこうした方針に応じて、隣村の五郎右衛門を誘い、横浜に甲州屋を開くことを決意したのであった。ときに彼はすでに五十歳に達していた。

 当時とすれば、すでに老年期にはいっていた忠右衛門は、彼の家の経済状態からしても、楽隠居の身として余生を楽しむごとができたにちがいないが、どうしてまた外国商人相手の危険きわまりない取引に従事しようというのだろう。同じ商売をするにしても投機的なものからは遠ざかり、堅実な営業にこそ活動の場を見いだすべき年齢であったのに。

 忠右衛門の場合は、これからが歴史上、彼の名をなさしめる活躍の時代となるのである。こうして彼の生涯は、五十歳を境として前後に分けてみることができるのであるが、その前半生の生活の中に、やがて彼の日を大きく外に見開らかせるものがあったにちがいないと思われる。

 

  名主 忠右衛門

 

 甲州の国中地方のうちでも、とくに東郡(ひがしごうり)とよばれる地域は、江戸時代をとおして農業生産は豊かで、養蚕業も元禄時代ごろから盛んにおこなわれるようになって、経済的には最も恵まれていた。この辺一帯の長民の第一の現金収入として、蚕飼(こがい)から繭取り、そして製糸という生産工程は、あらゆる階層の農民によって営まれてきたところの副業であった。

生産物である生糸は、その多くが京都への「登せ糸」となり、また部分的には郡内の機織(はたおり)地へも送られたりしていた。忠右衛門の生まれた東油川村(現在の東八代郡石和町東油川)で、養蚕業がさかんに営まれるようになったのは、ややおくれて江戸時代も後期になってからであった。

 彼がこの東油川村の長百姓金左衛門の次男として生まれたのは文化六年(一八○九)のことである。彼の少年時代における学問的修業については何も伝えられていない。ただそのころの石和代官山本大膳にその才を認められ、江戸に同伴され、金座で働くようになったという。

少年時代から青年期にかけて江戸の空気に触れ、激しい都市経済の動きに揉まれたことは、平和な農村の自然とただ耕作にのみ精を出している当時の農民の生活からは掴みえない、世の動きにたいする敏感な目と合理性を養わせていったにちがいない。

しかし江戸での生活が、後年の彼の商業活動に影響をあたえることはあったにしても、その間には多くの人びとと同じようなかなりの廻り道があり、しかも彼の活動の契機となる開港の時期にはまだ間があった。

 まず父の死によって忠右衛門は故郡に呼びもどされた。家督を継いだ彼は父が村役人であったことから、その跡を継いでまもなく名主となった。これまでの江戸での生活とはうってかわった農村の繁雑な村政がまちかまえていた。しかし彼はとくに産架開発に意を住いだ。それは養蚕業の発展につとめようと桑樹の植え付けを奨励し、優良蚕種を考案してその指導にもあたったことである。彼の家は、当時持高三十石ほどというから、面積では三町歩(三ヘクタール)に近い田畑をもった村内での有力な上層農民であった。こうした富裕な農民による商業活動は、募末に近づくにしたがって広くみられる現象であったが、忠右衛門自身こうした豪農クラスに属し、蚕糸業の展開によって比較的商品生産の活発な地域を、彼の生活の周辺に背景としてもっていたことは、やはり彼の後年の活動のための条件となるものであった。

 世の中がこのまま推移したならば、彼は郷里にあって、村の政治と殖産の指導者として平穏な生涯を送ることになったかもしれない。そのような意昧で、開港は忠右衛門個人の一生にとって大きな影響を及ぼす事になった。つまり開港の知らせは、彼の時勢を見る敏惑な目を大きく見開かせると同時に、彼の投機性を裏にもつ商業への情熱をよびさましたのである。

   

 横浜の開港は、まず甲州が比較的横浜に近いという地の利もあり、また貿易品として外国商人にうける生糸や蚕種の生産地であったことから、甲州の冒険的投機的な商人たちの心をかき立てた。

その先頭に立ったのがまさしく忠右衛門であった。

外国貿易を願い出るとき、彼は広く近村の村役人を集めて貿易の有利さを説いたというが、ここに彼の時勢を見る目があった。

ところが「毛唐(けとう)なぞと取引きするとは」というのが多くの人たちの考えであり、まったく未経験の外国商人相手の取引に、彼らが不安がったのも無理からぬことであった。

 

 その年の三月、五郎右衛門とともに江戸に上った彼は、貿易の手続きや資金の調達などに奔走した。

やがて二人は港に近い場所に三百坪(約十アール)ずつの地所を借りうける許可を得て、別々に甲州屋を開業することになった。綴浜本町二丁目に間ロ十五間の店舗を構えたのである。

しかし最初外国奉行に願い出てから、店舗の借地場所をここに決めるまでには、数回にわたる変更願いなどに労を費やした。商売を有利にするためには、できるだけの条件を備えなければならないが、またそのためには彼の------あるいは後に続く甲州出身の実業家に共通してみられることから、甲州人独特のといってよいかも知れない------粘り強さがあった。

 こうして忠右衛門は六月二日の横浜の開港日をまたずに、生糸をはじめ甲州産の物資を入荷し、倉庫に積み上げたという。始め彼の考えとしては、甲州産物会所の名のもとに、郷里の村々の豪農たちから出資を仰ぎ、共同経営のかたちで店舗を設けようという構想であったともいわれる。それは実らなかったが、彼の進取の気性と取引にたいする積極性は、いよいよ外人相手の商売に当たろうというのである。

 

開港日から六日後のことである。忠右衛門は奉行所へ次のような伺いを出した。

それは手持ちの生糸を中国人ハショウが購入したいと言っているが、この申し入れに応じてよろしいかどうかというものである。

その結果、取引の許可が得られて、七月のはじめハショウの手を経て、イギリス人バーバーとの間に正式の交易が行なわれたのであった。これが日本で最初の生糸売り込みであったとされ、彼が生糸貿易の先駆者といわれる由縁は、上のような史実に基づくものであった。

その後、外国商人との間に、引き続いて生糸その他の商品の取引が行なわれていったことはいうまでもない。甲州屋の経営は順調であった。

 郷里を離れて横浜で貿易に従事する忠右衛門は、東油川の自宅の経営は二人の子にまかせていたが、しばしば手祗で農業経営を具体的にどのように進めていったらよいか、そのプランを、たとえば商品生産としての蚕糸業を重点的な経営内容として、田畑の耕作については日雇いの使用を指示するなど、そこには、はっきりと従来の農業経営を転換する方向が打ち出されていた。そして、さらに横浜での生糸取引の奸況に支えられて、彼は郷里の篠原家の経営を養蚕・製糸に専念するようにと指示するのであった。

 このように耶里の長架と養蚕経営が、撰浜での生糸貿易と密着したかたちで営まれているということは、まったく篠原家に特有なものであったにちがいなかったが、開港という事実は、否応なしに当時の農民の生活に大きな影響をもたらしていたのであった。

 

 後に続く人達

 

「甲州から数人の商人がご出張なされ、また毎晩数十人の人々が当方にお泊りになりますが、次々と送られてくる荷物もたくさんなため、まったく寝る所もないありさまで、毎晩あがり口などに雑魚寝しているような状況です。」

忠右衛門が郷里の長男に送った手紙の一節である。二階は宿泊所も兼ねていた甲州屋は、この手紙に示されるような活気があった。そして五十歳を過ぎたとはいえ、彼の身体は取引にたいする旺盛な意欲に燃えて、少しも衰えをみせなかった。

 

 このころ甲州産の生糸を中心に、外国貿易を営もうとする甲州の商人はしだいに増加してい      った。彼らにとっては、いち早く横浜に甲州屋を開店した忠右衛門は、まさしく同那の先輩で      あった。だから彼らの多くは甲州屋に草鞋を脱いだ。

 

後に財閥化する若尾逸平もその一人で、甲州屋へ委託荷をてんびん棒で運んでいたころであった。こんな話が伝えられている。

 ある日のこと、甲州屋の帳場で主人の忠右衛門が次男と、甲州産の水晶を買ってきて外国人に売ったら儲かるだろうと話し合っていたところ、たまたま立ち聞きした逸平が、先まわりして甲州にとび帰り、水晶の買い占めにかかって巨利をおさめることができたというのである。

立ち聞きされたものも、立ち聞きしたものもともに甲州の商人であり、そこに着眼したものも、先まわりして直ちに行動に移ったものも、いかにも敏感さと洞察力を備えた忠右衛門と逸平ではあった。

 

横浜貿易で一旗上げようとしたこれらの商人の買い付けによって、甲州産の生糸の需要は高まり、これから後、山梨の蚕糸栗は、ますます発展の方向をたどっていった。

 長い鎖国経済から海外貿易に一大転換を遂げたこの時機をのがさず、横浜の新舞台に進出し活躍した忠右衛門は、甲州人の典型といえよう。

周囲を山で隔絶され、他地域との交流にとぼしく、ともすると世の進運にとり残されてしまいそうな山国甲州の人びとは、かえってある時機に際して、それをのがさない敏感さをもっている。しかも歴史的には江戸時代をとおして長い間天領として中央集権の片すみにおかれていた甲州は、藩制の下におかれた人民と違って保護者をもたず、けっきょくは自己の力によらなければならない。そのような意味においても、募末の開港と、それに続く混乱の時代に、忠右衛門は甲州人の先頭に立ったといえよう。

そして、彼に統こうとした多くの甲州人の中から、後に甲州財閥の巨頭と仰がれる若尾逸平や雨宮啓次郎などが輩出していったのである。






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最終更新日  2020年08月05日 19時29分21秒
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